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【小栗忠順】
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通貨交換レートを分析し、金流出を防ぐ
もちろん井伊直弼から託された自分の役目も忘れません。
小栗忠順はフィラデルフィアで造幣局へ向かいました。アメリカ側は見学だけだろうと思っていましたが……。
「日米の貨幣価値を調べるため、金貨の成分を知りたい」
アメリカ側は焦りました。
今まで貨幣価値の不平等をつき、圧倒的に有利な取引をしてきたのに、それがついに暴かれてしまうのです。
「お時間がかかりますが……」
「それでも分析結果をいただきたい」
忠順は食事を造幣局まで持ち込み、粘りました。この忍耐強さにはアメリカ側も驚くほかありません。
それ以上の交渉は行われなかったものの、日本側は小判流出防止のため、金の含有量を三分の一にまで減らした「万延小判」を発行することに繋がります。
忠順の毅然とした態度、計算スピード、正確な見解は、アメリカを敬服させたのです。
要は、通貨交換レートに不当な差があると認めさせたのですね。
忠順の目的も終えた帰り道、一行は太平洋横断で帰国しようとしますが、ポーハタン号の修理に時間がかかりすぎる。
仕方なくナイアガラ号で大西洋を横断することとなり、結果、彼らは日本人初の世界一周体験者となりました。
この旅行で、彼らは世界の姿を見ました。
船酔いに苦しむ日本人を親切に助けてくれる親切なアメリカの水兵。
水夫の葬儀に上官が参加する身分のなさ。
選挙で選ばれる大統領。
阿片戦争に敗れ、支配されつつある清。
奴隷を使役する西洋諸国の人々。
当時の日本人には誰もなし得ない見聞を広め、そして帰国の途についたのです。
外交と経済通として活躍
帰国すると、日本はおそろしいことになっておりました。
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使節が帰国する8ヶ月前、小栗忠順を抜擢した井伊直弼は【桜田門外の変】で殺害。
志士による尊王攘夷テロの嵐が吹き荒れています。
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攘夷を唱えなければ武士ではない――そう藩士たちが訴えるため、大名の中にも攘夷を唱える者が出てくる有様。
期待を込めてアメリカに渡った一団は、攘夷派から真っ先に狙われかねない厄介者と化してしまったのです。
アメリカで仕入れた知識を語ったら、軽蔑されるどころか、殺されかねない。そんな恐ろしい状況の中、忠順は明晰な頭脳ゆえに抜擢され続けます。
「外国奉行」としての交渉役が役割となったのです。
忠順の政治外交姿勢は、井伊直弼路線でした。
もしも井伊直弼が生きていたらどうなっていたのか?
それは忠順の言動を辿れば把握できます。
忠順は、幕府と朝廷が共に政治を進める【公武合体】に批判的でした。
互いを干渉させない方がことはスムーズに進む。その点を重視していたのですが、この考え方は的中します。朝廷とりわけ孝明天皇を幕政に干渉させたため、幕府の権威は失墜し、倒幕へ繋がってゆきます。
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そんな忠順の強硬な方針は、対馬対策が典型的です。
文久元年(1861年)、ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生しました。ここで忠順は奇策を考えます。
対馬のような小さな藩では、外国に対応できない。むしろ開港したうえで幕府直轄領とする。場合によっては英国海軍の助力を得てはどうか?
忠順の発想には、三すくみと呼べる状態があります。
対立軸が日・英・露となればかえって膠着してよいのではないか? そんな柔軟な発想であり、後に日露戦争へと続いてゆく3カ国の関係を踏まえれば慧眼でしょう。
しかし、あまりに優れた策はかえって理解が得られ難いものです。
忠順は幕府から函館在留ロシア領事ゴシュケビッチとの交渉を命じられますが、病気だとして断りました。権限からしてゴシュケビッチと交渉をしても無駄だとわかっていたのです。
そして外国奉行の職も辞してしまいます。
幕府としては、その明晰な頭脳が惜しい。ために、その後も何らかの奉行に任じ、辞任、また別の役職に就く……そんなヤリトリを幾度も繰り返しました。
忠順は自分の意見を強硬に主張するため上司と衝突してしまい、ぶつかれば辞めてしまうのです。
「また小栗様がお役替えだってよ」
「七十回を超えたって聞いているぜェ……」
江戸っ子がそう噂するほどでした。
造船所のネジから始まる日本の近代化
そんな小栗忠順には「成し遂げるべき」だと考える事業がありました。
造船所です。
当時、国防を意識する日本では軍艦製造議論が沸騰。ここで意見が分かれます。
軍艦を購入すべきか?
それとも自前で作るべきか?
藩によっては工業や軍艦製造に着手はしておりました。薩摩藩の【集成館事業】が代表例です。
しかし、藩によって重点の置き方が異なり、水戸藩・徳川斉昭の場合、【廃仏毀釈】の前身ともいえる寺社仏閣弾圧の口実として造船をしたためか、使い物になっておりません。
そうした藩ごとの対処ではなく、幕府主導ですべきである。買うだけではなく、作らねばならぬ。それが忠順の信念でした。
外国から船を買っても修理できねばそれで終わるが、造船所があれば修理はできる――理にかなった考え方ですね。
では、どこから援助を受ければよいか?
オランダは大国ではない。イギリスは信頼できない。ロシアは南下を狙っているようで油断ならない。アメリカは南北戦争で大変な状態だ。
そんな中、忠順と親しい幕臣の栗本鋤雲が、フランス人のメルメ・カションと語学を教えあって交流し、ロッシュとまで交際するようになっていました。
幕府は消去法と栗本鋤雲の人脈もふまえ総合的に判断し、フランスを選んだのです。
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かくして幕府は、忠順のビジョンとフランス指導のもと、造船と製鉄に乗り出してゆきます。
小栗忠順が持ち帰った一本のネジから、日本の近代化は始まった――その通りです。
忠順の手がけた造船所は、それまでの水力ではなく蒸気機関を利用したものでした。
フランス人技師ヴェルニーの指導を受けた製鉄所では,フランス語の授業も含め、給与を払いながら技術を学べるシステムが採用されました。
造船所のために産業を興し、製鉄のために鉱山を開発する。大砲や武器を作る。
そこには国を新しくするビジョンが明確にあったのです。
同時に軍事制度も変えられてゆきます。
どの国を模範とすべきか? そんな議論があったものの、栗本鋤雲の推進もありフランス式に決定。
しかしその影で暗躍していたのがイギリスでした。
南北戦争が終結し、余った武器を売りたいグラバーが薩摩に接近していたのです。
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