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【宋とは?】
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魅惑の輸入品
宋代は技術革新がめざましい時代でした。
『光る君へ』で藤原宣孝が持ち込んだ珍しい品の中には酒もありましたが、「カッと体が熱くなり、戦人が好む」ということで、日本のお酒とはかなり味わいが異なる蒸留酒と見なせるでしょう。
まひろが興味津々となりそうな発明としては【宋版印刷】があります。
それまで筆写しかなかった書籍の流通が、印刷により情報量が拡大したのです。
他にも数多ある発明品を品目ごとにまとめておきます。
・磁器
『光る君へ』では、皇族や上級貴族の持ち物として、これみよがしに磁器が飾られています。
笑みを浮かべた藤原兼家が、ドーンと磁器だらけの棚を前に座っていることがあります。あれは威信材として磁器を誇示しているように見える。
日本でも焼き物はありましたが、薄く繊細な磁器を当時作れたのは世界広しと言えども宋だけです。
唐代の磁器と比べて、はるかに技術力が増した磁器は、まさに至高の美――その磁器を用いることは、限られた権力者だけでした。
宋代の磁器は絵付けがなく、シンプルで、すっきりしたシルエットが特徴。
日本ではこの美しさが長く好まれ、貴族や大名家ではこぞって集めてきました。
中でも南宋時代の「曜変天目茶碗」は、日本でも屈指の人気を誇る逸物です。
・銅鏡やコスメ
『光る君へ』の劇中では、藤原斉信が一条天皇と中宮定子に「越前から渡ってきた」という銅鏡をうやうやしく贈りました。
あれも宋からの渡来品と見なせるでしょう。
あるいは、香木や染料、まひろがつけていた紅など。
オシャレに欠かせない品も、輸入品が多かった。着飾るためにも輸入は必要不可欠だったのです。
・薬品
宣孝が「どんな傷でもすぐ治す!」という塗り薬を自慢し、ビジネスチャンスを見出していました。
実用的な薬品は、当時の貴族がこぞって入手したいものです。
『光る君へ』を見ていればおわかりかと思いますが、当時は皇族だろうが上級貴族だろうが、治療を祈祷に頼っていた時代です。
むろん、薬師(医師)がいないわけではありません。
とはいえ、どうしても時代遅れではある。本場の確たる技術による治療を求める気持ちは当然のことながら湧いてきます。
そんな医学ニーズがよくわかるのが、藤原実資の『小右記』です。
『光る君へ』で注目される実資の日記『小右記』には一体何が書かれている?
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はるばる太宰府まで薬品を求め、処方を依頼したことが記されているのです。それだけ健康に気遣って暮らしてたからこそ、当時としては驚異的な長寿を保てたのでしょう。
なお、花山院に矢を放っていた藤原隆家も、後に、目の治療のためとして太宰府赴任を願い出ています。
本場の医学は実に魅力的であったのです。
・蒸留酒
中国で「白酒」と呼ばれる酒類です。
中国における蒸留酒の起源は、まだ結論がでない状況ですが、明代の『本草綱目』によれば、元代発祥とされます。
しかし文献を見ていくと、度数が高く、刺激の強い、蒸留酒らしきものが出てきて、発掘調査が進むと、唐代や宋代の遺跡から蒸留酒作りをしていたような跡が出てくる。
そこで『光る君へ』では、蒸留酒の発祥については「宋代以前説」を採用したのでしょう。
平安京の貴族たちが飲んでいる醸造酒と比較すると、違いが際立っております。
カルピスのように白濁していて、甘さも強烈、度数は低い。それが当時の日本酒であり、透き通った透明の酒になるのは、もっと時代がくだってからのこと。
焼酎となれば、さらに先のこととなります。琉球、薩摩を経て、南から伝わり、江戸時代に作られるようになりました。
・宋版印刷
清少納言は『枕草子』に、紙をもらったことをうれしそうに、誇らしげに記しております。
当時の平安貴族にとって、書籍は筆写するものであり、まずは紙の入手が簡単ではなかったのです。
それが宋で発明された印刷により、情報革命が起きた。
この貴重な印刷物は、藤原道長が所蔵していたものが伝わっております。
印刷が普及すると、インプットも教養の高まりもスピードアップします。
その恩恵が本格的に日本へ及ぶのは、鎌倉時代以降。
鎌倉の金沢文庫には、宋から直送された印刷物が貯蔵されてゆきました。
・茶
中国大陸は広大で、華北と江南では文化も異なります。
【魏晋南北朝】にはこの違いが強く出ています。
唐の皇帝は鮮卑族由来とされ、遊牧民の影響が強い華北文化に族するといえます。
その影響を受けた日本も、遊牧民の文化が到達します。
醍醐といった乳製品や、ポロとルーツを同じくする「打毱」がわかりやすい例です。
一方で江南には別の文化があります。
九州と江南は海路が近く、行き来しやすい関係にあり、影響を受けやすい。
そんな江南で急速に広がっていた飲料が、茶になります。
平安時代にも日本に伝わったとはいえ、国内生産もできず、あくまで渡来品として楽しむ程度にとどまりました。
栽培も伴う本格的な定着は、こちらも鎌倉時代以降となります。
科挙そして女性詩人・李清照がいた時代
宣孝の話から、科挙の話を聞いたまひろは、日本にもあればいいと興奮していました。
しかし、あの場面はちょっと不自然です。
科挙は宋代の前からあり、唐代の文献を読み込んでいるまひろならば、知らない方がおかしい。
それこそ為時ならば「科挙さえあれば自分は出世できたのに……」と、ぼやいてもおかしくはありません。
あれは宣孝の前でわざと知らぬふりをしたのか。あらためて感銘を受けたのか。そのあたりでしょうか。
・科挙
日本でも【科挙】を導入しようとした痕跡はあります。
まひろの弟・藤原惟規が入学した【大学寮】は、唐にあった科挙用の学校です。
しかし、日本では科挙は定着せず、大学寮も形骸化してしまいました。
それゆえ、まひろのように「実力で官僚を選抜すべきだろ!」というモヤモヤ感は、日本にずっと残っていたようです。
【寛政の改革】では、旗本御家人を対象とした、儒教朱子学の知識を試す【学問吟味】が導入されました。
科挙のように確固たるルートではないけれど、ある程度の出世は見込める――あくまで旗本御家人対象ながら、実力による登用は江戸時代には存在していたのでした。
ただし、科挙にしても、明代以降は弊害も大きくなり、悩ましい制度ではありました。
清末以降など、時代錯誤の象徴として盛んに批判もされています。
しかし、ヴォルテールが最も合理的な官僚登用制度と称賛した制度であり、現在にまで形を変えて残っているとも言える。
日本史において科挙を考えるとすれば、
・なぜ定着しなかったのか
・それがもたらしたメリットとデメリット
という点について考えることであり、科挙批判は中国史が行うべきでしょう。
『光る君へ』でのまひろは、そうした問題提起をしているともいえます。
・詞(し)
唐代から広まった漢詩のあらたな形式として【詞】があります。
音楽にのせた軽妙な形式で、宋代で本格的に広まった。
しかし日本では、もう唐から積極的に学ぶ時代を過ぎてからの流行であり、積極的に取り入れられません。形式も変化が激し過ぎて、日本では影が薄いジャンルです。
ただし、この詞の名人には、紫式部があこがれそうな女性詩人がいます。
宋代の李清照です。
夫の趙明誠とは相思相愛で、互いに協力しあい著書を編纂するほどの文人夫妻。
詞における宋代最高の詩人、中国史上最高の女流詩人と評されます。
しかし【靖康の変】に遭遇し、苦難の人生を歩み、作品が散逸したことが惜しまれる。
夫と理解しあい、相思相愛――才能を存分に発揮する。紫式部の理想そのものの生き方が、宋にはあったのです。
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