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松前藩の歴史はドタバタの連続!? 石高ゼロで蝦夷地を守るハードモード

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幕末――。
それは日本各地が限界に達した時代と言えました。

黒船が来航したから?
いいえ、それだけではありません。

相次ぐ飢饉。
自然災害。
様々な対応に迫られ、どの藩も借金まみれとなり、それに加えて外国からの脅威まで重なったのですから、どうにもならない――それが幕末という時代です。

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そんな激動の最中、全国屈指のベリーハードモードに突入した藩がありました。

松前藩です。

彼らは新政府軍についたものの幕府軍に大敗し、さらには城下町で大火災という悲惨な事態に陥ってしまいます。

本日は、始まりから終わりまで――松前藩の歴史について見てみましょう。

 

コシャマインの乱で武田信広大活躍

蝦夷地――。
それは【中央政権に屈しない民族が暮らす土地】というのが、中世以来の和人による認識でした。

和人はアイヌをどう差別した?大和朝廷の「蝦夷」から振り返る1000年以上の歴史

東北地方は、和人の大名によって支配されたとみなされ、津軽海峡の向こうにある蝦夷地は未知の地。
その状況が変わったのは、実は室町時代です。

津軽海峡を含め、本州最北端を治めていた安東氏が、蝦夷地南部と交易をしていました。

現在の北海道南部は、アイヌ語由来と日本語由来の土地名が混在しています。
両者が混在していた証拠でしょう。

しかし、こうした暮らしも安寧に続いたわけではありません。

あるとき交易をめぐるトラブルが勃発。
口論の末、刀鍛冶がアイヌ男性を殺害してしまったのです。

かくして康正3年(1457年)。
コシャマインを中心としたアイヌが蜂起し、和人たちに弓を引きました。
応仁の乱が始まる10年前のことでした。

このコシャマイン父子を討ち取ることに成功したのは、武田信広という武将です。
松前藩主・蠣崎氏の祖とされているのですが、その経歴にはどうも誇張が多く、信ぴょう性はいまひとつハッキリしておりません。

松前藩祖であるため、話が盛られてしまったようです。
ま、ありていに言ってしまえば「正体不明の武将」かなぁと。

武田信広/wikipediaより引用

信広はこのあと、蝦夷地の和人館・上国花沢館の蠣崎季繁の娘を娶り、蠣崎と名乗るようになりまう。

たった一度の戦いで、素性不明の武将であった武田信広は立身出世。
その子孫も着実に力をつけ、蝦夷地南部を支配するようになったのでした。

 

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蝦夷地の大名・松前氏誕生

信広の治世から、数百年、時代が降りまして。
蠣崎慶広(1548-1616年)の時代、あるチャンス当来の話が、津軽海峡を超えて伝わってきます。

関白・豊臣秀吉による、天下統一です。

イラスト/富永商太

伊達政宗あたりにとっては残念無念、野望終了の合図となった話。

しかしこれを、
「天下人に認められ、大名になるチャンスだ!」
とみなす武将もいたのです。

蠣崎慶広もその一人でした。

奥州検地に豊臣家の家臣が派遣された頃の天正18年(1590年)。
彼らが津軽まで来ると知った慶広は、従属していた安東実季の許可を得て、上洛します。

聚楽第で慶広を認めた秀吉は大喜び。
従五位下にすると、蝦夷地を支配する大名として認めたのでした。

安東実季からすれば勝手に独立されて、複雑な気分だったでしょう。

慶広は、九戸政実の乱討伐に出陣した際、アイヌ風の衣装を身につけ、毒矢を装備した兵士を出陣させたそうです。
豊臣政権のもと、こうして蝦夷地を治める大名が誕生したのです。

政権が滅び、徳川にその権力が移り変わってからも慶広は巧みに立ち回ります。
家康と面会した際は、唐衣(サンタンチミプ、蝦夷錦で作った衣服、清朝官服)を着ていたそうです。

「おっ、その服いいね」
と、家康は興味津々。慶広は即座に脱いで献上したのだとか。
立ち回る慶広の巧みさがわかりますね。

蝦夷錦/photo by Nnn wikipediaより引用

こうして、蠣崎氏から松前氏となり、蝦夷地に藩が誕生します。

とはいえ松前氏によるアイヌの支配が認められたわけではありません。

アイヌと交易して、その利益で藩を運営してゆくこと。
異例措置の藩はこうして生まれたのです。

広大な蝦夷地をこんな小さな藩で統治できるのだろうかと、ちょっとツッコミたくなりますよね。

藩成立時は、そもそも統治を任せ切ったわけではないのです。
このことは更に時代が降るにつれ、大きな問題となってゆきます。

 

「無高」じゃない! 特異な大名

松前藩について調べだすと、まずぶちあたる疑問があります。

無高――。
すなわち収入ゼロ、石高ゼロ、ということです。

どういうこっちゃ?

実は当時、品種改良がされていない稲は蝦夷地では育ちませんでした。
稲作ができないならば、稲の収穫で計測する石高はゼロ。
そうとしか言いようがないわけです。

異例ずくめの松前藩は、江戸時代初期は「賓客」待遇です。

参勤交代も、毎年義務付けられた他の大名とは違い、3年に一度(のちに5年)。
在府期間も4ヶ月か5ヶ月程度でした。

このような扱いをされたのは、他に対馬藩しかありません。
日本として認識されていなかったと思われます。

松前藩主・松前公広は、江戸時代初期の元和4年(1618年)、パードレ(宣教師)に対してこうコメントしております。

「日本ではキリスト教は禁教になりましたが、松前は日本ではありませんから訪れてもよいのですよ」
江戸時代初期、砂金掘りを偽装した切支丹が、金山が発見されていた蝦夷地にやってくることがありました。
それにはこうした背景もあったわけです。

しかし、それも長続きはしません。寛永16年(1639年)、「島原の乱」で痛い目にあった江戸幕府は、松前藩に対して切支丹を厳しく処罰せよと命じてきたのです。
結果、潜んでいた切支丹が大量に処刑されたのでした。

日本ではない、そんな認識だった松前藩。
しかし幕府の統制が強まる中で、日本という枠組みに入ってゆくことになったのです。

 

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交易こそが命綱、しかし……

稲作ができない松前藩は、アイヌとの交易で収入を得るほかありません。
はじめは城下、のちに上級藩士に与えた知行で交易をすることになりました(商場知行制)。

交易品は、鮭、ニシン、数の子、アワビ、昆布といった海産物。
ほかに鷹の羽、アザラシ、熊の脂、ラッコ皮等があります。

取引相手はアイヌだけというのが、海禁政策江戸幕府支配下日本でのお約束です。

しかし、アイヌを介在して清やカムチャッカ半島とも貿易が行われていました。
独自の交易ルートが構築されたのです。

このように交易で儲けてゆく、そんな時代が続けばよいのですが、そうはいきません。
まず襲いかかってきたのが、災害ラッシュです。

寛永17年(1640年)、駒ヶ岳大噴火。

北海道駒ヶ岳/photo by  wikipediaより引用

ラハール(火山泥流)、そして大津波が起こり、7百名が死亡するという被害が出ました。

このあと蝦夷地は、有珠山に続き樽前山も噴火。天災ラッシュに巻き込まれます。
火山灰が降り注ぎ、河川氾濫が起こるような、酷い状況でした。

アイヌの人々も、苦しい生活に追い込まれたはずです。

しかし、和人からすればそんなことはどうでもよかったのか、
「よし、あいつらにはどうせわからないだろうし、貿易を値上げして、こちらが一方的に儲かるようにしよう」
という最悪の選択をしてしまうのでした。

アイヌは文字を持ちません。
計算についても、和人のほうが強いという偏見があったようです。

松前藩は、交易比率を大々的に変えて、3倍もの値上げを実施したのです。
ただでさえ天災により生活が苦しいアイヌの人々にとって、あまりに惨い仕打ちでした。




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これでは生活ができない!
ついにアイヌは、シャクシャインのもとで蜂起します。

アイヌ王シャクシャイン 和人の武士に騙し討ちに遭う

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