平安女流文学を見る上で、欠かすことのできない紫式部。
超長編小説『源氏物語』の作者であり、歌人でもあり、『紫式部日記』の著者という才媛です。
しかしその社会的デビューは案外遅く、二十代半ば~三十代前半頃だったと考えられています。
現代でも遅いぐらいですし、当時の価値観では「なんで今さら社会に出てきたの?」というような年齢でした。
それには、彼女の生い立ちや価値観などが影響しており……本稿では『紫式部日記』を参照しつつ、紫式部の生涯を振り返ってみました。
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紫式部のご先祖様は摂関政治の礎・藤原冬嗣
紫式部の生没年は不明。だいたい天禄元年(970年)~天延元年(973年)あたりだと推測されています。
先祖をたどっていくと、父方も母方も北家・藤原冬嗣に行き着きます。
藤原冬嗣は摂関政治の礎を作ったような人で、その息子・藤原良房は臣下で最初に摂政となっていますね。
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つまり彼女は、非常に由緒正しい家柄の出でした。
しかし、紫式部の父・藤原為時は大した出世をしていません。
おそらくや生粋の文化系だったのでしょう。文章道(漢文学)を志して学者になるのです。
世間の主流とは少々異なる道に、最も身近な先達である父が進んでいたのでした。
また、母に関する紫式部の言動や記述が全くないことから、幼い頃に両親が別れたか、母と死別したものと考えられています。
そのため、紫式部は弟(もしくは兄)と共に、父の手元で育ちます。
「幼少期の紫式部が、弟よりも先に漢文を読みこなし、父に『お前が男だったら』と言われた……」なんてエピソードもあります。
25才ごろに藤原宣孝と結婚 娘・賢子を授かる
彼女はこのことをずっと覚えていたようで、実家にいる間、父の蔵書から得た多くの知識を表に出そうとはしませんでした。
琴もうまかったようですが、それも自らひけらかそうとはしていません。
若い頃には、父の任国である越後に行ったこともありました。場所こそ違うものの、旅の経験は源氏物語の須磨謹慎のあたりに活かされたことでしょう。
それと前後する25歳あたりに、父の友人でまたいとこにあたる、藤原宣孝(のぶたか)と結婚しています。
親子に近い年の差で、しかも正妻としてではない結婚。宣孝は、たびたび手紙でおちゃめな謎掛けをするなど、紫式部の才気を愛していた様子がうかがえます。
やがて、二人の間には娘・賢子(かたいこ・のちの大弐三位)が生まれ、ささやかな幸福が訪れました。
しかしそれもつかの間のこと。元々かなり年上だった宣孝は、長保三年(1001年)四月に急死してしまい、母娘は取り残されてしまうのでした。
夫を喪ってから源氏物語を書き始めた
この時点では父・為時も存命中でしたので、頼るアテがないということではありません。
しかし、紫式部日記などから窺うに、彼女は結構寂しがりなところがあったようですので、身近な人物の急逝は、相当メンタル的に堪えたと思われます。
源氏物語を書き始めたのは、夫を失って半年ほど経った頃からとされています。
書かれた順序は不明ながら、数年のうちに貴族社会で評判となり、やがて当代きっての権力者・藤原道長の耳にも入りました。
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その頃、道長は娘・彰子を入内させて数年経った頃です。
しかし、彰子の夫である一条天皇は、恋女房で既に薨去していた藤原定子(清少納言の主人)を忘れかねており、定子の妹の元に通うなど、彰子への関心を示していませんでした。
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ゴリ押しして彰子を中宮にした道長としては、なんとしても一条天皇と彰子を親密にし、皇子が産まれてもらわないと困ります。
そのためには彰子の周辺に良い女房を揃え、彰子自身を魅力ある女性に教育させるのが一番と考えました。
女房としての生活はなかなか大変だったでしょう
当時、彰子の周りには中宮へ仕えるにふさわしい家柄の女房が多々いたようです。
ただ、彼女らはあまりにお姫様すぎて実務ができず、また風情にも欠けていたのだとか。
そのため道長は気分を切り替え、紫式部や和泉式部、赤染衛門といった、世に才媛として知られている女性たちを彰子の元に集めます。
和泉式部は、少なくとも母親が女房勤めをしていましたし、赤染衛門は元々彰子の母で道長の正妻である源倫子に仕えていたため、いざ2人が彰子の元にやって来ても、ある程度の要領はわかっていたと思われます。
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しかし、紫式部は違います。
それまでずっと実家にいたため、宮中の女房としての暮らしや仕事にはなかなか慣れることができませんでした。
風流や優雅なイメージが強い宮中ですが、その実態は割とあけすけな共同生活です。壁のない大きな部屋を几帳などで区切って使っているため、プライバシーなどはありません。
また、日記や手紙を他人が見てしまう……ということもままあったようです。
盗賊が入ってくることもあれば、すぐ側を貴賤問わず男性が通り、顔を見られてしまうこともありました。「顔を見られる」と「関係を持つ」ことがほぼイコールだった当時、これは相当に異質なことでした。
女房勤めに慣れていればともかく、紫式部のようにずっと実家にいて大人になった貴族女性にとって、耐え難い環境と言っても過言ではないわけです。
「貴女はもっと近寄りがたくて嫌味な人だと思っていたわ」
また、彼女自身、漢学の素養や源氏物語の作者などといった点で、人の口に上るのは嫌だと思っていたらしき記述が、紫式部日記に書かれています。
いつの時代も、何か特徴のある人は勝手なイメージを持たれやすいもの。
近い時代に同じく漢学の知識があり、それをおおっぴらにしていた清少納言という先例もあったためか、紫式部も「勝ち気な女」と思われがちだったようです。たとえば……。
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