貞観大噴火

こちらは江戸時代の宝永噴火で中腹にポッカリと開いた富士山の宝永火口

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貞観大噴火は富士の樹海を作るほど破壊的な規模だった(864年~)

貞観6~8年(864~866年)に、富士山で【貞観大噴火】が起きました。

山梨県(甲斐国)から都へ通告されたのが貞観6年(864年)7月17日。

静岡県(駿河国)からは貞観6年(864年)5月25日に報告されていて、結構な差が開いていることから、山梨側の被害や混乱が大きかったことが浮かび上がってきます。

【宝永の大噴火】と並び、有史以来では最大クラスの噴火規模だったので、それはそれは恐ろしいものだったでしょう。

『竹取物語』や『更級日記』にも富士山の噴火に関するくだりがありますが、中央の人にも大きな影響を与えていたことがわかります。

ということで貞観大噴火を振り返ってみましょう。

※以下は宝永の大噴火の関連記事となります

宝永大噴火と宝永火口
富士山の中腹に超弩級の穴を開けた「宝永大噴火」の恐ろしさとは

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864年貞観大噴火

噴火の被害についてはっきりわかるのは、貞観六~八年(864~866年)にかけて数回の噴火を繰り返したということ。

西北斜面にいくつかの噴火口ができ、大量の溶岩が流れ出て、駿河(現・静岡県)や甲斐(現・山梨県)の役人からは生々しい報告がもたらされました。

最も大きかった噴火口は「長尾山」と呼ばれます。

恐ろしいのは、この噴火からわずか数年で東北地方に大津波をもたらした貞観地震(869年)が起きたことでしょうか。

当時の日本列島は、地下の大変動期だったという見立てもあり、もしかしたら今も似たような状況かもしれない――と指摘される識者さんもおられます。

まぁ、そんなことを言ったら日本は年がら年中あらゆるところで大きな地震は起きているのですが……。

以下の記事に地震の歴史をまとめておりますので、よろしければ併せて御覧ください。

東日本大震災
地震大国・日本では過去に何度の大地震が起きたか?地震の歴史まとめ

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青木ヶ原樹海をつくった溶岩流

貞観大噴火は富士山周辺の地形を大きく変えました。

このころ富士山の北側には広大な湖「せの海」があったのですが、流れ出た溶岩がその湖を埋没させ、溶岩の上にできた森が青木ヶ原樹海だといわれています。

湖は、今も、富士五湖の西湖と精進湖としていくらか残っていますね。

要は、この2つの湖が、せの海の一部だったわけで、溶岩で埋めらたてられた面積は実に3,000ヘクタール(東京ドーム640個分)にも及びます。

なお、875年には都良香(みやこのよしか)という役人が富士山に登り、蒸気が上がっていた記録も残されています。怖くなかったんでしょうか。

頂上の火口には、今なお残る「虎岩」という岩も確認されており、貞観の大噴火以降、富士山では頂上の火口から噴火していないことが推測されます。

まぁ、他の火口からは噴火しているからあまり関係ないんですけどね。

平安時代は富士山の活動が活発だった時期の一つで、その後も永保三年(1083年)まではほぼ定期的に噴火していたらしき記録が残っています。

 


もしも戦国時代に起きていたら信玄や氏康は……

鎌倉時代から室町時代の前半は落ち着きを見せておりました。

しかし、永享七年(1435~1436年)あたりと永正八年(1511年)に再び噴火しています。

もうちょっとズレてたら、戦国時代は全く違った歴史になっていたかもしれませんね。

織田信長の尾張以西はともかく、武田信玄北条氏康は富士山が噴火したらどう考えてもアウトな位置にいました。

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もし、そうなったら両大名はどんな行動をとったのか。

IF小説でも読みたくなりますが、それはさておき幸運にも戦国時代~江戸時代初期も富士山は大人しくしていてくれました。

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