大久保利通

大久保利通/wikipediaより引用

幕末・維新

大久保利通49年の生涯まとめ~紀尾井坂に斃れた維新三傑の最期は自業自得なのか

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【将軍継嗣問題】

斉彬が亡くなる直前の時期、薩摩藩は中央の政治と大きな関わりができていました。

いわゆる【将軍継嗣問題】です。

徳川家定のあと、誰が将軍になるべきか?

薩摩藩は、家定の正室として篤姫を送り込み、政治工作に着手。

しかし、どうにも夫妻は子に恵まれず、そこで目的は、意にかなう次期将軍の擁立へと変貌してゆきます。

斉彬は【一橋派】の代表格であり、一橋家の慶喜を強力にプッシュしました。

慶喜は成人しており聡明である。黒船来航以来の混乱する政治情勢の中、彼こそ適任だ――というのはあくまで表向きの理由でしょう。

実際は、慶喜の父である斉昭と、そのブレーンである藤田東湖の推しが強かったという状況がありました。なにせ、当時は一橋派であった松平春嶽が、後に「あの斉昭の推しに騙された」と苦々しく振り返るほどです。

では薩摩藩はなぜ慶喜を推したのか?

というと、紀州藩の徳川慶福(のちの徳川家茂)より、一橋慶喜の方が声が通りやすいということでしょう。

外様大名の支援を受けて将軍になったからには、合議制のような体制ができるのではないか。そんな期待もあったのです。

結果、この問題は【南紀派(紀州)】の勝利、【一橋派】の敗北に終わりました。

ただし、南紀派というのも紀州を強く押すというよりはアンチ一橋派と言えます。

斉昭は強引すぎて危険である。あんな奴の息子を将軍にしたら幕府は崩壊するのではないか? そんな強い嫌悪感が背景にあったのです。

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そうした懸念があまりに強かったのでしょう。

井伊直弼は、強引な政治工作を推し進める【一橋派】に対し、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて【安政の大獄】で大弾圧を強行。

大久保利通と同年だった長州藩・吉田松陰も処刑されたことで知られますね。

しかし松陰は、軽微な嫌疑で捕らえられていただけで、本来ならすぐに釈放のはずだったのに、自ら「間部詮勝の暗殺」という驚きの犯行計画を口走って処刑されていますので、ここも注意が必要です。

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いずれにせよ薩摩藩士もこの弾圧には落胆するしかありません。

中でも計画にのめり込んでいた西郷隆盛

懇意にしていた福井藩の若き俊英・橋本左内も処刑されると、傷心の西郷は僧・月照と入水自殺をはかります。

結果、月照のみが命を落とし、西郷は生き延び、大久保の生涯に関わっていくこととなったのです。

 

「国父」久光の信頼を得る

西郷隆盛が情熱的に活動する一方、大久保利通は冷静でした。

ここはいっそ島津久光に取り行ってみてはどうか?と画策。

久光は斉彬の弟であり、彼自身は藩主ではなく、12代藩主・島津茂久の父にあたります。「国父」と呼ばれ、まだ若い茂久に代わり、藩政を取り仕切っていました。

西郷隆盛との相性は最悪でありながら大久保とはそう悪くなく、利通は、両者が得意とする囲碁を介在しながら、久光との対話を進めます。

久光は、幕府よりも朝廷を重んじる尊皇攘夷思想が込められた上申書に、一応は目を通しながら、それに従うつもりは毛頭無し。

情熱的な若い連中の手綱を捌くにはどうすべきか?

大久保利通に精忠組を牽制させながら、久光は藩政への介入を避けてゆきます。

久光は、暗愚どころか幕末でも有数の切れ者ゆえに、イエスマンであった長州藩の「そうせい侯」こと毛利敬親と比べて扱いにくいとされるのでしょう。

暴走する家臣の手綱を握るのは“殿”として当然の政治的判断とも言えますが、薩摩隼人の暴発は簡単には収まりません。そして……。

安政7年3月3日(1860年3月24日)――雪の降る江戸の町に血の雨が降ります。

【安政の大獄】で大鉈を振るった井伊直弼が暗殺された、ご存知【桜田門外の変】が勃発するのです。

このとき現場には、独特の“猿叫”も響いていたことでしょう。

なにせ、首を落としたのは薩摩藩士の有村次左衛門だったのです。しかも有村の弟・雄助は、京大阪で挙兵すべく西へ向かっていました。

激怒した久光は、切腹を命じます。

利通はこの時、時節到来とばかりに京都および江戸藩邸への出兵を提案しましたが、久光は却下し、有村雄助に追っ手を放って殺害させたのです。

久光の行動の意味はある意味当然でしょう。

井伊直弼の殺害を図った水戸藩士たちは脱藩者であり、まだ藩の責任は回避できなくもありません。

しかし有村兄弟は藩に所属していた。

ゆえに、きっちりと迅速に処断すべきだと決断したのです。

利通にしてみれば、そんな久光の態度に失望を覚えたかもしれませんが、薩摩を預かる責任者として理性ある行動をとったと言える。

こうした意見の齟齬ゆえか、精忠組たちはこう考えるようになります。

久光にはない、斉彬公の遺志を継ぎ、実現するのは我らである――これにも注意が必要でしょう。

松下村塾出身者たちが、ことあるごとに吉田松陰の遺志を持ち出すのと同じく、大義名分論として利用しているとも思えるのです。そもそも斉彬と久光の兄弟は親しい仲でした。

一橋派の謹慎が解けると、薩摩藩は上洛を果たし、幕末政局の中心に居座ることに成功します。

どこまでが久光自身の意思なのか、大久保利通らの介入がどの程度あったのか。

それはなかなか難しい問題といえます。

並び称される大久保利通と西郷隆盛――その幕末期の歩みはかなり異なります。

それは島津久光との関係が強く影響しているためで、久光と相性が最悪の西郷隆盛は幾度も衝突し、結果、二度も流罪に処されました。

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一方で大久保利通はそつなく命令をこなし、【寺田屋事件(騒動)】の処理では、明治天皇の恩人・田中河内介を殺してしまうほど。

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政治的な局面で冷静な手駒として動くため、大久保利通に冷たい印象がついてしまうのも致し方ないのかもしれません。

幕末の薩摩藩士は、長州藩士や水戸藩士よりもずっと冷徹で、別に大久保だけのことでもないのですが……。

冷徹で情報把握にも長け、久光の命令を淡々とこなし、さらには長州や会津ともぬかりなく協調できる。

それゆえ上層部からの信頼も厚く、出世するのはある意味当然と言えるのかもしれません。

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