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【徳川家綱】
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貞観政要を政治の参考にしていた
『貞観政要』というのは、中国・唐王朝の二代皇帝・太宗の言動をまとめた本です。
この人は唐王朝の基盤を作った人で、今でも「ベストオブチャイニーズエンペラー」とされています。
当時の感覚で言えば、おそらく世界で一番優れた君主と見られていたでしょう。
『光る君へ』で一条天皇も愛読の『貞観政要』は泰時も家康も参考にした政治指南書
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そういう人のことを見習おうとしていたあたり、家綱には
「自分には足りないところがある。過去の偉人から学ばなければ」
という向上心があったことは間違いないですよね。
それは他の行動にも現れていて、もうひとつこんな記録もあります。
当時はまだ江戸城の天守閣が健在でしたので、最上部に登れば江戸市中を見渡すことができました。
志村けんさんのバカ殿を思い浮かべていただくとイメージしやすいのではないでしょうか。
あの部屋で街を眺めてから、町人に化けて繰り出していくのが定番でしたよね。そこで……。
日光大猷院「家綱手植えの槙」
あるとき天守閣に登った家綱に対し、お側役の人が望遠鏡を差し出してきました。
「上様、これを使えばもっとよく見えますので、どうぞお使いください」
しかし家綱は断ります。
その理由が素晴らしい。
「もし将軍がこれを使って四方を見下ろしていると世の人が知ったら、きっと不快に思うだろう。いくら私が子供であっても」
何ですか、このイケメンチャイルド。
そんな家綱の性格をうかがえそうなものが今もとある場所に残っています。
こちらです。
家光のお墓である、日光大猷院(たいゆういん)の敷地内にある槙の木です。
右下の看板に「家綱手植えの槙」と書かれています。
それ以外の詳細は全く触れられていないので、ここからは推測になるのですが……。
父・家光のお墓を守りたかったのでは?
他の多くの植物同様、槙という木にはたくさんの種類が存在し、そのうち代表的なのがイヌマキとコウヤマキの二種類。
残念ながら家綱の植えたものがどちらなのかハッキリしませんが、いずれにせよ高級建材として古くから親しまれてきた木だそうです。
また、イヌマキは防風林に用いられ、コウヤマキはその名の通り高野山で霊木とされてきたという特徴があります。
どちらも「何かを守る」役割なんですね。
家綱は「自分の手がすぐには届かない場所にある父の墓を守りたい」という意思をこめて、この槙の木を植えたのではないでしょうか。
もしかしたら、木の種類も自分で選んだかもしれません。
この辺を統合して考えると、家光と家綱は徳川将軍の中では珍しく、仲の良い親子だったんじゃないかなぁと思うのです。
手植えの槙については、お坊さんに詳しく聞いてみればよかったんですけどね。
私が行ったときは家族旅行だった上、修学旅行生の応対でお忙しそうだったので話しかけられませんでした(´・ω・`)
看板にこれしか書いていないあたり、聞いてもわからなかったかもしれませんが。
大猷院に行かれた際は、ちょっと足を止めてこの木を見上げてみてください。ついでに詳細を聞いて教えていただけるととても嬉しいです。
まぁそんなわけで、地味だ地味だと言われている人でも、逸話を集めてみれば魅力的な面が見えてくるのではないかなぁと思います。
何らかの記録が残っていないと、そういう推測もできないのですけどね。
家綱には実子もいませんし、草食系将軍とでも言えばちょっとは知名度上がりましょうか?
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
徳川家綱/wikipedia