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【岩倉使節団】
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イギリスで大金紛失「世間に対してなんといわくら」
その後、一行は、アメリカからイギリスへ渡りました。
ここでも無駄に長引く部分があり、もっと計画的にできなかったのかとツッコミたくなります。
例えば、ヴィクトリア女王に面会しようにも、女王はスコットランドで休暇中で全然会えない。
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彼ら王族がスコットランドで長い休暇を取るのは、英王室の慣習でした。
このイギリス滞在中に大久保利通が、財務の大切さを痛感したというのも驚きです。
実は明治政府って強引に武力倒幕を進めたものですから、廃藩置県くらいまでしか具体的なビジョンがなかったのです。
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確かに軍事や警察のように【武士好みの改革】は薩長も前のめりでした。
しかし、まるで不得手な財務については「そんな商人みたいなことやってられるか!」と言わんばかり。
福井藩出身の由利公正に任せきりのうえ、彼が失敗するとすぐクビにするという無責任ぶりでした。
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しかも、金銭についてはもっと差し迫った危機が迫ります。
使節団が預金していたブールス銀行が破綻。
2万5千ドル、25箱もの千両箱が消えてしまったのです。
伊藤博文のように宵越しの金は持たない遊び人は、被害なし。
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生真面目に預金していた者ほど、被害甚大でした。
この事件、長州藩出身、高杉晋作の従弟にあたる南貞助が大きく絡んでいました。
日本人と西洋人の国際結婚第一号(のちに離婚)でも名を知られた人物です。
ロンドン留学後、ブールスという銀行マンに協力を要請されたのですが、その内容とは、
「きみの母国の使節団のお金、是非預からせてくれんか」
というものでした。
日本人留学生の南に頼まれ「欧米では現金を持ち歩きません」という言葉にコロッと騙されたのです。
しかも、このブールス、どうも怪しげな男で、はなかっら金を奪う気マンマンだったようで……。
日本国内は、薩長政府への怒りが滾るようになります。
薩長中心の使節団が、長州藩出身留学生の口車に騙され、大金をドブに捨て。
アメリカで条約にミソをつけられた話に続き、イギリスではこの始末。
しまいにはこんな強烈な狂歌が詠まれました。
【狂歌】
条約は 結び損ない 金とられ 世間に対して なんといわくら
留守政府では、ただでさえ不平士族の反乱に頭を抱えているのに、使節団がこの調子ですからね。
後に明治政府と対立する西郷隆盛、江藤新平らの台頭や不満も、ジワジワと募っていくのでした。
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このあと使節団は帰国どころか、ヨーロッパやアジアを歴訪。
帰国後の明治政府は、かなり大変な状況に追い込まれます。
確かに使節団は、実りはありました。
しかし、それだけではありません。
西郷の征韓論、そして明治政府は
使節団の派遣期間は、明治4年(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)。
政府を揺るがす「明治六年政変」は、使節団の帰国直後に発生します。
実は、留守を守っていた西郷隆盛は、このころストレスで精神がかなり傷ついておりました。
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迷走する使節団に対して、世論は激昂。
それを受け止めて、精神がガタガタでも、おかしくはありません。
この西郷が、板垣退助とともに練り上げたものが【征韓論】でした。
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しかし帰国した使節団は、征韓論を却下。
派遣中は国家の大事を決めぬようにしていた「十二ヵ条の約定」を持ち出します。
確かに西郷の「征韓論」は、おかしなところがあります。
西郷が、朝鮮半島で死ぬことを覚悟していたとしか思えない点が最大の違和感。
自ら決意を示すことで道を切り開いてきた西郷は、朝鮮側に殺害されることで、攻め込む口実を探していた――そう思われても、仕方ない部分があります。
しかし西郷は、使節団とは異なる危機感に焦っていました。
旧幕府が滅びたのは西洋に阿(おもね)り、東洋としての自覚や誇りを捨てたと信じていました。
その西郷からすれば、使節団の派遣だけでなく、西洋にあまりに媚びる明治政府が、東洋の美徳を捨てようとしてるように見えたのです。
このまま西洋に阿るならば、国は滅びてしまう――そんな危機感が西郷を突き動かし、西南戦争での滅亡にまで駆り立てたのでしょう。
薩摩の二大英雄、西郷隆盛と大久保利通。
この二人は、使節団の派遣前から「アラビア馬」の台頭に危機感を抱いていました。
西郷は、彼らと別れ、国に残りました。
一方で大久保は、アラビア馬が引っ張る使節団という馬車を制圧することで、国を動かす手綱を握ろうとしました。
西郷と同じ年には、長州の英傑であった木戸孝允も死去します。
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使節団という馬車に乗ることを選んだ大久保こそ正しかった――そんな結論が出たかのように思えますが、その大久保も、西郷の死の翌年(1878年)、暗殺者の凶刃に斃れます。
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岩倉具視は、使節団のリーダーでありながら、西洋こそがよいとは流されませんでした。
刺客に襲われても斃れなかったほどの運もありました。
しかし、癌には勝てず、明治16年(1883年)に死去してしまいます。
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東洋的な仁政と、西洋の技術を両立させる――「和魂洋才」の政治的な対立は、彼らの死後、キレイに失われたかのように思えます。
かつて西郷、大久保、木戸、岩倉らが目を光らせていた「アラビア馬」こそが、政府の中心となったのです。
結果、失ったものは?
西洋に従うだけがやり方ではないという反抗心。
先住民を武力で追いやったアメリカ政府への軽蔑。
西洋文明に驚嘆しつつも、日本は別のやり方があるという意識。
こうした矜持は明治が深まるにつれ失われたかのようです。
確かに明治政府は、西洋流を真似て、文明国になったとされています。
それでも、西郷隆盛や岩倉具視が目指したような、東洋の仁政と西洋の技術がかみ合った国がもし成立していたら?
程なくして軍国主義へ突っ走った日本史のみならず、世界史も変わっていたのではないかという思いも、どうしても生まれてしまいます。
岩倉使節団は、成功もしましたし、苦い失敗もした――同時に問いを投げかける、そんな派遣であったのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
泉三郎『岩倉使節団という冒険 (文春新書)』(→amazon)
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
『国史大辞典』