伊藤博文と渋沢栄一はテロ仲間

幕末時代の渋沢栄一(左)と伊藤博文/wikipediaより引用

幕末・維新

渋沢栄一と伊藤博文は危険なテロ同志~大河でも笑いながら焼き討ち武勇伝

大河ドラマ『青天を衝け』で衝撃的なシーンがありました。

主人公である渋沢栄一と出会った伊藤博文が、若い頃のヤンチャ自慢をするように【英国公使館焼き討ち】の話を始めたのです。

焼き討ちとは、現代でいえば「テロ活動」。

ガイジン、おまえら気に入らないんじゃ。出てけ。言うこと聞かない? だったら燃やしてやんよ。

という姿勢で、通常の感覚なら褒められたものではありません。

それが無反省の態度でどうしたことか……。

実は史実に注目しても、若い頃の渋沢栄一と伊藤博文は尊王攘夷の【テロ同志】と言えます。

かたや資本主義の父と呼ばれ。

かたや日本初の総理大臣であり。

お札の顔にまでなる二人の信じられない話かもしれませんが、実際に記録が残っているのだから仕方ありません。

では一体、二人はどんなテロ活動をしてきたのか?

ドラマでも栄一と博文が意気投合していた怖い理由を見て参りましょう。

 

坂下門外の変

『青天を衝け』は、他の幕末作品ではあまり取り上げられないマイナー事件に注目することがあります。

10話では【坂下門外の変】が描かれ、公式サイト「今週の栄一」ではこう記されていました。

大橋訥庵や河野顕三に出会い、草莽(そうもう)の志士になることを決意する

さらに以下のインタビュー記事では

◆大河ドラマ「青天を衝け」裏話:眼帯の志士・河野顕三は史実でも眼が悪かったのか 俳優・福山翔大に聞く(木俣冬)(→link

河野顕三という志士が好青年かのように書かれていました。

また、満島真之介さん演じる尾高長七郎がみつけて本にした河野さんの稿本『春雲楼遺構』のあとがき(満島真之介の公式ツイッターにアップされている)に書いてあったことが参考になりました。

長七郎と河野は親友だったことは事実でそのあとがきに、どれだけ長七郎が河野の考え方に共感していたかわかります。

長七郎は河野が亡くなったあとお墓参りにいって、残っていた稿本を見つけて、印刷して本にしたんです。

あとがきには栄一にも河野がいかにすばらしい人物だったか世の中に伝えるために出版を手伝ってもらったと書いてあります。

河野は、渋沢栄一のイトコ・尾高長七郎と親しく、共に【坂下門外の変】の謀議に参加していたことが確かです。

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そうした状況を踏まえつつ、坂下門外の変について、5W1Hをまとめてみましょう。

いつ:文久2年1月15日(1862年2月13日)

どこで:江戸城坂下門外

だれが:平山兵介(水戸藩激派)、黒沢五郎(水戸藩激派)、小田彦三郎(水戸藩激派)、川本杜太郎、高畑房次郎、河野顕三

何を:老中安藤信正暗殺

なぜ:後述します

どのように:杜撰なテロによる襲撃

平山や黒沢など、幕末史ではあまり注目されませんが、彼らが所属している【水戸藩激派】は非常に危険な存在です。

後に筑波山で蜂起し、上洛を目指す天狗党の中核にもなっており、幕府としては到底放置できない危険な思想集団でした。

ゆえに水戸藩に対し、処罰を求めていたのですが……。

彼らは反省どころか逆恨み。

逆に、諸外国に対して開港し、朝廷との公武合体をすすめる幕府を恨み、老中・安藤信正の命を狙うことにしたのです。

もはや「やられる前にやれ」という姿勢でムチャクチャ。

しかも安藤信正は、長州藩の件でも恨みを買っていました。

 

長州藩過激派は水戸藩激派に憧れる

そのころ、長州藩の松下村塾生たちは水戸に憧れを抱いていました。

「心即理、知行合一」を実践する志が高い人たちだ!

と、こう書けば熱血青春日記のようではありますが、中身は要するにテロです。

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吉田松陰はこう言いました。

「諸君、狂いたまえ!」

毒を薄めて広められていますが、このフレーズもまた「尊王攘夷テロを実現に移そう」という暴力の煽動です。

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そんな長州藩士からすると【桜田門外の変】を実行した水戸藩士は憧れの的。

かくして「テロで自分探し」をする計画の一端として、安藤信正の謀殺が持ち上がったのですが、長州藩の桂小五郎は「計画が雑すぎる」としてストップをかけました。

しかし、実行されてしまいます。

直前に黒幕の大橋訥庵が逮捕されてしまい「もういっそやっちまえ!」と血気盛んな連中が流されてしまったのです。

当然、そんな成り行き任せで成功するわけなく、あっさりと護衛に返り討ち。

安藤信正は命に別条はないものの、後日、失脚の憂き目に遭ってしまいます。

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このとき、遅刻して参加できなかった川辺佐治衛門という水戸人がいました。

川辺は長州藩邸に駆け込み自害。

死ぬ間際、桂小五郎に安藤信正殺害理由を記した「斬奸状」(※悪人を殺害する際、理由を記した書状)を託しています。

そして偶然、この書状を読んでしまった人物がいます。

血気盛んな長州藩士・伊藤俊輔――後の伊藤博文でした。

 

廃帝の噂がテロにつながる

伊藤俊輔は「斬奸状」のとある部分に着目。

“安藤信正が国学者に廃帝の先例を調べさせた”という記述を見つけます。

と、これが良くなかった。

帝を廃位させるつもりか!と、頭に血がのぼったのか

あるいは国学者であれば幕臣と違ってガードが甘いと思ったのか。

伊藤は、こうした国学者たちも【暗殺リスト】に載せ、行動に移してしまったのです。

塙次郎(忠宝):文久2年12月22日、江戸三番町自宅にて暗殺

宇野東桜(八郎):文久3年1月13日、江戸新橋にて暗殺

鈴木重胤:文久3年8月15日、江戸小梅自宅にて暗殺、死後冤罪と判明し、正五位追贈

中村敬宇(正直):未遂

殺すと思ったら殺す――それが陽明学や水戸学に傾倒した幕末志士たちの心意気でした。

といっても伊藤がすべて暗殺したわけではありません。

山尾庸造と共に、塙(とその場に居合わせた加藤一周)を殺しました。

宇野東桜の殺害は高杉晋作が命じています。

宇野は長州藩上屋敷・有尾館に連行され、刀を取り上げられた上で殺されたのです。

中原邦平が明治42年(1909年)に記した『伊藤公実録』によれば、伊藤は殺害をこう振り返っています。

「(宇野は)吾輩が殺したという訳でもないが、皆がグズグズしているから、ひとつやってやろうと思って、短刀を彼の喉に突き突けようとした。

ところが遠藤多一が短刀を手にした吾輩の手をとって、すぐに突っ込んでしまった。

そうすると白井小助めが刀を抜いて、横腹をズブリと刺して殺したのだ」

「遠藤多一が吾輩の手を……」と言い訳していますが、つまりは伊藤の手で殺しているということですよね。

宇野の遺骸は薦に包まれ、伊藤ら3~4名で屋敷の近くに捨てました。

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