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【藤原道綱】
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寛和の変で殊勲賞
藤原道綱が童殿上(わらわてんじょう・貴族の子弟が宮中で作法を習う)に上がったのは、安和2年(969年)のこと。
翌年の天禄元年(970年)には従五位下に叙されるなど、父・藤原兼家の威光を受けて、順当にキャリアを歩んでゆきます。
ただし、良いときも悪いときも、父の影響を受けるのがこの時代の宿命。
父・兼家が、不仲である兄の藤原兼通と争い、失脚してしまい、道綱の前途にも暗い影を落とすのですが、彼が思わぬ脇役としての姿を見せる事件が起きます。
【寛和の変】です。
事件の主役となるのは花山天皇――道綱の父・兼家にとっては実に邪魔な存在でした。
兼家の娘・藤原詮子が産んだ懐仁親王(円融天皇唯一の皇子)が東宮から天皇になろうとしても、花山天皇はまだ17歳と若く、まだ譲位が望めそうになかったのです。
もしもその治世が長く続けば、懐仁親王が天皇となって兼家が権勢を振るう外戚政治もできなくなってしまう。
しかも花山天皇は、兼家にとっては甥にあたる藤原義懐を重用している上に、新たに皇子でも生まれたら、それこそ懐仁親王の即位も危うくなるかもしれない。
こうなると、花山天皇の譲位が先か、兼家の寿命が先か……。
寛和2年6月23日(986年7月31日)、時は訪れました。
熱愛する藤原忯子に先立たれて精神状態が悪化した花山天皇は、兼家の子・藤原道兼に出家を促されました。
花山天皇の譲位と同時に出家をさせて、懐仁親王を即位させてしまおうという魂胆です。
そこで道兼が花山天皇をそそのかして、首尾よく出家させることに成功。
藤原道綱は何をしたのか?
ドラマではお調子者の危なっかしい印象でしたが、この一件では見事に【三種の神器】を内密で懐仁親王のもと運び込み、即位を進めました。
兼家の息子たちによるチームプレーとでも言いましょうか。
この【寛和の変】における兼家チームのMVPが藤原道兼ならば、次席の殊勲賞は藤原道綱かもしれません。
結果、一条天皇が即位。
兼家チームの強引なやり口には反発も少なくなかったようですが、勝利は勝利であり、藤原義懐ら花山天皇サイドの側近も去り、兼家たちの我が世の春が到来しました。
兼家は摂政、そして藤氏長者となったのです。
道綱も、嫡出の兄弟には及ばぬものの、寛和3年(987年)には従三位となり、公卿へ名を連ねることになりました。
異母きょうだいの政争を見守る
【寛和の変】という際どい策により頂点に登り詰めた藤原兼家。
事件から4年後の永祚2年(990年)、関白になると、頂点を取って満足したのか、それとも体力の限界かだったのか、病を理由として官を辞し、出家してしまいます。
そして呆気なくこの世を去りました。
父の跡を付いだのは、兼家の長子である藤原道隆。
摂政となり、頂点に立つと、娘の藤原定子を一条天皇に入内させ、華やかなサロンが生み出されます。
しかし、それも束の間。
長徳元年(995年)に道隆が世を去ると、次に関白を継いだ藤原道兼も短期間で没してしまい、道兼は「七日関白」の異名をつけられてしまいます。
このころは疫病でも流行していたのか。道綱母も、同時期に没したと伝わります。
一族が波乱含みの展開に左右される中、道綱の異母弟となる藤原道長だけは無事でした。
が、その心中には、不満が高まっていたとされます。
権力を握るためには、兄である道隆の子供たち、甥の藤原伊周や藤原隆家などが目障りとなったのです。
しかも一条天皇は定子を熱愛していて、道隆の子たちの権勢は高まるばかり。
さて、どうするか?
翌長徳2年(996年)、絶好の機会が訪れます。
道長の甥である伊周はこの頃、藤原為光の遺児である四の宮のもとへ通っていました。
同じころ、あの花山法皇が、四の宮の姉である三の宮の元へ通っていました。
これが誤解を呼び起こします。
伊周は、四の宮に通じている不届者がいると勘違いし、花山法皇とは知らずに矢を射掛け、袖を貫通したのです。
出家の身ながら女色がらみの不祥事を起こした花山法王は、この一件を隠蔽しようとしましたが、道長が見逃すわけもない。
後に【長徳の変】と呼ばれる事件となり、
史実の藤原伊周は長徳の変で左遷され その後どのような生涯を過ごしたのか
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伊周と隆家の兄弟(藤原道隆の子供たち)は失脚へ追い込まれました。
清少納言が『枕草子』で描いた華やかなサロンは、かくして幕を閉じたのです。
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