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【官職と二官八省】
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トップは左大臣 ときに太政大臣の太政官
では次に、国政を担当する太政官を見て参りましょう。
太政官は、現在で言うところの国会や内閣、各省庁を組み合わせたようなものとご理解ください。
太政官のトップは太政大臣です。
しかし、この官職は常駐ではなく、その時々に相応しい人がなるという決まりであり、通常は左大臣がトップで、その次に右大臣が続きました。
他にも内大臣とか中納言なんて言葉を聞いたこともあるかと思います。
内大臣は、右大臣の下に位置しておりますが、こちらはそもそも【令外官(りょうげのかん)】という存在でして、大宝律令が制定された飛鳥時代にはなかった役職が後の時代になって付け加えられていったものです。
詳細は以下の記事にてご覧いただければ幸いです。
関白・検非違使・中納言「令外官」を知れば『光る君へ』も日本史全体も見えてくる
続きを見る
なお、この太政官、平安時代にはまるで「藤原北家(摂関家)のシマ」みたいに藤原氏でごった返しておりました。
要は、実務面のおエライさんですから、当時最も強かった貴族一族が多いのは当然かもしれません。
あの藤原道長も太政大臣になっております(ただし関白にはなってません・ちなみに関白も令外官)。
この太政官の中には様々な部署が細分化されていて、とりわけ重要だったのが【左弁官局】と【右弁官局】です。
この2つの局は、太政官の下に連なる【八省】のうち、それぞれ四省ずつを担当しているのでした。
ただ、あまり馴染みのない言葉ですよね。
実務面を考えると、より重要なのは【八省】の方でして、こちらを一つずつ見て参りましょう。
もしも受験生の方がおられましたら、ここまでカバーしておけば早慶ランクの問題でも余裕かと思います。
むろん、受験じゃなくてもお楽しみください。
知っておくと歴史が非常に面白くなりますよ。
八省【左弁官局管轄】
中務省(なかつかさしょう)当時は一番重要
現代の宮内庁に近い仕事をしていました。
天皇の命令である「詔(みことのり)」の書類作成や宮中の事務などを担当しています。
そのため当時は、八省の中でも特に重要とみなされていました。
後宮や女官の人事も、中務省の下にある中宮職(ちゅうぐうしき)という部署の仕事です。
そのため「皇太后」や「太皇太后」などがいる場合は、臨時に皇太后職や太皇太后職などが設けられていました。
道長の時代はエライことになっていたんでしょうね……。
式部省(しきぶしょう)紫式部の父とか
現代だと、文部科学省が一番近いかと思われます。文官の人事や大学寮(官僚養成の学校)などが主な担当です。
紫式部や和泉式部の「式部」は、父親がこの式部省の役人だったことからきている呼び名です。
当時は名字・父や夫の官職または任国などから女房の通称をつけるという慣習がありました。
この時代の女流作家といえば清少納言も欠かせませんが、彼女の「少納言」はどこから来ているのか不明です。
親族に「少納言になった」と確定できる人がいないんだとか。
治部省(じぶしょう)石田三成でお馴染み
お寺や雅楽、遣唐使が廃止されるまでの外交などを担当していました。
現代だと外務省+文部科学省の一部……という感じでしょうか。
「治部」といえばやはり、石田三成のイメージが強いですかね。
三成は秀吉が関白になったときに朝廷から叙任されているので、自称ではなく正式な官位です。
治部省の仕事内容からすると、実際に三成がやってた仕事とかぶる面がありそうですね。
下記の民部省のほうが近いかもしれませんが。
民部省(みんぶしょう)天神様も就任していた
現代では財務省・国税庁あたりが近い役所です。つまり税や財政の担当部署でした。
トップの「民部卿」は、藤原北家の祖・房前(ふささき)、同じく藤原北家で臣下で初めて摂政になった藤原良房、天神様こと菅原道真、百人一首の選者・藤原定家などが務めたことがあるので、割と見かける名前かもしれません。
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