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【吉原の放火】
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江戸から東京になっても炎との縁は切れない
さて、放火だけでなく、それ以外にも幾度となく火災に見舞われた江戸ですが。
文久2年(1862年)、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した【生麦事件】が勃発した際もまた、大きな危機に見舞われておりました。
イギリスが攻めてくるのではないか?
江戸っ子はそう怯えていたのです。
するとイギリスは、実行犯である薩摩藩士の捕縛を求めて鹿児島へ出向き【薩英戦争】を起こしました。
江戸っ子の懸念は当たらずとも遠からず。
自国民の殺傷に怒ったヴィクトリア女王は、江戸への攻撃を願い、計画が練られていたとされます。もしも木造家屋が艦砲射撃を受けていたら、ひとたまりもなかったことでしょう。
それから6年後の慶応四年(1868年)、江戸の伝説的な火消しである新門辰五郎は、勝海舟より恐るべき計画を持ちかけられていました。
倒幕を目指す西軍が江戸に入ったら、市中に火を放つから、被災者を逃すための手筈を整えて欲しい――そう頼まれたのです。
勝は【ナポレオン戦争】におけるロシア・モスクワの焦土作戦を念頭に置き、このおそるべき計画を立てていました。
その結果、勝海舟と山岡鉄舟らが西郷隆盛を相手に交渉の席を設け、ついに計画は実行されずに終わったのです。
西軍と彰義隊の衝突による上野戦争は発生するものの、江戸の街全体が火災に見舞われることは回避できました。
江戸幕府の終結は、炎の包まれずに成し遂げられたのです。
とはいえ、江戸改め東京は相変わらず木造建築が密集しており、火災の宿命からは逃れられません。
大正12年(1923年)の【関東大震災】。
そして昭和20年(1945年)には【東京大空襲】。
アメリカ軍は日本家屋の特徴を再現し、火災が甚大な被害を与えると見越し、焼夷弾を東京の街に投下。
その狙いは的中し、10万人を超える死者が出たのでした。
舞台が江戸である以上
徳川家康が都と定め、急速な発展を遂げてきた江戸。
地震が周期的に発生することを家康が予測できたとは思えません。
人口が右肩上がりで増え、密集した結果、こうも火災が頻発することは想像できなかったことでしょう。
幕府は【火消し】を制定し、江戸っ子たちは彼らに喝采を送り、互いに助け合って、度重なる火災と奮闘してきました。
宵越しの金を持たない刹那的な生き方。
褌までレンタルに頼るものを溜め込まない生き方。
火災を防ぐためか、長らく屋台で食べていた天ぷら。
江戸の文化や精神性には“火災の影響”が色濃く根付いているのです。
「火事と喧嘩は江戸の華でぇ」
そう強がって生きてきた江戸っ子たちは、逆に、そうでもしなけりゃやってらんねぇ!という気持ちもあったのでしょう。
火災とはそれほど恐ろしいものであり、放火犯は火刑という想像を絶する目に遭うにもかかわらず、絶望して実行してしまう――それも江戸の一面です。
『べらぼう』第1回放送の冒頭から火事が起きたことに対し、視聴者からは「不吉で見たくない」といった批判もあったようです。
逆に「江戸を明るく描いて、美化している」という批判も見受けられます。
一体どう描くのが正解なのか。
舞台が江戸である以上、その暗黒の象徴である放火(火災)から始めることは、大いに意義があると思えるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
永寿日郎『江戸の放火』(→amazon)
野口武彦『江戸のヨブ』(→amazon)
「歴史読本」編集部『よくわかる徳川将軍家』(→amazon)
『徳川家歴史大事典』(→amazon)
他