昭和8年(1933年)9月21日は宮沢賢治の命日である。
誰もが一度は読んだことがある童話や詩。
いかにも数多の作品が世に送り出されたイメージのある賢治だが、実際に書籍を出したのは37年の短い生涯で2冊だけ。
1924年の詩集『春と修羅』と、童話短編集『注文の多い料理店』である。
意外なことに、その中には
『雨ニモマケズ』
『銀河鉄道の夜』
『風の又三郎』
といった著名な作品も収録されていない。
近代日本を代表する大詩人にしては、あまりに少ないが、一体これはどういうことか。
本稿では、注目されそうであまり注目度の高くない「宮沢賢治の歴史」を振り返ってみよう。
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お坊ちゃまとして過ごした青春
宮沢賢治は明治29年(1896年)8月27日、岩手県花巻市で生まれた。
父・政次郎が22歳で、母・イチは19歳。
若い夫婦にとって初めての子どもかつ長男であり、いかにも苦労して育てられた雰囲気もある。
なんせ当時の東北は貧困世帯が多く、宮沢賢治の作風も東北の貧しさを漂わせることで有名となり、他ならぬ賢治が生まれた年は岩手沿岸が大津波に襲われて22,000人もの命が奪われた。
明治29年(1896年)6月15日に発生した【明治三陸地震津波】である。
しかし幼い頃の賢治は、そうした岩手に漂う暗さとは無縁ともいえる裕福な家だった。
家業が質屋(兼古着商)、つまるところ金貸しだったからであり、一家はその後、長女のトシ、次女のシゲ、弟の清六、三女のクニと子宝に恵まれていく。
そして賢治が多感なころ、作家を志すキッカケとなるいくつかの出来事が起きた。
一つは花城尋常小学校3~4年時の担任八木英三との出会いだ。
八木は子どもたちに様々な童話を授業で語り、のちに賢治が「私の童話は先生のおかげです」と語ったほど心酔していたとされる。
4年生から鉱物に興味を持ち、その熱中ぶりを家族からは「石こ賢さん」と呼ばれたほどだった。
一方で、北上川では、子どもの溺死事故があり、その記憶が名作「銀河鉄道の夜」を生んだとも言われている。
宮沢賢治
宮沢賢治は、尋常小学校をすべて(全甲)の成績で卒業。
明治42年(1909年)4月に岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高校)へ入学した。
寄宿舎で過ごした中学生活では鉱物採取にあけくれ、初めて岩手山に登り、登山にも夢中になった。
だが、賢治の運命を決定的に変えたのは、中学2年の12月のことだ。中学の10個先輩である石川啄木がデビュー短歌集『一握の砂』を出版し、それを読んだことだった。
賢治も翌年1月から歌を読み始める。
若者らしく体制や大人への反発は強く、中学4年のときには寄宿舎で監督者(舎監)を排除する運動に関わり退寮となった。
ともあれ大正3年(1914年)に賢治は中学を卒業する。
賢治はすでに身体が蝕まれ始めていた。
卒業後すぐに岩手病院で鼻炎の手術をしたところ、回復は思わしくなく、入院生活は長期に……。
その間、看護婦に初恋をした。
そして片思いに終わった。
家に戻りながらも鬱々とした日々を過ごす賢治に、父は高校(現在の大学)への進学を許す。
猛勉強の末、大正4年(1915年)に盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へ入学。
12年前にできたばかりで新しい自然学系の学びに夢中となった賢治は、同時に文芸同人誌『アザリア』を出版するなどして青春を過ごす。
そして大正7年(1918年)の卒業後も研究生として学校(今で言う大学院)に残ることになり、同年4月、徴兵検査を受けるが、体格不良(第二乙種)で兵役は免除となった。
その直後の同年6月、結核の初期症状と診断され、花巻へ。
以降15年にわたり、結核が賢治を苦しめることとなる。
誰かにすぐ影響される性格だった
病のため、研究者のキャリアを絶たれた賢治。
花巻で家業の手伝いをしながら鬱屈とした日々を過ごしていると、またもや不幸に襲われる。
日本女子大学校に進学していた最愛の妹トシも発病したのだ。
看病のため賢治は一時上京して、彼女を連れて花巻へ。
そうした一連の出来事からメンタルに負荷がかかり、そして法華経にハマっていったのであろう。
問題なのは、実家が浄土真宗だったことだ。
賢治は法華経を大声で読みながら町を練り歩くなど、浄土真宗としては目に余る行為を強行し、父との対立は深まるばかり。
家族の中で、賢治に従い、法華経に改宗したのは妹トシだけだった。
そうした状況から、家には居づらくなったようで、賢治は上京して法華経在家信者の会である「国柱会」で活動し、「法華文学」を目指して童話作りに取り組む。
かと思ったらトシが吐血した連絡を受けて、花巻へ急ぎ戻る。
気がつけば大正10年(1921年)――賢治も25歳となり、この年の12月、ようやく正職にありついた。
思えば父や家業に反発しながら、なんだかんだで脛をかじってきた賢治。
初めて独り立ちしたと言える仕事は、地元の稗貫農学校(花巻農学校)で教鞭をとることだった。
教師となった賢治は、メモを持って山野の自然観察を日課としながら熱心に農業などを生徒に教える一方、隣接する花巻女学校の教師・藤原嘉藤治と意気投合。
藤原はクラシックファンで、賢治はすぐに影響を受け、今度はクラシックに夢中になる。
賢治は給料(月給80円)のほとんどをつぎ込み、高価な蓄音機や大量のレコードを購入した。
もうその頃には法華経の熱心な布教はしていない。
意外や意外、宮沢賢治は「感化されやすい」人だったのだ。
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