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【藤原妍子】
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立后
寛弘八年(1011年)に居貞親王は即位して三条天皇となりました。
すると翌寛弘九年(1012年)には妍子が中宮に立てられます。
しかし三条天皇は長年連れ添い、多くの皇子・皇女を育て上げた藤原娍子の立場も守るため、自ら一帝二后を再開し、娍子を皇后にしました。
これに対し道長はどうしたか?
というと、娍子の儀式に必要な調度品を渡さないなど、あからさまに不快さを示しましたが、ぶつけられる形になった妍子は?というと……あまり反応していません。
娍子の立場を思いやったのか。
悪い言い方をすれば眼中になかったのか。
三条天皇はその後病が続き、目を患ったため道長が強く譲位を主張。
娍子を母に持つ敦明親王を次の皇太子につけることを条件に、三条天皇は後一条天皇(彰子の子・道長の外孫)への譲位を長和五年(1016年)に了承しました。
道長からすると「譲位された後に妍子との間に子が生まれればさらに万全」と思えたでしょう。
しかし、そうはならず譲位の翌年である寛仁元年(1017年)5月、三条上皇は崩御するのでした。
妹二人が続いて死去
その年の夏、敦明親王が政治的不利から皇太子の地位を降りることを決意し、道長に申し出ました。
これによって後一条天皇の弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たに皇太子となり、道長は大喜び。
返礼に近い形で、”小一条院”の尊称と、妍子にとっては異母妹となる藤原寛子を敦明親王へ嫁がせました。
異母妹が義理の嫁にもなったわけです。ややこしや。
寛子は一男一女に恵まれます。
しかし、万寿二年(1025年)7月に若くして薨去。
さらに同年8月5日(1025年8月30日)には、同母妹の藤原嬉子も亡くなります。
寛子の死に関する記録は乏しいのですが、嬉子はまだ18歳かつ皇子を産んだ直後だったこともあってか、道長と倫子は深く嘆き悲しみました。
死者蘇生のまじないまでしていたとされますから、よほど現実を受け入れがたかったのでしょう。
このあたりから摂関家の栄光が陰り始めます。
娘の禎子内親王が敦良親王に入内
実家の行く末に翳りが見える一方、藤原妍子にとってはひとつの慶事がありました。
万寿四年(1027年)3月、娘の禎子内親王が敦良親王に入内し、皇太子妃となったのです。
この後しばらくして禎子内親王が産んだ皇子が後三条天皇となり、皇統が続いていくことになります。
妍子本人は、娘の結婚を見届けた半年ほど後、万寿四年9月14日(1027年10月16日)に薨去。
またしても娘に先立たれた道長はすっかり気落ちし、翌年に亡くなりました。
政略結婚の駒にされながらも、自己主張をしっかりしていた妍子は、当時の貴族女性としては自主的な生き方をできたのかもしれません。
現代人からすると寿命が短いようにも見えますが、当時としてはやや早いくらいですしね。
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長月 七紀・記
【参考】
服藤早苗/日本歴史学会『藤原彰子 (人物叢書)』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典
ほか