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【山川浩】
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佐賀で反乱 薩摩でも反乱
明治7年(1874年)――【佐賀の乱】勃発。
山川浩は佐賀県へと向かいます。
このとき、岩村高俊県令はどうも舐めきった様子だったようです。
「どうせ賊徒なんか、余裕でしょ」
山川はそんな余裕こいた言葉を、横でじっと聞いていたそうです。
腹の底は煮えくり返っていたかもしれませんが。
この岩村の舐め腐った態度が悪かったのか。
県庁が敵に襲撃されると、官軍は大パニックになります。
岩村はひたすら右往左往するばかり。籠城の準備もない中、山川は兵糧を確保するため米倉へ向かったところ、左腕上腕部に激痛が走ります。
銃弾が貫通しておりました。
すぐさま戸板で搬送されるべきところですが、そんな人員すらいない中、山川は奮戦し徒歩で戻る他ありません。
多勢に無勢の中戦い抜き、なんとか病院で治療を受けたものの、このとき山川の左腕は自由を失います。
それだけではありません。妹・操の夫である小出光照も戦死。失うものがあまりに多い戦いでした。
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山川はこのあと、中佐に昇進し、療養のためいったん東京に戻ることとなりました。
このあとに待ち受けていたのは、挫折感に苦しむ日々でした。
左腕のこともあり、休職を願い出るものの、叶うことはありません。
そうこうするうちに、明治10年(1877年)を迎えます。
西南戦争です。
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鹿児島から西郷軍が進軍し始めると、政府は大慌てでした。
その余波は、浩の弟・健次郎にまで及びます。
彼は当時24歳、アメリカ留学から帰国し、東京大学で教授をしておりました。
「どうか頼む! 陸軍少佐になって、会津の兵を率いて戦ってくれへんか!」
健次郎に一度ならず二度までもそう申し込んできたというのが、右大臣・岩倉具視であったのですから驚きです。
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健次郎は断固として断りましたが、会津藩士の復讐心を使えると、政府が見込んでいたということかもしれません。
熊本救援一番乗り
当時の熊本鎮台は、近所の子供から「くそちん(糞鎮台)」と小馬鹿にされており、お世辞にも強いとは言えない状態でした。
ここにいたのが山川浩を引き立てた谷です。
山川は休職から復帰。
高木盛之輔(斎藤一改め藤田五郎の妻・時尾の弟)らを率いて熊本鎮台救援に向かいます。
しかし、西南戦争での官軍はどうにも足並みが乱れております。
黒田清隆のような薩摩出身者は、どうにも動きが鈍いことすらありました。西郷を討ちたくないという気持ちがあったのかもしれません。
4月14日、山川は長州人・山田顕義率いる部隊の右翼を担当し、熊本城を目指します。
薩軍は、鎮台前の加瀬川に陣を敷いておりました。
軍刀を掲げ、喇叭を吹き鳴らさせ、山川率いる右翼。ほどなくして猛然と攻撃を仕掛けます。
そのあまりの攻撃の激しさに、勇猛で知られた薩軍も退くばかり。
鎮台側すら、あまりの激しさに敵軍と思い込み、誤射をしてきてしまい、喇叭(ラッパ)を聞いてやっと気づいたほどでした。
同日夕方、山川の部隊は、見事に熊本鎮台一番乗りを果たします。
会津戦争での彼岸獅子に続く、輝かしい戦果でした。
入城に強い男、それが山川です!
鎮台側の守将は樺山資紀以下全員、病床にいた谷干城まで起き上がり、山川を迎え入れ、大歓迎と感謝を示します。
ところが、山田は山川を非難しました。
要するに、
「命令を聞かんと突出して、何を勝手に熊本鎮台に入ってんだ、この会津っぽが!」
というわけです。
山川も、流石にイラついた態度を見せていたとか。
それでも彼の性格を考慮すると、よく堪えたと思います。明治以降、山川は忍耐を身につけていたのです。
「死んでこい」と同然の無理ゲーを……
4月19日、山田は嫌がらせのような命令を山川浩に下します。
遮蔽物も何もない水田を進み、十以上ある薩軍の陣地をくぐりぬけ、辺場山に登って占拠しろというもの。
遠回しにこう言われたようなものです。
「空気を読めん会津っぽなんて、死ねばええそに」
要するに、無理ゲーですな。
これを聞いて山川はこう言うだけでした。
「これが今日の天王山だべ!」
山川は左腕が動かないにも関わらず先頭に立ち、巧みに兵を縦横に動かし、敵軍を突破。
薩軍の死者が1000名ほどであったのに対して、官軍の死者は44名という、恐ろしいほどのワンサイドゲームを展開してしまったのでした。
繰り返しますが、山田にとっては『絶対死ぬだろコレ』というおそろしい戦火をかいくぐっての中で、この大勝利です。
山川浩の軍歴は、ハッキリ言って恐ろしいほど輝かしいものです。
ただ、それに対して谷はじめ周囲から、活躍に比して年金が安いのではないか、と評価されることになります。
山川が少将に出世した際には、「ありゃ会津じゃろが!」山県有朋がケチをつけて不満を示したとも。
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会津藩士から男爵、貴族院議員ともなった山川は、紛れもない出世頭ではあります。
弟・健次郎と妹・捨松の活躍も、明治時代において際だっております。
ただ、それもあの卓越した戦歴があれば過小評価ではないのか、とされてしまったのです。
陸軍という、長州閥の中では息詰まることもあったはずです。
もっと評価されてもよい、西南戦争で活躍した会津藩士ナンバーワンといえば、まさにこの山川浩なのでした。
そして受け継がれる……柴兄弟の思い
元会津藩士であった柴五郎は、のちに【義和団の乱】の活躍で国際的名声を得る人物です。
西南戦争勃発当時、彼は陸軍幼年学校に在学中。
戦場へは出向いておりません。
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振り返ってみれば柴は、会津戦争の最中、家から出るように促されて避難しました。
そんな中、彼の祖母、母、姉妹は、残された自邸で自刃。
斗南藩でも辛酸を舐め、上京後も【一家自刃を面白がるように目の前で話の種にされること】もあるほどで、日々苦しむことばかりでした。
そんな少年にとって、西南戦争勃発は数少ない朗報でもありました。
理屈ではありません。
孝明天皇の御意志にしたがって忠勤に励みながら、薩長の新政府軍に理不尽な戦争へと追い込まれた会津の者たち。
彼は西南戦争の報を受け、日記にこう書き記しています。
「芋(薩摩)討伐仰せ出せたりと聞く、めでたし、めでたし」
彼の兄・四朗も、川路利良の警視隊一員として出征しました。
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手紙には、次のような心意気が記されておりました。
「今日、薩人に一矢放たざれば、地下に対して面目ないと考え、本日西征軍に従うために出発す」
柴兄弟の間には、これぞ復讐のときである――そんな共通意識がありました。
日本最後の内戦である西南戦争は、旧会津藩士にとっては復讐の戦いでもあったのです。
そして……。
★
陸海軍で会津出身者は出世できない――そんな評価の中、後に国際的な名声を得て活躍を遂げる人物が登場します。
それこそが柴五郎。
実に陸軍大将にまでのぼりつめた彼は、かつて山川浩の家で世話になっていました。
山川浩や佐川官兵衛(参照:佐川官兵衛)の意志は、柴らの後輩に引き継がれていたのです。
彼らの西南戦争とは、まさしく汚名をすすぐ場所でもありました。
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なお、山川浩と山川健次郎、山川捨松に注目した記事が以下にもございますので、併せてご覧いただければ幸いです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
櫻井懋『山川浩』(→amazon)
長野浩典『西南戦争 民衆の記《大義と破壊》』(→amazon)
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)』(→amazon)
猪飼隆明『西南戦争―戦争の大義と動員される民衆 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)