戦艦長門(ボルネオ島ブルネイ泊地に停泊中)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

軍艦造りのプロフェッショナル・平賀譲とは? 海軍の職人魂ここにあり

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平賀譲
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そんなこんなで、田路をかわいがるのと反比例して平賀と藤本は仕事上でも対立するようになっていき、いつしか藤本は反平賀派の旗頭のようになってしまいました。

平賀も各地の工廠への視察ついでに、料亭で一杯やりながら歌うという陽気な面や、兄の未亡人を気遣う優しい面もあったのだから、それを仕事が終わった後にでも見せてやれば、もう少し丸く収まったかもしれませんね……。
まあ、当時の社会常識的に「職場で甘くしてはいかん」という概念があったのは仕方ないことです。軍ですし。

実は、平賀と藤本が和解できなくもない雰囲気になったことが一度だけあります。
八八艦隊計画を進めるうちに、造船費用があまりにも膨大になってしまい、さすがに政府からもツッコまれました。

求められたのは「費用を減らしつつ、戦力を落とさない」船の設計。そこで平賀が基本設計、藤本が詳細設計を担当して作られたのが軽巡洋艦「夕張」です。

夕張 (軽巡洋艦)/wikipediaより引用

が、平賀が藤本の設計図を無断で書き換えるなど、またしても火種を作っています。

夕張自体は無事完成し、世界の海軍関係者を驚かせる小型&重武装の船として海軍史に記録されたのですが……その一方で平賀と藤本の決定的な亀裂も生んでしまったことになります。
何だこの「子供が生まれた途端、育児への不理解が元で離婚した夫婦」みたいな流れは。

そして、このタイミングで世界は軍縮の動きへ突入するのでした。

 

ワシントン軍縮条約で突きつけられた厳しい条件とは

ワシントン軍縮条約の交渉で、日本は「艦隊規模を米英の6割にしろ」という条件を突きつけられます。

これは、日本がこれまで進めてきた「米英の7割の規模を保っていれば、もし両国と戦争になったときも応戦するに充分」という基本路線を完全に台無しにされるものでした。

日本代表は当然ながら「7割じゃないとイヤです」と主張します。が、イギリス側から「何かオマケしてあげるから、6割を飲んでよ」と言われ、うなずかざるを得なくなります。

そのオマケが、98%竣工済み=「現在建造中の船を破棄する」としたこの条約によって廃棄対象とされた戦艦・陸奥を保持できるようにしたことでした。引き換えに、アメリカとイギリスに新しい戦艦二隻ずつの保持を許すことになったのですが……。

さらに、このころ満期を迎えていた日英同盟の更新が否決され、代わりとは名ばかりの四カ国条約(参加国は日・英・米・仏)を押し付けられています。
どちらかというと、日英間の協力関係を解消させるための条約であって、何かを協力するためのものではありませんでした。

つまり、オマケの割にはハズレ感が強い感じになってしまったのです。

当然、日本ではこの結果に官民揃って大反発。日露戦争でも大したうまみがなかった上に、第一次世界大戦が終わった途端に大恐慌、ついでにこの後起きる関東大震災と東北の不作などによって、社会全体が暗く鬱屈した雰囲気になっていくのもやむないことでした。

そしてその中で、怒りを滾らせていた一団がいずれ五・一五事件や二・二五事件を起こすことになります。その話はここでは触れませんが。

お偉いさんの中でも「なんでアメリカなんかにウチの行動を制限されなきゃいけないんだ! いつかブッコロス!」と思っている人たちはいました。そのくらいワシントン軍縮条約は衝撃的なものだったのです。

この頃ドイツが第一次世界大戦の賠償で喘ぎ、後に最悪の悲劇に繋がっていくことといい、日本含めた当時の戦勝国のやり方は、「窮鼠猫を噛む」事態を自ら生むものだったといっても過言ではありません。まあ、後世から見た話ですけれども。

 

軍縮によって技術者の腕が衰えることも恐れた

設計者である平賀にとって、新しい発想を詰め込んで船を造ることは愛児を世に送り出すも同じであり、破棄や建造中止は我が子を失うも同然のことでした。

新しい戦艦のうち二隻だけは空母に路線変更して残すことができましたが、最新式戦艦になる予定だった船は数隻が破棄。平賀は気を取り直し、保持を認められた十隻の船から成る「六四艦隊」の防御面を改装して、外国と渡り合えるよう備えるべきと提言しました。

また、ワシントン軍縮条約によって新しい船を作れない=工廠の技術者の腕が衰えることを案じていたのも理由の一つです。六四艦隊の改装は、彼らの技術を保つためでもありました。

意気消沈しすぎて引退してもおかしくないところで、こういうとこに頭が回るのはスゴイですよね。その気遣いがもうちょっと温かい形で表に出てきていたら、平賀の敵はずっと少なくなったかもしれません。

それでも軍縮によって兵や技術者らを大量にリストラしなければならなくなり、これもまた不況に拍車をかけました。

企業(この場合は国)が自分の存続だけを考えれば、いずれ社会が立ち行かなくなるのは昔も今も当たり前の話ですよね。そうした理不尽な解雇を受けた人々は、当然元凶であるワシントン軍縮条約とアメリカを恨み、欧米諸国への嫌悪を募らせていきました。

幕末のあたりには外国人を化け物と思っていた人も多かったが、半世紀ほどでその頃と同じくらいの認識になってしまったわけです。

平賀が目をかけていた部下・田路も、この風潮の中で「イギリス人である妻が白眼視されるのは耐えられない」と、退官を決意しました。

平賀は田路の才能と家族愛とを評価し、三菱造船にかけあって再就職先を案内しています。天下りといえばそうですが、この場合は平賀の優しさを評価すべきでしょうね。
三菱造船でも「英語ができて知識もある人なんですか! ならロンドン駐在員の椅子を用意しますよ!」と受けあってくれています。

平賀が田路を送り出した後くらいの時期に、世界は「条約に引っかからない範疇で最高の軍艦を造る」ことに腐心するようになりました。条約あってもなくても変わらんやん(´・ω・`)

平賀もそういった命令を受け、夕張を大きく&その他改良を加えて古鷹型重巡洋艦を設計します。重巡洋艦というのは、簡単に言うと「戦艦よりは一回り小さく、ギリギリまで武装を詰め込んだ軍艦」とったイメージの船です。言葉の定義が決まったのはまた別のタイミングなんですが、こまけえこたあいいんだよ。

しかし、重巡洋艦計画を軍議に出した際、平賀は自らの首を絞める発言をしてしまいました。
「魚雷を減らして砲に主眼を置く」という方針を明らかにしたことで、魚雷を扱う技術者たち(俗に言う”水雷屋”)の怒りを買ってしまったのです。

それは日頃からくすぶっていた反平賀派を勢いづかせ、平賀はメイン設計者の座を追われることになりました。技術者としての失敗ではなく、人間としての失態が災いを招いた形です。

ちなみに、魚雷を減らしたのは「もし魚雷の保管場所に敵の砲撃が当たった場合、一気に誘爆して船が沈む可能性が非常に高い」というきちんとした理由がありました。実際、第二次世界大戦中にそうした理由で沈んだ船は複数あります。

が、水雷屋の人々にとっては自分の仕事を取り上げられるも同然ですから、彼らが反発するのもまた自然なことでした。

 

二度目の留学で80ヶ所以上の施設を巡り、帰国したら席がないって!?

このタイミングで、平賀に二回目の留学が命じられました。その間に平賀の席を物理的になくしてしまおうというわけです。

更迭計画が進んでいるとも知らず、欧米で80ヶ所以上の工廠・造船所・研究所等をまわり、各国の最新情報を収集。ロンドン滞在中にはかつての部下・田路と再会し協力を受け、そのお陰で最初の留学時の恩師や学友に再会することもできました。

恩師はこっそり最新戦艦・ネルソンの設計図を見られるようにしてくれたりと、かなり危ない橋を渡ってまで平賀に協力してくれています。ネルソンは就役後、イギリス本国艦隊所属になっているのですが、まさかこの「取り計らい」が原因ではない……ハズ……。

まあ、それと同じくらい日本側の情報も筒抜けだったのですけれども、さすが堂々と諜報機関を設置している国は違うぜ(当時は否定してたけど)

とはいえ全てがうまくいったわけではなく、旧知の人間が多いイギリスでは多くの情報を得られたものの、アメリカではほぼ門前払い状態だったとか。そりゃ、地理的に考えて日本と真っ先にぶつかるのはイギリスじゃなくてアメリカですしね。

こうして出来る限りの情報を集めて帰ってきたものの、留守にしている間に平賀の荷物や机は職場から片付けられてしまっています。実績と技術・知識ある人間に対して実に陰険なやり方ですね。平賀の性格がキツすぎたのも一因ですけれども。

全く予想していなかった事態に、さすがの平賀も一時は転職か、いっそブラジルにでも移住するかとまで思い詰めたとか。
が、ここで持ち前の切り替えの早さが、またしても彼自身を助けます。

「趣味として設計することまで禁じられたわけではない」

平賀が追い出された後、主だった設計は藤本に任されました。
元々主席卒業という俊才であり、平賀と比べて人当たりがいいので、当初はうまくいくかに見えました。最新の技術を理解し、それを実地で活かそうという気概もありましたしね。

その結晶が「特型駆逐艦」と呼ばれる新しいタイプの船です。これも夕張同様「小さな船体に積めるだけ武器を積み、可能な限り軽量化する」という幕の内弁当のような狙いの設計でした。やっぱり欧米からガラパゴスジャパン扱いされています。

平賀と藤本がもうちょっとお互いに引き立てあっていれば、より良いものが作れたのではないかと思うのですが……まあ、そういうのに向かないからこそ斬新な設計ができたんでしょうね。

 

徳川昭武(慶喜の弟)の息子・武定に差し出された救いの手

しかし、最新の技術とは、=まだ欠点がはっきりしていない技術、という意味でもあります。

その最たる例が電気溶接でした。当時船を造るときには、リベットというネジのような部品で鉄板をつなぎ合わせる”鋲工法”が主流。これに対し、電気の熱で溶かしてつなぐのが電気溶接(まんま)です。

平賀は「今の日本では、電気溶接の技術が未熟過ぎる」と考えており、軍と乗組員の命運がかかっている軍艦に使うには危険だと考え、電気溶接の使用を制限していました。

が、藤本は「電気溶接を多用すれば、軽量化&速度アップ&その他に都合がいい! ジャンジャン使おう!」と考えました。これが後々とんでもない事件を引き起こすことになります。

特型駆逐艦を生み出したことで藤本の名声が高まると、平賀もその前任者としてふさわしい肩書が与えられました。が、実務をやらせてもらえないのは相変わらず。

左遷されていた間も元部下・徳川武定(たけさだ)に「ウチの庭に実験用の水槽作ったんでぜひ使ってください^^」(超訳)とダイナミックな協力を得て、各数値の測定実験や研究を続けてはいましたが。
二度目のロンドン滞在中やこのときのように、「あいつは譲じゃなくて不譲(ゆずらず)だ」と陰口を叩かれていた平賀にも、いざというとき助けてくれる人が出てくるくらいの人望はあったのです。

名字でピンときた方も多いかと思いますが、武定は最後の将軍・徳川慶喜の弟である昭武の息子で、松戸徳川家の人です。割と柔軟な思考の持ち主だったらしく、築地の魚を眺めて新刊ならぬ新艦のアイディアを得、潜水艦の設計に活かしたことがあるとか。

「海を自由自在に泳いでるものが最大のヒント」という考えはわからないでもないですが、当時その発想に至ったのがスゴイですね。

徳川武定/wikipediaより引用

ついでに、この辺の時代に軍絡みのことで関わった徳川家の人を軽く紹介しておきましょう。
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