大河ドラマ『光る君へ』も最終盤にきて、一気に株を上げているのが藤原隆家。
かつて花山院に矢を放って兄の藤原伊周と共に左遷された頃は、言葉遣いも悪く、なんだこの乱暴者は?という描かれ方でしたが、左遷先から都へ戻り、あらためて太宰府へ赴任してから一気に雰囲気が変わりました。
陰湿な内裏より大宰府のほうが性に合っている!
目先の富よりも仲間がいる方が嬉しい!
自らそう高らかに言うように、非常にイキイキとした表情で地元の豪族や武士たちと親しげにしています。
あれはドラマだけなのか?
と思ったら、そうとも言い切れないのが史実の藤原隆家です。
実は「天下のさがな者(乱暴者)」と称されるほど戦闘的だった貴族であり、【刀伊の入寇】も彼が率いたからこそ撃退できたのではないか?と思わされます。
もしも藤原行成が派遣されていたらどうなっていたか……。
と、それはさておき、隆家はどんな生涯を過ごし、そして異国の襲撃を撃退することになったのか。
史実面から振り返って参りましょう。
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道隆と貴子の間に生まれる
藤原隆家は天元2年(979年)生まれ。
前述の通り、父はあの藤原道隆であり、母は歌人としても名高い道隆の嫡妻・高階貴子。
叔母には円融天皇の女御であり一条天皇の母である藤原詮子がいて、叔父には藤原道長という、当時、トップクラスの境遇に生まれました。
それだけではありません。
きょうだいもまた後世に名を知られた人物であり、父母が同じ5才上の兄に藤原伊周、2才上の姉に藤原定子がいます。
ありとあらゆるものに恵まれた境遇の中で生まれた隆家は、英才教育を受けながら、のびのび育ったことでしょう。
とはいえそれも、全ては権力闘争に勝利したからこその果実です。
大河ドラマ『光る君へ』でも描かれているように、祖父の藤原兼家はその頃まさに政争のど真ん中にいました。
一条天皇の御代 スピード出世を遂げる
藤原兼家にとって、娘の藤原詮子が産んだ東宮・懐仁親王(やすひとしんのう)の即位は悲願でした。
孫が即位すれば摂政として権勢を振るうことができる。
しかし、円融天皇の次に即位した花山天皇はまだ若く、しかも藤原義懐(よしちか)を重用するなどして兼家には逆風が吹いていた。
そこで寛和2年(986年)、兼家は二男・藤原道兼を用いた謀略により、まだ若い花山天皇を出家させると、まだ幼い東宮を一条天皇として即位させたのです。
この政変は【寛和の変】と呼ばれ、兼家が頂点へ上り詰めてゆく。
長男・道隆の子たちも自然と引き立てられました。
まず、永祚元年(989年)に道隆が内大臣に就任すると、長男の藤原伊周は従四位となり、藤原隆家は元服と同時に従五位下に叙されたのです。このとき隆家は11才。
以降、隆家は怒涛の出世を果たします。
以下にざっとまとめておきましょう。
永祚2年(990年)侍従任官のちに右兵衛権佐/姉・藤原定子が一条天皇に入内
正暦2年(991年)従五位上
正暦3年(992年)正五位下・左近衛少将
正暦4年(993年)従四位上・右近衛中将
正暦5年(994年)正四位下のちに中将、従三位、公卿に列する
長徳元年(995年)権中納言
絵に描いたような順調な出世であり、この先も一族で頂点を目指すのは自然の流れかと思われたでしょう。
しかし、現実は甘くありません。
長徳元年(995年)に父の道隆が没してしまったのです。
叔父の藤原道兼が関白を継ぐのですが、流行病に罹ったのか短期間で命を落としてしまい、「七日関白」と称されました。
そして起きたのが伊周・隆家兄弟と、叔父・道長による新たなる権力争いです。
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