歴史上で知っている日本人絵師を一人だけ挙げてみて?
そう問われて最も多くの方に支持されるのは葛飾北斎ではないでしょうか。
何と言ってもインパクトある『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。

『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』/wikipediaより引用
子供が見ても、大人が見ても、誰もが目を奪われてそのまま時間が止まってしまいそうな、言葉では説明できない圧倒的な迫力がある。
そんな北斎は生涯に90回以上も引っ越しを繰り返したんだって!――と、最近はそうした一面も注目されていて、何から何まで規格外な絵師というイメージは浸透しつつあるように感じます。
しかし、実際はどんな人物だったのか?
嘉永2年(1849年)4月18日は葛飾北斎の命日。
彼の事績を辿り、同時期の絵師と比較するなどして、その実像を考察してみましょう。
爛熟した江戸時代後期に生まれる
葛飾北斎は宝暦10年(1760年)、武蔵国葛飾郡に生まれました。
時代は、徳川吉宗のあと、徳川家重の治世です。
北斎はどんな幼少期を過ごしたか?他の浮世絵師と同様、詳細は不明ですが、本人は6歳頃からものを描くことに興味があったと振り返っています。
そして安永7年(1778年) 、19歳で浮世絵師の勝川春章に入門。
当時の丁稚奉公の年齢や、他の浮世絵師と比較するとやや遅いタイミングでしょうか。
北斎は、勝川派が得意とし、売れ筋定番の役者絵でデビューを飾りました。

勝川春章画『初代中村仲蔵の斧定九郎』/wikipediaより引用
その後は中堅絵師として順調にキャリアを積んでいった北斎。
30歳前後の寛政年間ともなると、自分なりのスタイルを確立し、絵のジャンルも増えてゆき、迎えた寛政5年(1793年)、師匠である勝川春章が没しました。
理由は諸説あって真相は不明ながら、このころ勝川派を離れています。
葛飾北斎の個性と特徴は、ありとあらゆる要素を貪欲に吸収していくことにあります。
勝川派は役者絵に優れており、人気もあります。
しかし北斎はその枠からはみ出してしまったのでしょう。
一門の画風はいわばブランドであり、所属絵師は似ていてこそ価値がある。
版元も、客も、ブランドで判断して作品を求めます。
北斎はどうにもその枠におさまりきらなかったようです。

葛飾北斎『北斎漫画』の座頭と瞽女/wikipediaより引用
二度の結婚で二男三女に恵まれるが
葛飾北斎の作風は変幻自在でした。
美人画、風景画、狂歌絵本、豪華な摺物、そして春画まで、ありとあらゆる絵を手がけてゆきます。
その間、改名と引っ越しを繰り返しました。
ともかく頑固な性格ながら、衣食住には全くこだわりがない。
薄汚い家の中で、できあいの惣菜を貪りながら絵筆を握り続ける――それが葛飾北斎という絵師でした。
私生活に目を向けると、北斎は二度の結婚で二男三女に恵まれています。
このうち三女の葛飾応為は、

露木為一『北斎仮宅之図』に描かれた葛飾応為/国立国会図書館蔵
性格だけでなく、才能まで父に似ていました。
応為は短い結婚生活から出戻ると、父の傍で絵筆を執っています。
美人画については父もかなわないと感心するほどの腕前でした。
北斎は変人、奇人として知られました。
気難しく、あわないとあったら一切交際を拒んだほど。
そんな北斎も、晩年は家庭の不幸に悩まされます。
孫の一人が放蕩もので、その影響からか、江戸を出ていかねばならないほど。
まるで絵の仙人のように生きる変人絵師。それが葛飾北斎です。
絵を描くのは生活のためか、それとも道を悟り昇天するためなのか?
彼はまるで絵筆を握る仙人のようでもありました。

葛飾北斎『富嶽三十六景』赤富士/wikipediaより引用
そして嘉永2年(1849年)――。
悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原
辞世を残し、世を去りました。
享年90。
絵に取り憑かれた北斎の作品は、このあとも生き続け、世界を飲み込んでゆきます。
では北斎には一体どんな個性があったのか?
同時代に生きた他の絵師――歌川国芳と比較しながら見てまいりましょう。
歌川国芳と比較して北斎の個性を知る
葛飾北斎はすごい――確かにそうとしか表現できない偉大な存在ですが、北斎という絵師は、彼だけ見ていても実はその個性が把握しにくいかもしれません。
そこで同時期の大物絵師である歌川国芳と比較してみたいと思います。
2023年に慶應義塾ミュージアム・コモンズにて『「さすが!北斎、やるな!!国芳」-浮世絵のマテリアリティ』が開催された両名。
作風だけでなく、生き方や性格まで、比べることで浮かび上がってくることもあるでしょう。

『枕辺深閏梅』下巻口絵における歌川国芳の自画像/wikipedia
◆コミュニケーション能力
歌川国芳は典型的な江戸っ子。
大勢の門人がいて時に喧嘩もしながらワイワイと作品を描いていました。
彼とその弟子たちは話好きで賑やかで、酒も飲めば喧嘩もするような、江戸っ子らしい生活を送っていました。
一方で北斎は、娘の応為とボロボロの家に暮らし、ともかく変人。
無口で世間話もしない。そんな奇人変人気質でした。
北斎は、酒も煙草も一切やりません。当時の江戸っ子としては珍しいタイプと言えるでしょう。

江戸東京博物館に再現された北斎の姿/wikipediaより引用
◆世間の目
歌川国芳は一門単位で人気であり、世間の空気を読んで売れる作品を描こうと意識していました。
世間の需要と合致せず、シリーズが打ち切りになり、悔しがることもしばしば。
一方で北斎は、自分の納得できる絵をとことん追い求める。芸術性そのものを深く追いかけてゆく。
肉筆画が多いことも特徴です。
そのストイックな姿勢ゆえに、彼の絵は浮世絵の枠を超えるような境地に達したとされます。
風景画や花鳥画は、中国の影響も受けた文人趣味を備えた高雅なものでした。
北斎の浮世絵はその境地へと誘い、鑑賞者を高みに押し上げます。

葛飾北斎『塩鮭と鼠』/wikipediaより引用
◆vs幕府の規制
国芳は幕府の規制をすり抜けるため、様々な工夫をこらしていました。
風刺画も得意です。独自の騙し絵や隠し要素が多く、それを読み解く楽しみもあります。とはいえ、それが後世の鑑賞者にとって難解でもあります。
晩年の北斎は、超然とした隠者のような作風と生き方を選んでいます。
敢えて逆らうよりも、風のように受け止める風格もある――と、これは北斎自身の個性だけでもなく、時代の影響も無関係ではありません。
晩年の北斎は人の代の流れとは無縁の花鳥や風景を描きました。
世の真理を目指すような姿勢の背景には、政治という荒波もあったのです。

葛飾北斎『鮎と紅葉』/wikipediaより引用
◆中国文化の受容
国芳のブレイクは『水滸伝』の挿絵です。いわばサブカルチャーに乗っかった、いけててカッコいい中国趣味の絵を描きました。
北斎は老荘思想への耽溺が指摘されます。
深い精神性を求め、しばしば難解な絵を描きます。
日本は道教の影響はあまり受けていないとみなされますが、北斎の絵は道教信仰を鍵として読み解く必要があるのです。
◆西洋画の受容
そんな国芳は、本気で北斎に入門しようとして、断られました。
浮世絵師最大門派である歌川派の大物が、なにもうちに入門しなくてもいいじゃねえか?と断られたとか。
では国芳は何が学びたかったのでしょう?
北斎が描きこなしていた「紅毛画(おらんだが)」です。

葛飾北斎『潮干狩図』/wikipediaより引用
葛飾北斎の作品は、海禁政策をとっていた江戸時代から飛び出しているように思えます。
美しく大胆な構図。生々しいほどの写実性。そしてベルリン由来の「ベロ藍」が生み出す鮮やかな色合い――圧巻の出来です。
そんな北斎だからこそ、オランダ商館長(カピタン)からの依頼もあって、作品を描きました。シーボルトも北斎の作品を求めています。
ただし、浮世絵師の中で、西洋画を取り入れようとしていたのは北斎だけではありません。
歌川国芳はなんとしても西洋画を自作に取り入れたいと強く思い、実際に反映された作品があります。
ところが、国芳の制作環境は北斎と異なります。
国芳は『忠臣蔵』の羲士たちを西洋画タッチで描いた「誠忠義士肖像」を発表。
これが売れず打ち切りになってしまう。国芳は自分の画業を追い求めるよりも、売れ筋を追わねばならなかった。
このように近い時代を受け、互いに敬愛があっても、道は異なる二人の絵師は、比較することで個性が見えてくるでしょう。
北斎は我が道をゆく孤高の天才――その仙人のような生き方こそが、時代や国を超える個性を持っていました。
再評価された葛飾北斎
葛飾北斎の技量は飛び抜けています。
しかし、浮世絵そのものが評価されなくなった時代があったことを忘れてはなりません。
脱亜入欧を掲げた明治時代です。
明治維新後、浮世絵は時代錯誤の象徴とみなされました。
なまじ安価で、かつ大量生産されていただけに、ぞんざいな扱われ方もされてしまいます。
陶磁器の梱包紙にされる。
どうせガラクタだと二束三文で売られてしまう。
あたかも古漫画雑誌のような扱いを受けました。

『冨嶽三十六景 尾州不二見原』/wikipediaより引用
浮世絵の画集をみていると、外国美術館の所蔵品が多いことに気づくでしょう。
シリーズ作品でも抜けが生じていることは珍しくない。
そんな中、西洋が評価したからこそ、北斎は真っ先に再評価が進んだ浮世絵師とも言えます。
北斎の浮世絵を模写したゴッホ。
大きな影響を受けた印象派。
ドビュッシーが『海』の表紙に用いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。
西洋列強が熱狂するジャポニズムは、日本人にとって満足のいく甘い魅惑がありました。
言い換えると、その流れに乗れなかった浮世絵師は、評価が低いまま埋もれてしまったのです。
浮世絵師全体の再評価で北斎はさらにわかる
葛飾北斎は、時代の並に埋もれずに済んだ例外とも言えます。
しかし、これにも問題がないわけでもありません。
西洋からの再評価となると、広範な北斎の画業すべてをカバーしきれなくなります。
彼らの目線を通すと、妙見信仰や老荘思想など、中国や朝鮮の影響が過小評価される弊害もあるのです。
わかっているようで、実はわかっていない――葛飾北斎とは、そんな人物ではないかとも思えてくる。
前述の通り、同時代の国芳のような人物と比較していかねば、彼の個性はかえって沈んでしまうのではないでしょうか。
北斎は浮世絵師の中でもかなり変わった部類に入りますが、その個性は比較の上で初めて理解できる。
当時の江戸っ子からしても、現在の日本や世界で北斎がこれだけ支持されている様子は奇妙に見えることでしょう。
なんで北斎なんだよ! もっと売れ筋で、定番の絵師がいるじゃねえか! そうポカンとしてもおかしくありません。
北斎の場合、三女の葛飾応為が優れた画家であり、共作していたことも重要でしょう。

葛飾応為『月下砧打美人図』/wikipediaより引用
応為には、落款が人為的に削られたとみなせる作品があります。
いくら北斎でも晩年は応為の代筆もかなり混ざっていたのではないか? という見方もあり、研究者の間でも見解が分かれるほど。
あらためて葛飾北斎について調べてみると、やはり不思議な気分にさせられてしまうのです。
あの名作『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の波が、北斎という芸術家で、私は船につかまっている水夫なのではないか? そんな正気を失うような感覚にも陥ってしまう。
★
葛飾北斎はなぜ優れているのか?
それは類稀なインプット能力と、それをアウトプットすると決めた貪欲さにあったためでしょう。
葛飾北斎という巨人を知るには、画法だけでなく信仰や思想まで踏み込まねば、とてもじゃないけどその人物像を理解できる気がしません。
卓越した画才で奥深い世界を表現し、見る者の心を掴んで離さない。
何度見ても新鮮な驚きがある。
紛れもない天才が江戸後期にいたこと。
その作品を目にすることができること。
あしらったシャツが販売されていること。
すべてが奇跡的ではないか――北斎について考えていると、そんな境地に達する気がしています。
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【参考文献】
永田生慈『葛飾北斎』(→amazon)
諏訪春雄『北斎の謎を解く』(→amazon)
小林忠『別冊太陽浮世絵師列伝』(→amazon)
戸田吉彦『北斎デザイン』(→amazon)
檀乃歩也『北斎になりすました女 葛飾応為伝』(→amazon)
他





