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【大久保利通】
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薩長同盟から戊辰戦争へ
後に久光からは信頼され、名前(通称)も貰っています。
大河ドラマ『青天を衝け』でも久光に信頼されてるような会話のシーンがありましたね。
このへん、島津斉彬を信奉していた西郷隆盛が、島津久光と険悪だったことを考えると、大久保の方が政治家としての素質を感じさせます。
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そして順調に出世していった大久保は、やがて京都で岩倉具視などの公家とも知り合います。
【第二次長州征伐】の頃には、藩の去就に口を出せるほどの位置にいました。
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久光に本を貸してから10年ほどのことですから、大久保の出世スピードの早さを実感できますね。
なお、この第二次長州征伐の前に、薩摩と長州は極秘で薩長同盟を締結。そうとは知らず西郷に長州攻撃を託した幕府の攻撃は失敗に終わります。
結果、その後の幕府は後手後手に回ることになり、徳川慶喜の大政奉還へ。
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程なくして【鳥羽・伏見の戦い】が勃発し、戊辰戦争へと向かうのでした。
なお、この武力による倒幕は薩摩藩や岩倉具視は反対のスタンスでした。
西郷らの主導で進められ、全国を巻き込む戊辰戦争へと発展しており、その後、二人が西南戦争で戦うことになるとは皮肉というほかないでしょう。
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薩摩なのに荒っぽいことが苦手
元々荒っぽいことは苦手な大久保です。
ゆえに倒幕に関することでは真っ先に陣頭に立つというよりは、節目節目で自分の意思を主張するというスタンスでした。
明治維新においては廃藩置県などの大きな改革を担当し、ついに日本全体の政治中枢で活躍することになります。
明治時代に入ってからはその他にも多忙を極め、岩倉使節団の一員としてヨーロッパ諸国へ行ったりしています。
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この時期、日本国内に残った西郷らの間で征韓論が起き、帰国した大久保らと仲違い。
同時期に起きていた【不平士族の反乱】を経て、西郷と大久保の間に亀裂が生じ、ついに決定的な事件へ発展します。
そうです。西南戦争ですね。
西南戦争が勃発した直接的な契機は様々に囁かれますが、ともかくこの内戦が日本にとっては大きな打撃だったことは言うまでもないでしょう。
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大久保は、一連の内乱の鎮圧を指揮したり、国内政治に奔走するなどして、自宅で夕食を食べることも難しいほどの忙しさだったといいます。
それでも家庭を大事にしており、出勤前には娘さんを抱っこしてから出かけたり、毎週土曜日は家族揃って夕食を摂るなど、微笑ましいエピソードが伝わっています。
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