明治維新後の江戸と大奥

弘化年間(1844~1848年)の江戸/wikipediaより引用

幕末・維新

明治維新で江戸の街や大奥はどうなった?大河で描かれない不都合な歴史

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明治維新後の江戸の街や大奥
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私が留学したのはダンスをするため?

大山夫人となった彼女の使命は、鹿鳴館で華麗なステップを踏むことでした。

ドレス姿の大山捨松/wikipediaより引用

『私が留学した意味は何かしら、ダンスをすることばかり?』

そう嘆いてもおかしくない捨松は、旧友によって救われます。

留学仲間の津田梅子が、女子教育への道を捨てずに邁進。

彼女への援助を惜しみなく続けました。

そしてついに明治33年(1900年)、梅子は「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開くのです。

左から、梅子、ベーコン、瓜生繁子(旧姓永井)、捨松/wikipediaより引用

梅子は、たった一人で女子教育を目指したわけではありません。

あの伊藤博文も、彼女の援助をしています。

ただし、彼女らの理想の実現までは、時間と手間がかかりました。

当時の政府はじめ世間は、大奥型と言いましょうか。女子として、結婚相手としての教養や知性ばかりを求めていたのです。

欧米型の知識欲を促す女子教育は、梅子や捨松といった留学仲間が意志を結集しなければ難しいものでした。

どうしても、政府はじめ上層部が目指す教育と、女性自身が目指す教育の間に、隙間風が吹いていたのです。

ここもあまり語られることのない新政府の欠陥ではないでしょうか。

 

帝都が野良ウサギまみれに

『西郷どん』では、島津久光による参勤交代中止が英断として取り上げられました。

出費の嵩む大名行列は、確かに藩の財政を大きく損ねるものです。

が、これをただの英断と見なすのは、いささか疑問が残ります。

参勤交代の中止は、江戸、そして後の東京における環境悪化を招いてしまいました。

それというのも、放置された大名屋敷が荒れ果てたからです。跡地を田畑とする動きもあったとはいえ、大名屋敷跡地が向いているわけもなく……。

大名屋敷の整備をしていた庭師等も、失業しました。

江戸っ子からすれば、薩長が余計なことをした――となっても仕方ない話です。

もしも跡地利用が上手で、うまい後釜ビジネスを武士向けに勧めることができていれば、批判はされなかったのでしょう。

しかしこれが、散々な結果に終わるのです。

幕府を失った幕臣たちの進路は、当時、3ルートありました。

1. 明治政府に出仕する

2. 農業や商業に転向する(殖産興業・士族授産)

3. 無禄で、幕臣として静岡藩に移転

さて、どれが人気だと思いますか?

「1」 は、上司がほぼ薩長閥だわ、裏切り者っぽいから「やってられねえ」。

「2」 は、勧められる産業がショボすぎて失敗に終わる。

そこで最も選ばれたのが「3」です。要は、消去法で選ばれたわけですね。

ただし、この「3」には大きな落とし穴が待っていました。

なんせ無禄ですから悲惨そのもので、一家餓死、あるいはたまに腹一杯食べて突然死する者もいたと言いますから、不憫でなりません。

実はこれは、薩長はじめとする明治政府にとってもお粗末な話でして。

薩長は地方藩であり、全国区の統治は未経験です。

明治の藩閥といえば、陸軍の長州と海軍の薩摩が有名ですね。

これは「武」という武士の特技を生かしたものだからこそ問題はありませんでした。

しかし、そうでない産業は

「どうしたらよいかわからない」

のです。

例えば、外国との外国語によるやりとりは、幕臣のほうがはるかに得意でした。

津田梅子の父・仙や、福沢諭吉が特技としていたわけです。

津田仙/wikipediaより引用

もちろん藩閥なんてこだわっている余裕もなく、出仕させられた者もおりました。

しかし、福沢のように「やってられねえ」と拒む者もおります。

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明治政府は、地元ばかり優遇してないで(藩閥政治)、他にもっとやり方があったのでは?

そんな風に突っ込みたくなるのも仕方ないでしょう。

ついでに「2」の産業についても少し見ておきましょう。

津田梅子の父である津田仙は、数少ない産業成功者でした。

明治政府の指導がよかったというよりも、外国人農業専門家のアドバイスにより適切な西洋野菜の栽培が進み、大成功を収めたのです。

当時の日本は外国人を迎え入れておりました。つまり、西洋流の食事を作らねばなりません。

しかし、西洋野菜や肉、乳製品は少なく、なんとかして生産しなければならないのに、誰にも肝心の知識がありませんでした。

そこで明治政府は、大名屋敷の跡地等で桑や茶の生産を指導したものの、ことごとく失敗。

明治初頭の東京は人口が減り、土地は荒れ果て、華やかな帝都からほど遠い様相となっていたのです。

こんな話があります。

明治政府は、当時の士族にウサギ飼育を奨励しました。

食用の肉として育てようとしたのです。

しかし、です。

ヌケサクとしか言いようがないのですが、肝心の処理方法を指導しそこねたため、東京は一時期、野良ウサギまみれになってしまったとか――。

こうした迷走を知ると、津田仙をどうして政府で招かなかったのか、とツッコミを入れたくなってきます。

 

江戸ブームや西郷どん贔屓はなぜ起きた

教科書や授業、そして大河ドラマでは、輝かしいものとされる明治維新。

しかし、江戸っ子中心に、明治当時の帝都では、

「江戸のほうがよかったぜ」

「薩長め、いい加減にしろ」

という怨嗟の声が上がっておりました。

明治政府にとって頭痛の種である不平士族の反乱が起きると、当時の江戸っ子はハッスルしたほどです。

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しかも露骨に、反乱側に肩入れしました。

「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまが今にまたお帰りになるに決まってらァな」

「そうよ、そうよ」

当時は、女性同士でも盛り場でこんなふうに語っていたとか。

西南戦争では、西郷隆盛が新政府に一泡吹かせてくれているということで、当時の江戸っ子は手に汗を握って西郷を応援したと言います。

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これは西郷人気というより、薩長政府が不人気だという顕れかもしれません。

会津藩のように佐幕派負け組から陸軍や警視庁に入った側も「今度は薩摩が賊軍だべ!」と大喜びだったようで、こうした反乱のあと、江戸っ子の関心は自由民権運動へ移ります。

ともかく薩長どもに一泡吹かせたい――それは江戸っ子の夢でした。

明治時代から、過去を懐かしむ声はありました。

江戸時代が好きでたまらないというよりも、薩長の築いた「ばかくせえ明治よりも、権現様の江戸がよかったぜ」という、江戸っ子の赤裸々な本気と言えます。

 

江戸流クールビズもドコかへ消えた

明治政府は、江戸の智恵を滅ぼした悪しき部分もあります。

それは服飾文化、江戸流クールビズです。

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上記『相撲の歴史』の記事にありますように、江戸時代まで褌一丁の男性は当たり前に闊歩しておりました。

高温多湿の江戸では、その服装が一番効率的だったからです。

お洒落な男性は、褌ラインの陰毛処理がマナーとして定着していたほど。

以下は、1863年-1877年頃の飛脚写真で、なんとも涼しそうですよね。

1863年-1877年頃の飛脚写真/wikipediaより引用

西欧視察を推し進め、そして重視した明治政府によってこうした文化は廃れました。

追いつき追い越せ――という観点からは仕方のない決断だったのかもしれません。

ただ……やっぱり考えてしまいます。

西欧と日本では、緯度や気候が異なります。

むしろ飛脚レベルのクールビズこそ、日本向けではないでしょうか。

せめてポロシャツに短パンで通勤通学できたら、涼しくて最高だと思いません?

江戸流儀の良さを捨てずに西欧化を進めることがなぜできなかったのか。

明治維新の良さを褒めることは大河に任せ、江戸っ子を見直すのもまた一興だと考えてしまいます。

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文:小檜山青

【参考文献】
安藤優一郎『大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』(→amazon
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon
国史大辞典

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