渋沢敬三

渋沢敬三(左)と、その祖父・渋沢栄一/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

渋沢栄一の後継者となった孫の渋沢敬三~誰もが羨む実業家が流した涙

明治維新の波に乗り、数多の事業を手掛けた渋沢栄一

その栄一が興した渋沢家を、もしアナタが継げるとしたらどんな印象を抱くでしょう?

大富豪じゃん! 最高じゃん!

多くの方がそんな感想を抱かれるかもしれませんが、実際に渋沢栄一の跡継ぎとなった孫の渋沢敬三は、まるで真逆の絶望を感じていました。

「これで私の夢は断たれてしまった……」

誰もが羨むセレブポジションを手にしていながら、なぜ渋沢敬三は辛く沈痛な面持ちとなってしまったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 

渋沢敬三 父の廃嫡により表舞台へ

渋沢敬三は明治29年(1896年)8月25日、渋沢篤二の長男として生まれました。

父・篤二は、渋沢栄一の嫡男。

母・敦子は、公家の出身。

つまり敬三は、渋沢栄一の孫にあたる、良家の子息となります。

渋沢栄一(祖父)

渋沢篤二(父)

渋沢敬三(本人)

当時の渋沢家は、順当にいけば父の篤二が渋沢家を継ぎ、敬三もしかるべき期間を置いて跡取り候補の一人になる流れだったでしょう。

しかし、そこでトラブルが勃発。

結論だけ先に述べますと、篤二を飛び越えて、敬三に「渋沢家跡継ぎ」が回ってきます。

なぜ、そんなことになったのか?

敬三の前に、少しばかり篤二に注目させていただきますと。

父の篤二は、姉の歌子に育てられたのですが、姉夫妻のプレッシャーが強すぎたせいか、途中から道を踏み外し、遊女や芸者のもとへ足繁く通う不良息子に成長してしまいました。

もともと彼は芸術学問分野において豊かな才覚に恵まれたと言います。

しかし、当時の渋沢家は日本を代表する実業家一族。

遊び歩く篤二に対しては渋沢家の親戚家族から非難もあり、本来なら父の栄一からキツい雷が落とされる場面でもありました。

実際はそうなっていません。

なぜなら渋沢栄一自身が、息子以上の遊び人だったからです。

女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル!大河青天を衝けで描けない史実とは

続きを見る

もしかしたら篤二に対し、栄一から何らかのお咎めがあったかもしれませんが、説得力は皆無だったことでしょう。

そんな篤二を遊びから遠ざけるため、渋沢家では明治28年(1895年)に公家出身の橋本敦子と結婚させます。

二人の間に渋沢敬三も生まれ、これにて一件落着かと思われましたが、遊びの病気は治っていませんでした。

澁澤倉庫株式会社の取締役会長として活躍していたのもつかの間、篤二は明治44年(1911年)、新橋の遊女・玉蝶と「不倫逃避行」に出てしまうのです。

これにはさすがに栄一の娘たちも激怒。翌年、ついに栄一は篤二に対し「廃嫡」を言い渡さざるを得ませんでした。

渋沢篤二
渋沢栄一の息子・渋沢篤二も女好きがヤバい?遊びが過ぎて跡継ぎ剥奪

続きを見る

 

栄一に懇願され法科を選択

篤二の廃嫡が正式に公表されたのは、大正2年(1913年)のことです。

知らせを耳にした敬三は絶句したといいます。

なぜなら篤二の廃嫡は、すなわち自身に相続権が回ってくるということであり、父へ向けられていたプレッシャーもそっくりそのまま自分に押し寄せます。

「将来がすべて断たれたように感じられた」

旧制中学の卒業を目前に控え、敬三は動物学者になる夢を抱いていました。

それが渋沢家の当主ともなれば、当然実業界を背負うということであり、学者からかけ離れた生活が待っています。

敬三は旧制仙台二高へと進学。

夢見ていた理科を選択することは叶わず、祖父の意志で法科を選びました。

第一国立銀行の跡取りになってほしい。頼む、お願いだ」

栄一は頭を畳に擦り付けんばかりに懇願したといいます。

第一国立銀行
日本初のバンク・第一国立銀行で渋沢栄一はどんな経営手腕を見せた?

続きを見る

不本意ながら、敬三もまた祖父のことを深く尊敬しており、「祖父にそこまで言われたら……」と考えを変え、法科へ進学したのです。

同年中に栄一は渋沢同族株式会社を立ち上げ、社長には敬三が据えられました。

今でいえば「大学生社長」といったところでしょうか。

現代だとそう珍しくないかもしれませんが、当時としては極めて異例の人事でした。

結局、敬三はそのまま東京帝国大学へ進学し、大正10年(1921年)に卒業すると横浜正金銀行(現在の三菱UFJ銀行)へ入行。

翌年にはロンドン支店での勤務を命じられ、約3年間の海外暮らしを経験しました。

 

ひそかに民俗学へ傾倒していたが

こうした経歴だけを見れば、渋沢敬三は名実ともに栄一の後継者です。

しかし、彼の心に宿っていた「動物学者」への憧れが消え去ったわけではありませんでした。

敬三は幼い頃から生き物を愛していました。

幼年期に暮らした渋沢邸には池があり、潮の満ち引きに合わせて様々な魚を鑑賞して育っています。

近所の子どもたちと同人サークル『腕白倶楽部』を立ち上げ、冒険小説や昆虫図鑑などを刊行。

修学旅行でも訪問先の土地データを収集するなど、根っからの研究・自然好きだったのです。

当初、理科を目指していたのも決して消去法なんかではなく、幼いころからの夢を実現するための通過点だったからに他なりません。

庶民から見れば憧れの大富豪・渋沢家も、敬三にとっては悲劇的な進路だったんですね。

かくして敬三は実業界に身を染めていく一方、知的好奇心も満たそうとしました。

現代でも高い評価を得る『遠野物語』の作者であり、民俗学者の柳田国男との出会いをキッカケに「民俗学」へ傾倒。

学生時代から動植物の化石や郷土のオモチャを収集した「アチック・ミューゼアム」を作っていたのですが、ここを拠点に「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」を立ち上げ、収集物の整理や研究を進める研究会を開きました。

この研究会は、敬三のロンドン出張で一時中断を余儀なくされますが、彼自身の学問への熱は異国でも失われません。

敬三は時間を見つけてはヨーロッパ各地の美術館や博物館をめぐり、教養を積み重ねました。

そして帰国後は、祖父の興した第一銀行へ入行。

多忙の身でわずかな合間を縫っては研究活動に勤しみましたが、同時に活動への限界も感じざるを得ませんでした。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-明治・大正・昭和
-