吉岡彌生

吉岡彌生/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

吉岡彌生が切り拓いた東京女子医科大学! 全ての人に差別なき学び舎を

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女性だけの医学校にこだわった理由

残念ながら、夫・荒太とはその後すぐに死に別れてしまいました。

彌生は女性医師や産婆(現在は助産師)・看護婦育成のため、ますます奮起していきます。

文部省の委員になったり、教育厚労省を受賞したり……。公の機関にも働きを認められ、日本の代表として欧米の医学・母子保護事業の視察に行ったこともありました。

戦時中もいろいろな役に就き、そのために戦後一時期教職・公職追放されています。

しかし、その間も大学設置の認可が出たりしているのでよくわかりません(´・ω・`) 日本の事情も複雑怪奇です。

彌生は1871年生まれですので、戦後になる頃には立派な(?)老婦人になっています。

が、写真を見ると眼光や背筋の伸びた姿は若い頃のまま、という印象を受けます。

そしてそれは、外見だけではありませんでした。

戦後は「女子だけの教育環境というのはいかがなものか」という、以前とは真逆のよくわからん理屈で非難されたこともありました。

「女性の経済力を上げるためには、女性だけの教育環境が欠かせない」「医師は女性に適した職業である」と考えていた彌生は、あくまで女性だけの医学校にこだわります。

この考えがあるため、東京女子医科大学は今も国内唯一の女子医科大学となっています。

 

叙勲を機に危篤状態から立ち上がり完全復活!

もう一つ、彼女の気迫が伝わってきそうなエピソードがあります。

彌生は85歳で勲四等を受けたとき、体調を崩して危篤状態でした。

が、叙勲の知らせを聞くや奮起し、体を治してしまったというのです。

しかも叙勲までギリギリ持ちこたえたというのではなく、その後3年ほど生きています。

「病は気から」とはいいますように、寿命まで気迫でなんとかなるもんなんでしょうか。

これこそ東京女子医科大学なり、他の医大なりで研究していただきたいものです。

亡くなったのは88歳、米寿を迎えた後のことです。

遺言によって遺体は解剖され、後の医学のために活かされました。

徹頭徹尾「女性と医学」のために生きた――とてもカッコいい生き様ですね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
吉岡彌生/Wikipedia
一般社団法人至誠会/Wikipedia
唐津探訪(→link

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