1930年代の樺太・豊原市中心/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

樺太の歴史は“無関心の歴史” ゴールデンカムイの舞台に刮目だ

背景に何があるのか?トコトン知りたくなる――。

そんな作品に出会えることは歴史ファンにとって最高の贅沢であり、それに該当するのが北海道を舞台にした『ゴールデンカムイ』ではないでしょうか。

特にこれまでの作品と毛色が違うのが

樺太の歴史

そして

【幕末以降の日露関係】

に深く関わってくることでしょう。

マンガ・アニメを200%楽しむために全力で押さえておきたい!

そんな皆様と共に樺太の歴史を振り返ってみましょう。

 

北方からの圧力

日本が、ロシアからの圧力を感じ始めたのはいつ頃か?

ハッキリと「外圧」を感じ始めたのは、18世紀後半から19世紀初頭。

三谷幸喜さんの手がけた2018年正月時代劇『風雲児たち』の舞台となった頃ですね。

このころ日本人たちは自分たちの暮らす国以外にも、広い世界があると認識し始めました。

杉田玄白と前野良沢らが『ターヘル・アナトミア』を翻訳出版。

頼山陽はナポレオンを讃えた漢詩『仏郎王歌』(フランス王の歌)を作詩。

葛飾北斎の好んだ藍色がプロシア由来の「ベロ藍」。

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世界で次々に起こる変化は、幕府お墨付きの玄関口・長崎出島から、オランダを通じて流入してきました。

では、ロシアはいつ頃からアクションがあったのか?

というと、これも同じころ、江戸時代終盤に向けての頃です。

 

江戸幕府では割と早くに注目していたが

ロシアからのプレッシャーを最初に感じたのは、東北の人々でした。

『風雲児たち』にも登場した仙台藩士の工藤平助(演:阿南健治さん)。

江戸で幕臣の子に生まれながら仙台藩に仕えた林子平(演:高木渉さん)。

彼らはロシアの脅威を感じ、海防論を唱えます。

工藤は『赤蝦夷風説考』を発表し、同じく林も『三国通覧図説』と『海国兵談』を出版。

早い段階から危機感を説いていますが、海外情報を統制したい幕府にとっては迷惑な話でしかありません。

当時、こうした意見に目を付けていたのは、先見の明ある老中・田沼意次(演:草刈正雄さん)のみでした。

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田沼は、山形出身の探検家・最上徳内を蝦夷に派遣し、調査をスタートさせます。

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間宮林蔵は、間宮海峡を発見。

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さらには大黒屋光太夫などは、漂流の果てにロシアへ上陸、エカチェリーナ二世にも謁見するという驚くべき展開となっています。

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しかし、田沼が失脚してしまうと、ロシア脅威論もまた注目されなくなってしまいます。

これでロシア側も日本との接触を諦める?

って、そんな都合のいい事は起きるハズもなく、さらに時代がくだるにつれ、彼らはついに強硬手段に訴えかけてきます。

 

樺太へ向かう武士たち

日露関係が、二国間において顕在化したのはいつなのか?

それは、幕末に向かってゆく最中「日本が世界の中でのどの位置にあるのか」を意識し始めたころでした。

このころ会津藩では、名宰相・田中玄宰が藩政改革に取り組み、その一環として藩校・日新館が整備されます。

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天明8年(1788年)。

田中は軍制改革に取り組み、長沼流を採用、寛政4年(1792年)には、会津藩の恒例行事である「追鳥狩」が始まりました。

2013年大河ドラマ『八重の桜』第一回で描かれた、鳥を追いかける軍事訓練です。

それから約二十年が経ち、文化4年(1806)になると、津軽・秋田・南部・庄内の東北諸藩に重大な幕命が下されました。

露西亜の暴虐より、樺太を防備せよ――。

このころロシア船が南下し、樺太までやって来ることが度々ありました。

オフトマリ(大泊・現コルサコフ)、クシュンコタン(久春古丹・現コルサコフ)に進出し、運上屋(松前藩アイヌとの交易所)や番屋、倉庫を焼き払い、住民を拉致し始めていたのです。

ロシア側は、普段からこんな危険なことをやっていたのか?というと、そうでもありません。

さんざん通商と開国を要求したにも関わらず無視されたため、実力行使に訴えたのです。

そこで幕府は、東北地方の藩から出動&対応するように命じたのです。

想像してみてください。

『ゴールデンカムイ』では、北海道の気候になれていた杉元すら

「北海道よりも冬が長くて寒いってことか。樺太やばいな」(14巻)

と驚嘆していたわけです。

樺太警備の武士たちは、現地の天候に苦しめられました。

ロシア軍と交戦することはありませんでしたが、厳しい寒さと病気が襲いかかったのです。

津軽藩にいたっては、100名中70名、つまりは死亡率七割超という甚大な被害を出したほどで、その原因は主に悪天候、湿気、病気、野菜不足による栄養失調でした。

「樺太やばいぜ。これはもうどうしようもないな」と、幕府は思ったか?

否、違います。

「今度は東北の大藩にでも依頼するか」となりました。

 

会津藩士、気合い入りまくっていざ樺太へ!

文化5年(1807年)、今度は東北の大藩である仙台藩と会津藩に、蝦夷地・樺太の警備が命じられました。

仙台藩:2000名 箱館(函館)・国後・択捉

会津藩:1500名 樺太・宗谷・利尻島・松前

会津藩は財政難。

しかも、樺太は未知の土地。

「樺太やばいべした、いぎだくねえな」となるかと思ったら、その逆でした。

会津藩は、樺太警備にはなみなみならぬ意欲を見せました。なんと、幕府にわざわざ志願していたほどなのです。

会津藩は、東北に睨みを利かせるため、保科正之を祖として配置された、というプライドがありました。

東北の小さな藩が動員されているのに、会津藩がおいてけぼりでは面目が立たない。彼らはそう考えました。

自分たちこそ、東北諸藩の先頭に立つのだ、という思いがあったのです。

このプライドこそ、幕末の悲劇にも繋がるのですが。

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そして出発前になると、くじ引きで公正に決めたにも関わらず、順番で揉めます。

「せっかぐ戦いさ行ぐのに、宗谷や松前では、ロシア兵と戦うことはねえべ。樺太さいぎでえ」

なんと、樺太が嫌なのではなく、樺太でないと嫌なのだ、という理由ゆえだったのです。

樺太に行けない隊があまりに不満を述べるため、クジの決定は取り消されたのでした。

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