徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

なんでこんなヤツが将軍なんだ!史実の慶喜はどこまで嫌われていた?

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一会桑政権

しかし慶喜はぬかりなく勢力基盤を強化していました。

会津藩と桑名藩を味方につけた【一会桑政権】と呼ばれる勢力がそうです。

会津藩主・松平容保は病弱であり、裏表のない人物。言い換えれば政治力は低い。その実弟である松平定敬も、兄に似た性質でした。

ただ彼らは、裏表がないだけに孝明天皇の好感度は高い。

政治力が低く、孝明天皇の寵愛を受けているこの勢力は、抱き込むにはもってこいです。幕府でもない、朝廷でもない、独自の勢力を慶喜は手にしました。

京都では大きな事件が続きます。

元治元年6月5日(1864年7月8日)に不穏な動きを察知した新選組が、池田屋を襲撃(【池田屋事件】。

元治元年7月19日(1864年8月20日)には、長州藩過激派が上洛し、御所を攻撃するも敗退(【禁門の変】)。

禁門の変は、慶喜が颯爽と戦場に立った唯一、最初で最後の機会といってもよいでしょう。その様は『青天を衝け』でも雄々しく描かれたものです。

意図していないところから勝手に勅が出され長州藩が暴走する――そんな事態に怒りを燃やしていた孝明天皇の意図を背景にしつつ、【奉勅攘夷】を掲げる長州藩過激派を抑え込む。

その動きはこうして完了しました。

江戸城が火災に襲われる不幸があったものの、家茂による二度目の上洛も決まります。

人格温厚であり、誠意あふれる家茂は孝明天皇から大事にされていました。家定よりも上の従一位となり、孝明天皇と饗応の席をともにしました。

 

天狗党処断という痛恨事

長州を京都から排除し、あらゆる事が順調に進む中、慶喜は「泣いて馬謖を斬る」としか言いようのない、非情の決断に迫られます。

元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山にて藤田東湖の遺児である藤田小四郎が天狗党を引き連れて挙兵。

軽挙妄動を諌めようとした武田耕雲斎も引きずられるように参加することとなります。

彼ら天狗党は、元を辿れば徳川斉昭の側近ですから、斉昭の鍾愛する慶喜のもとへ馳せ参じ、さらなる尊王攘夷を訴えようとしたのです。

自前の手勢を持たない慶喜にとって、天狗党は使える手駒とも言えます。

しかし、その手駒連中がよりにもよって長州藩過激派と接近していたのだからたまらない。

実は天狗党は【禁門の変】と連動して動いていたのです。

【禁門の変】で長州藩を叩き潰しておきながら、その連中と共犯関係にある集団が自分の配下から出た――絶体絶命のピンチを前にして、慶喜が出した決断は「切り捨てるしかない」ということ。

冷徹で現実的な判断かもしれませんが、慶喜は天狗党の追討を朝廷に願い出ます。

このことを知った天狗党は、絶望し、力尽き捕縛され、大量処刑の憂き目に遭うのでした。

武田耕雲斎と天狗党の乱
夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻~天狗党の乱がむごい

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安政の大獄】とは比較にならないほどの犠牲者を出したこの顛末。その酷さと慶喜の冷酷ぶりを知った大久保利通は「徳川の命運はもはや尽きた」と喝破しています。

実はこのとき慶喜と同じ考えに至った配下の者もいました。一橋家に仕えていた渋沢栄一です。

藤田小四郎とは互いに「畏友(いゆう・尊敬する友)」と呼び合うほど親しかった渋沢。

彼を頼り、天狗党の一員であった薄井龍之が上洛し、渋沢に助けを求めました。

しかし渋沢はこれを黙殺するのです。

渋沢は自著で藤田東湖の名言を引くことはありましたが、天狗党の追悼はごくひっそりとするに留まっています。

天狗党の流血など無かったかのように取り繕った慶喜も、政局に居座り続けています。

ただし、後年は、悔やんでいたのかもしれません。天狗党の話題になると口が重たくなり、暗い翳が顔に落ちたとされます。

他ならぬ渋沢が「辛かったに違いない」と同情していますが、そうした悔恨は『青天を衝け』で描かれることはなく、田沼意尊の独断による処刑として描かれていました。

そして、その同じ放送回で、慶喜と渋沢は早くも立ち直りかけています。

ああも軽薄な描写は、かえって慶喜と渋沢、そして犠牲となった天狗党を侮辱しているのではないでしょうか。

 

下関戦争と長州征討

禁門の変で京都から長州藩士が追い出され、彼らと誼を通じていた水戸の天狗党も慶喜に見捨てられる。

恐ろしい事態は終わるどころか、より過激に発展してしまいます。

イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関まで押し寄せ、長州藩が敗北したのです(【下関戦争】)。

この四国とは条約を結んでいます。

オランダなんてそれこそ江戸時代を通じての長い付き合いがある。

にもかかわらず襲来されたのは「奉勅攘夷」だと騒いで外国船を砲撃し、点数稼ぎをしていた長州藩の自滅に他なりません。

こうなった以上、孝明天皇も長州を厳罰に処したい。

そこでまず西国21藩に長州への出兵命令が出され、将軍・徳川家茂自らが進発を布告します。

征長総督は前尾張藩主の徳川慶勝であり、副将は越前藩主の松平茂昭。そして参謀には薩摩藩から西郷隆盛が加わっています。

当初は長州を潰すべく動いていた西郷。それも無理もなく【禁門の変】以来、長州藩士過激派は「薩賊会奸」と書いた草履を履いていたとされるほど薩摩と会津を憎んでいました。

しかし、勝海舟と会談を果たした西郷は発想を転換します。

追い詰めらたらむしろ結束しっせぇ、窮鼠噛んことになりもはんか――幕府内部を食い破りかねない魔星がひとつ、また飛び出していたのです。

結果【第一次長州征討】は穏便に終わります。15万の連合軍を前に、長州は為す術もなくあっさり降伏したのです。

・長州藩主である毛利敬親と世子の定広、および支藩主の官位を剥奪

・益田右衛門介と福原越後と国司信濃(くにししなの)三老臣の切腹と首級の提出

戊辰戦争】への批判として、松平容保のような藩主クラス(実際の容保は前藩主)の死罪がないということが挙げられます。

しかし幕末の武士にとって主君の死は最悪の侮辱であり、そこまで要求しないのが慣例。あくまで家臣の首でとどめておくことが前例でもありました。

長州を始末した。天狗党も消え去った。

西日本の動きに鈍感というか、そもそも横浜や横須賀においてフル回転で動き回らねばならない幕閣は、とりあえず落ち着いたことでしょう。

このころ幕府の小栗忠順は、まさしく文明開化の先駆けをしていました。

外国人をもてなす築地ホテル館、フランス式陸軍操練といった重要な事業に次々に取り組んでゆきます。

横須賀造船所にはスチームハンマーが輸入され、稼働も始まっていました。

しかし、このあと変わった「慶応」という元号は、幕府の幕引きに添えられることになります。

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