大河ドラマ『光る君へ』が始まり、何よりも驚かされたのが想像以上に荒くれ者だった貴族たちの本性でしょう。
まひろの母・ちやはを刺殺した藤原道兼をはじめ、花山院の牛車に矢を放った藤原隆家、さらには街中で子供たちを買い漁る人買いや、直秀ら一行を殺して山に捨てた検非違使の連中など。
和歌やら蹴鞠やら物語やら、雅な世界はどこいったんだよ!
そう嘆きたくなるのは無理もありませんが、実のところ平安京は恐るべき暴力都市と言えます。
貴公子たちが暴力沙汰を起こしたからこそ動いていった、そんな歴史を振り返ってみましょう。
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平安貴族といえば優雅な牛車だが
平安時代に欠かせない移動手段といえば「牛車」です。
それの何が暴力と関係あるのか?と思われるかもしれませんが、おつきあいください。
牛車は平安貴族にとって愛車です。イケてるお兄ちゃんがバイクや車で暴走するように、牛車も破壊衝動と直結するため、その説明から始めさせていただければと。
ちなみに、戦国武将にとってはこれが「名馬」となります。
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日本史における「乗り物の歴史」はなかなか不思議なもので、西洋でも、中国でも、朝鮮半島でも活躍した馬車がありません。
牛車も、実際そこまで広く普及してはいません。官位が高いものだけが用いるステータスシンボルとしての一面があり、維持費もかかりました。
ゆえに貴族の財力が乏しくなれば、必然的に牛車も廃れる運命にあり、武家政治以来、貧しくなる一方の彼らが維持できなくなると、歴史の中に消えてしまったのです。
しかし、牛車にまつわる記録は残されました。
清少納言も『枕草子』に記しています。
どんな牛車が素晴らしいか。スピードを出しすぎるのは風情がない。通り過ぎてゆく牛車に「誰が乗っているのか?」と思いを巡らせることもよいものだと。
戯れに卯の花を牛車に飾る。すると皆が争って挿し始め、たちまに花だらけになってしまった――。
そんな雅な話も残されているわけですが……物語作品にはトラブルもしばしば出てきます。
脱輪、事故、転落などは、貴族にとってお馴染みであり、
「嫌いな奴と同じ車で気まずいったらないわ!」
「ケチって大人数で乗ってしまい、スピードが全然でねぇ!」
「車中泊になってしまった。こんな時に限って大人数だからしんどいのなんの!」
という話もあります。
そして、笑っては済まされない命に関わる危険もありました。
プライドに関わる牛車の争い
『源氏物語』の「葵」で描かれる車争いは、深刻な事態に発展します。
賀茂祭を牛車でこっそり見にきた六条御息所は、目立たないけれどよい場所にいました。
すると葵の上の牛車がやってきて、「その場所を譲れ」と従者たちが争いを始め、六条御息所の牛車を破壊させてまで移動させます。
衆人環境で恥をかかされた六条御息所は、生き霊となり葵の上を祟り殺す――。
怪異な展開ゆえ、六条御息所が恐ろしいと思える描写ですが、その原因を作ったのは誰なのか?
結果的に暴力を用いてまで牛車を排除したのは葵の上の権威です。実際に力を振るったのは従者でも同罪でしょう。
この一件がなければ六条御息所も静かに祭りを見られたはず。
そして当時の読者である貴族たちは『源氏物語』が描くリアリズムに感嘆したことでしょう。
なんて生々しい話なんだ……。冗談で済まされる話ではないぞ……。
そう感じても不思議ではなく、だからこそ『源氏物語』は絶大な人気を博したのかもしれません。
貴族は礼儀作法を大事にします。
牛車でも上座と下座のルールはあり、例えば乗るだけでなく、並べる時も大事。それを契機としたのが、前述した六条御息所と葵の上のトラブルでした。
後に権力を極める藤原道長でも、牛車では苦い経験があります。
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道長の生まれ順は遅く、兄にはかなわない日々が長く続いていました。
それが思わぬ展開で兄の藤原道隆と藤原道兼が早くに亡くなり、予想外のチャンスが巡ってきた……ように見えて、実際は道隆の子である藤原伊周と藤原隆家よりも下にいる日々が続きます。
ある日、道長が河原で禊(みそぎ)へ向かったところ、伊周が先んじており、大勢の取り巻きもいました。
彼らをあまり刺激しないよう、道長は、伊周の牛車から自分の牛車を離そうとします。
それがグイグイと伊周の方へ進んでしまった。
「おやめなさい、伊周殿に無礼ではないか。遠ざけよ」
そう道長が止めると、御車副(みくるまぞい)の某丸は返します。
「つまんねえことを言うもんスね〜、そういう弱気だからついてないんじゃないですか。いやですよ、いや!」
そう言いながら牛に鞭を当て、グイグイと伊周の方へ迫ってゆく某丸。
牛車の中で道長はハッとしました。
こいつ、なかなか手厳しいことを言うが間違ってはいないのやも……。従者の言葉に叱咤激励された道長は、この某丸をますます可愛がったとか。
そんな経験がある道長からすれば、紫式部の観察眼とプロット構成は大したものだと感じ入ったことでしょう。
「なんだ、ケンカにでもなるかと思ったら、道長はぬるいやつだな」
という印象をお持ちになられたでしょうか?
いくらなんでも、この強気な某丸だって、そこまで本格的に武装していないし、ムキムキマッチョな大男でもなかっと思います。
いや待って、そんなマッチョどもが平安貴族の周辺にいるわけあるか! そう思いましたか? それがそうでもないのです。
牛車が通ってはいけない! 恐怖の道
ステータスシンボルであるがゆえに、譲り合いの精神が大事だった牛車。
実は都には“通ってはいけない場所”もありました。
例えば「内裏」に牛車で入ることはルール違反というのは、理解できるでしょう。
その他にも暗黙の了解があり、位の高い人物、さらには危険人物の門前を避けることも無難とされました。
一体どういうことか?
ワケわからないと思いますが、
「俺ん家の前を牛車で通るんじゃねーぞ! 通ったら後悔する目に遭うぞ!」
と鼻息荒くするオラつき権力者がいたのです。
その代表格が花山法皇でした。
あるとき藤原公任(きんとう)と藤原斉信(ただのぶ)が、花山法皇邸のある近衛大路を牛車で通ってしまいました。すると……。
「オラ、テメエら、ここがどこだかわかってんのかァ!」
「生きて通れると思ってんのかーッ!」
武装した花山法皇の従者が牛車を取り囲み、やたらめったら投石してくるのですからたまらない!
牛車の中で二人の貴公子は命の危険すら感じたことでしょう。
この二人は、ついうっかりしていたパターンですが、一方で、敢えて挑む確信犯貴公子もいました。
花山院がオラオラ系貴公子の藤原隆家に対してこんな挑発をしました。
「いくらオメエだってよ、俺の家の前を牛車で通過する度胸はねェよなァ」
「は? この隆家にできないわけがないっスよ!」
挑まれたら引き受けるしかねえ!
とばかりに、隆家はいかつい愛用の牛車二台と、50人から60人の従者をつけて花山院へ向かいます。
しかし、現場に近づいた隆家一行は戦意を喪失します。
そこにいたのは、言葉にもできぬほどオラついた武装法師集団70名から80名。彼らが長い棒やらでかい石を手にして待ち構えていたのです。
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コイツら一体なんなんだ?
大和和紀先生作画『あさきゆめみし』の世界ではなく、原哲夫先生作画『北斗の拳』の世界じゃないですか。
なお、花山法皇は騎馬による通過も許していません。無理に敢行しようとした者が暴力制裁の憂き目にあっております。
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