藤原妍子

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

道長の次女・藤原妍子は派手好きで自己主張強め!三条天皇に嫁ぎ一人娘は皇統を繋ぐ

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一種物=パーティやりすぎ 彰子に叱られる

当時の貴族社会でも、現代でいうところの”飲みニケーション”は重視されています。

長和二年(1013年)2月24日、道長が「明日は彰子の御所で一種物をやろう!」と呼びかけ、貴族たちは準備に取り掛かりました。

「一種物」というのは、参加者がそれぞれ一種類ずつ食べ物を持ち寄る形式の宴会で、わかりやすくいうと持ち寄りパーティーですね。

しかし、彰子がこれに反対します。

「妍子が毎日のように宴会をしていて、貴族たちの負担になっています。

今は父上にへつらって皆が参加していますが、お亡くなりになった後はきっと非難されるでしょう。

今度の宴会はおやめください」

そう真っ向から父に逆らったうえで、妍子の振る舞いも非難したのです。

実はこれ『小右記』に乗っている話で、著者である藤原実資は彰子の振る舞いを「賢后と申すべき」と褒め称えています。

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妍子がどう反応したのかまでは書かれていないのですが、果たしてどうだったのか。

ちなみにこのとき道長は粘ったらしく、藤原頼通(道長の長男で彰子の弟)が二人の間を三回も往復したとか。

この時点で頼通も正二位・権中納言兼左衛門督という高位高職だったのですけれども、父や姉の前ではただの使者扱い……ちょっとかわいそうですね。

 

女房たちも贅沢な重ね着?

万寿二年(1025年)1月23日、妍子は皇太后として大饗(だいきょう・この場合は后妃が臣下から拝礼を受ける正月行事の一つ)を行いました。

その場に参加した妍子の女房たちが十五枚以上の着物を重ね着し、御簾のうちから袖口を見せる出衣(いだしぎぬ)をしていたそうです。

これが贅沢だとして、関白になっていた藤原頼通の不興を買いました。

というのも、以前道長が

「彰子や威子は女房に六枚以上の衣を着せないので(倹約していて)結構。しかし妍子は(そうではないので)困ったことをする」

と言っていたことを覚えていたので、兄として示しをつけようとしたのです。

しかし後日頼通が道長に怒られてしまい、彼はまたしても面目を失っています。

確かに、現代でも底冷えがキツイことで知られる京都の真冬。

この件に関しては、ぜいたく云々というより、寒がる女房たちに対して

「厚着をしてもいいから、せめて色合いを美しく整えて見苦しくないようにね」

と命じた妍子が可能性もあります。

道長が頼通を叱ったのも「今年は格別寒いのだから、厚着をするくらいなんだというのだ」といった内容だったのかもしれません。

 

彰子相手に強気の返答

最後のエピソードは、贅沢とはちょっと毛色が違うかもしれません。

長和二年(1013年)4月、妍子は出産のため父・道長の本邸にあたる土御門第へ退出することになりました。

その途中で彰子の御所に立ち寄り、ここで母の倫子や妹の威子とも再会して宴会となり、姉妹間でお互いに贈り物のやり取りをしています。

彰子から妍子へは紀貫之筆の『古今和歌集』などが贈られ、妍子から彰子への返礼は、村上天皇御記(日記)を絵草紙にしたものだったといいます。

しかしこの絵草紙、宮中を出る時に藤原斉信が妍子に贈ってくれたばかりのものでした。

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藤原斉信は隆から長に鞍替えして貴族社会を生き残る『光る君へ』はんにゃ金田

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貴族社会では何かの折に贈られた絹を別の家へ贈る、ということがよくあったので、妍子はそれと同じ感覚で彰子へ絵草紙を贈ったのでしょう。

ですが彰子はそうは受け取らず、自筆で

「せっかく頂いたものを他人にあげてしまうとは何事ですか」

と注意書きしたうえで、絵草紙を妍子へ送り返したそうです。

これに妍子は気分を損ねたのでしょう。

「私から差し上げたものを返されたので、姉上から頂いたものもお返しするのが筋でしょう」

と自筆で添え書きをし、もらった和歌集を彰子に返したといいます。

筋は通っていますが、妊娠後期にこのようなやりとりとは……妍子の気の強さが見えますね。

ちなみに居貞親王は、こうした妍子のふるまいについてあまり触れていなかったようで、めぼしい記録が見つかりませんでした。

居貞親王は最初の夫人だった藤原綏子(道長の妹)が不貞を働いて宮中を出たり、その後身ごもっても責めなかったことがありますので、妍子の贅沢にもとやかく言わなかったのかもしれません。

密通に比べれば多少のぜいたくは……というところでしょうか。

これを優しさと取るか、”道長に遠慮して言いたくても言えなかった”と取るか。判断の難しいところですね。

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