永代橋落下事件

永代橋と佃島(歌川広重)/wikipediaより引用

江戸時代

一瞬で1400人が亡くなった永代橋崩落事故~江戸時代最大の落橋事故はなぜ起きた

文化四年(1807年)8月19日は、永代橋崩落事故が起きた日です。

隅田川の下流にある橋で、現在もまだ残っており、湾岸タワマンエリアの入口に位置するようなところに立っていますね。

非常に鮮やかな夜景にもなっていて、ご存じの方も多いかもしれません。

夜は青くライトアップされていて、美麗な姿で街を彩っています。

そんな橋で、かつて起きた大事故とは一体どんなものだったのか?

事故の話だけでも何ですので、まずは永代橋が架けられたキッカケから見てまいりましょう。

現代の永代橋

 


富士山や筑波山なども見えた絶景ポイントだった

初代の永代橋は元禄十一年(1698年)、ときの将軍・徳川綱吉の50歳祝いに作られたものでした。

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隅田川にかかる橋の中では一番海側にかけられたということで、満潮時の対策などもキッチリ整備。

当時は橋の上から富士山・筑波山・箱根山・房総半島の海を四方に見ることができたそうで、高層建築がない時代でまさに絶景だったでしょう。

今の永代橋付近には高層ビルが多いですが、上層階から同じような景色が見られるんでしょうか。

ともかく船も人も多く行き交う要所として、日頃から賑わうエリアだったようで、それを裏付けるような話があります。

元禄赤穂事件の際、主の仇をとった赤穂浪士たちがこの橋を通って、泉岳寺へ向かったといわれているのです。

吉良上野介の屋敷は、現在の両国・本所松坂町公園。

ここから永代橋を通って泉岳寺へ行くには、徒歩で2時間ほどかかります。現在、道が変わっている可能性が高いですが、当時の人の健脚ぶりがうかがえますね。

同時に、この頃の永代橋が、非常に多くの人に使われていたということも何となく伝わってきますよね。

こういうときに人通りが少ないところを通っても、仇討ちが成功したことを広めることができませんからね。

 


資金がないから橋を撤去してしまおう

一方で、人々によく使われるということは、それだけ損耗も激しいということ。

悲しいことに幕府の懐は危機的状況でしたから、永代橋のように大きな橋を維持する資金を出すのは難しく、いっそのこと橋ごと廃止してしまえ!と考えます。

永代橋、佃島、廻船(歌川広重)/wikipediaより引用

しかし、日常的にこの橋を使う庶民からすれば「いやいや、ないと困ります^^;」となるのは当然の話。

「ワシらでお金を出し合って管理しますんで、取り壊すのだけはご勘弁くだせえ」と幕府に掛け合い、何とか橋の維持を取り付けました。

そこで整備費として足りない分を通行料でまかなったり、近隣で市場を開いたりして補うなど、人々は努力を重ねて参りました。

深川・富岡八幡宮に近いですから、一年を通して参拝客からの収入も見込めたでしょう。

ところが、です。

その好立地条件が最悪の事態を引き起こすことになったのです。

 


富岡八幡宮の祭礼日で押すな押すなの大盛況

文化四年8月19日は、富岡八幡宮の祭礼日でした。

元から信仰を集めている神社のお祭りということで皆ハイになっており、周囲は押すな押すなの大盛況。

祭礼の見物はもちろん、出店を目当てに繰り出す人々も多かったことでしょう。

しかし、多くの人出を支えるには、永代橋は老朽化しすぎておりました。

大挙して人が集まっていたところで、橋の東側がまず崩れ、少し離れた位置の人々がそれを知らないまま押し続けたため、人々が次々に川へ転落してしまったのです。

そうして溺死した人や行方不明者の数は実に1,400人以上――。

日本史上でも最悪クラスの落橋事故となってしまいました。

あまりの規模の大きさに、俳諧師として有名だった大田南畝が笑えない狂歌を詠むほどです。

「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」

うーん、ブラックジョークにもほどが……。

また、作家の曲亭馬琴(滝沢馬琴)は、こんな風に書き残しています。

曲亭馬琴
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「『橋が落ちた』と叫ぶ人がいても皆退かなかったため、一人の武士がやむなく刀を抜き、振り回しながら退くように促した。それを怖がって、ようやく人々はその場を去った」

刀を振り回したという武士は、南町奉行組同心の渡辺小佐衛門という人物だったそうで。

町奉行というのは、市役所と警察を併せたような機関です。

同心はそこに属する身分の低い役人のこと。

ついでに時代劇でよく聞く「岡っ引き」は、同心に私的に雇われた協力者のことです。

「体は子供、心は大人」な某マンガ・探偵コ◯ンで例えるとすれば、横にいるデカイ警部が同心で、いつも眠らされている名(迷)探偵が岡っ引きみたいな感じでしょうか。

他に記録がないあたり、小佐衛門は小身のままで終わったのでしょうけれども。

役人としての責務を全うした素晴らしい人だったことは間違いないですね。

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