鎌倉・室町時代

室町時代マトメ!南北朝~戦国時代の複雑な中世社会をやさしく解説します

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短い時代の割にナントカの乱がチョコチョコと起きたり。
元寇でバタバタしたり。
更には、鎌倉仏教がポコポコと出てきたりして、非常に濃厚だった鎌倉時代

次の室町時代は、さらに輪をかけて濃く……というか複雑になっていきます。

この辺から
「暗記しにくい」
「わかりづらい、やーめた!」
と思われた日本史受験生の方も多いのではないでしょうか。

そもそも室町時代は、キレイに室町時代という表記だけで終わらないのが面倒くさいところです。

というのも……
・皇室が真っ二つに分かれた【南北朝時代
・室町幕府が機能していた【室町時代】
応仁の乱以降のカオス【戦国時代】
に分かれていて、広義では全て「室町時代」になっちゃうから余計にややこしや。

初代室町幕府将軍・足利尊氏が将軍宣下を受けてから、最後の十五代将軍・足利義昭が退任するまで。
ピッタリ250年の間に、3つの時代を内包しています。

と、これで終わらないのが室町時代に更にややこしいところ。

織田信長が足利義昭を追放して本能寺の変で亡くなり、豊臣秀吉が政権をとった「安土桃山時代」もあります。

続く徳川家康が征夷大将軍になって、いよいよ江戸時代というわけですが……細分化しすぎるのもめんd……かえってわかりにくくなりますし、ここでは
鎌倉幕府が滅びてから江戸幕府が開かれるまで」
をまとめてザックリと確認しておきたいと思います。

いわば室町時代マトメって感じですね。

前置きもだいぶ長くなりました。
本題に移りましょう。

 

後継者争いから南北朝が始まった

皇室が北と南に分かれて戦った南北朝時代。
そもそもの原因は、鎌倉時代に長く実権を握っていた後嵯峨上皇が、後継者をハッキリ指名しないまま薨去したことにあります。

仕方がないので、その後は朝廷と鎌倉幕府の話し合いで皇位継承者を決めていました。

具体的には、後嵯峨上皇の皇子だった後深草天皇と亀山天皇に分かれ、その子孫たちを交代交代で即位させ、公正を図ったのです。

◆後深草天皇(兄)の【持明院統】
◆亀山天皇(弟)の【大覚寺統】

かなり乱暴に言えば静かな兄弟喧嘩ですね。
この辺はとてもややこしいので、もしも受験生の方がいらっしゃいましたら、「どの天皇がどちらの系統なのか」をシッカリ色分けしておいた方がテスト的にはOKかと存じます。

なお、天皇家が2つに分かれて次々に天皇となる体制を【両統迭立】と言いまして、スグにうまく立ち行かなくなります。

キッカケは大覚寺統の後醍醐天皇

後醍醐天皇/wikipediaより引用

突然、
「醍醐天皇の時代みたいに、天皇がちゃんと実権を持つ状態に戻したい!
もう持明院統も幕府もイラネ!!」(超訳)
と考え、アレコレやり始めたのでした。

「幕府もイラネ!!」という点に関しては、割とすんなりカタが付きました。
元寇以来、武士の間で北条氏に反感が強まっていたのが大きな理由です。

ぶっちゃけ、後醍醐天皇に人望や実力があったからではなく、鎌倉幕府が時勢の変化に対応しきれなかった&他の武士がブチ切れたからなんですね……。

 

幕府成立のポイントは中先代の乱

しかし後醍醐天皇はそこがわからず、
「これでワシが好きなように政治をできる^^」
とゴキゲンになり、実情にそぐわない政策をいくつも始めてしまいます。

これが【建武の新政】です。

おおざっぱにいうと、
「全てを天皇に集権させようとして実務の大幅な停滞を招き、関係各所から大ブーイングを受けた」
そんな出来事です。

当然、公家も武士も後醍醐天皇に代わる、きっちりと政権運営できる実力者を求めるようになります。

持明院統では
「後醍醐天皇マジありえないから、幕府を倒した武士を味方につけて締め出そう!」(超訳)
と考え、武士からの信望厚い足利尊氏とタッグを組みました。

元は足利尊氏の肖像とされ、近年では「高師直だ」という説が根強くなった一枚/Wikipediaより引用

一つのポイントとなるのが【中先代の乱(なかせんだいのらん)】です。

建武の新政に伴って、幕府が滅びた後の鎌倉には、朝廷の出向機関である「鎌倉将軍府」が作られていました。

しかし、当然ながら鎌倉には鎌倉幕府の残党がいるわけで。
彼らが自分たちの復権を狙って鎌倉将軍府を襲撃したのが【中先代の乱】です。

建武二年(1335年)の話なので、鎌倉幕府が滅びてからたった2年後のこと。

その頃、足利尊氏は
「百年以上も政治から遠のいていた朝廷に、地方や武士社会を治めるのは難しいだろう。
鎌倉幕府に変わる新しい武士の政治機関を作ったほうが、結局はうまくいくんじゃないか」
と考えていました。

そこに中先代の乱が起きたので、尊氏はこれを鎮圧して実力を示し、ますます信望を得ていきます。

そして建武三年(1336年)、ついに後醍醐天皇を京都から追い出し、持明院統の光明天皇を即位させました。
さらにその二年後には、尊氏自らが征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。

 

「三木一草」が後醍醐天皇を支えたが……

後醍醐天皇もタダでは諦めません。

吉野に逃れ、
「自分こそ正当な天皇だ!」
と言い張り続けました。諦め悪すぎというかなんというか……。

このときには、まだまだ後醍醐天皇に味方をする武士もおりました。

楠木正成をはじめとした「三木一草」と呼ばれる四人の武士がその代表例です。

今も歴史ファンに人気の高い楠木正成/Wikipediaより引用

【三木一草】
楠木正成(クスノキ)
結城親光(ユウキ)
名和長年(伯耆守のホウキ)
千種忠顕(チグサ)

こうして出来た構図が以下のもの。

北朝=持明院統・光厳天皇&足利高氏など
南朝=大覚寺統・後醍醐天皇&楠木正成など

この対立が続いていた数十年間のことを【南北朝時代】と呼びます。

事の発端である後醍醐天皇はこの状態になって三年後に薨去。
その間に三木一草をはじめとした多くの南朝方武士も敗死していきました。

失礼を承知でかなりキツめに申し上げますと、
「後醍醐天皇のワガママのせいで6年も政治が停滞した上、いらん戦死者を出しまくった」
といっても過言ではないかなぁと。

しかも南朝方もそれぞれのメンツや利権があるので、すぐに「もう後醍醐天皇がいないから降参します」とはいかず、南北朝の問題は数十年も続くことになります。

ここで、室町幕府のほうに視点を写しましょう。

 

幕府が開くも壮大な兄弟喧嘩が勃発

上記の通り、室町幕府は南北朝の対立が発生する中で始まったわけです。
が、次第に幕府の中でも対立が起き始めます。

そして、近年名著が出て有名になった
観応の擾乱
にまで発展してしまいました。

端的に言えば足利尊氏と、その弟足利直義のバトルです。

元々は尊氏の弟・直義を妬んだ尊氏の側近・高師直とその周辺による対立が発端ですが、これに尊氏の庶子で直義の養子になった直冬が絡んだために、余計話がこじれてしまいます。

「尊氏と直義は元々仲が良かった」というところがより一層悲劇な感がしますね……。
もはや内紛がお家芸の”源氏の呪い”を疑うレベル。

尊氏は直義方に対抗するため、南朝に降伏する印として、南朝の使っていた年号である「正平」を北朝でも使うことを決めました。
【正平一統】といいます。簡単に言えば政治的譲歩ですね。

しかしその後、南朝方の武士が京都を占拠し、三種の神器まで奪うという大事件が起きて統一はおシャカになり、再び南北朝の対立は続きます。

実のところ尊氏も、後醍醐天皇と敵対してしまったことはかなり悔やんでいたようで……。

後醍醐天皇が崩御した後には菩提を弔うためにお寺を建てたほどですから、本当は自分が生きているうちに問題を解決したかったのでしょうね。
そもそも「尊」の字も、後醍醐天皇の(※)である尊治(たかはる)から賜ったものでしたし。

直義は正平七年=文和元年(1352年)に降伏し、同年急死。
その後、直冬が暴れたものの始末がつき、尊氏も正平十三年(1358年)に亡くなりました。

そして尊氏の息子・義詮(よしあきら)が二代将軍になります。
ただ、彼も京都を奪われたり取り戻したり、幕府側から南朝方へ寝返った武士がいたり……という落ち着かない状態が続きました。

 

満を持して義満さん登場!

正平十八年(1363年)、足利義詮がやっと京都に落ち着けるようになり、この前後から制度整備に取り掛かりました。

と、思ったのも束の間。
わずか四年で病気により急死してしまい、今度は、その息子・足利義満が10歳で三代将軍に就任します。

足利義満/wikipediaより引用

この混乱の直後に幼い将軍というと内紛まみれのイヤな予感しかしませんが、皆さんご存じの通り、彼の時代が室町幕府の最盛期にあたるのがわからないところです。

義満は父・義詮の家臣たちに守り立てられて育ちました。
中でも細川頼之という人は、義満の時代に将軍の権威を高めるため、わざと皆の前で恥をかく行動に出たほどの忠臣です。

名字からお察しの通り、頼之は、後述する応仁の乱発端の一人・細川勝元のご先祖様にあたります。
正確に言うと、勝元のご先祖様が頼之の弟なので、直系ではないんですけれども。

南北朝の問題を解決したのも義満の時代です。

義満はまず、京都の警察機能を幕府に一元化。
公家や寺社との折衝も行いつつ、近所の奈良だけでなく富士山や厳島神社まで出かけて権威の誇示に務めました。

それらの集大成として南北朝合一ができたのです。

また、義満は【勘合貿易】を始め、中国(明王朝)との交易を活発にしました。

この時代、大陸の沿岸では【倭寇】という海賊が暴れまわっており、まともな貿易がしにくくなっていました。
しかもこの暴れ方というのが単純な暴力だけでなく、現代でいうところの詐欺に近いこともやっていたので始末が悪い。

「倭」は中国側から見て日本や日本人を指しますが、中には少なからず中国人もいたとか。まあ、元々外見に大きな差はないですし、現代でも欧米の方からすると見分けがつきにくいですからね。
ここでは「倭の方向からやってくる海賊」くらいの意味が近いかと思われます。

その解決に使われた勘合符です。
日本側と中国側で予め割札を作っておき、それを照合することで正規の取引を行うようになったもので【勘合貿易】と呼ばれますね。

こうして幕府の統率を確立させ、また外交問題も解決した義満は、その財力と権力を元に【金閣寺】を建立。
正式名称は「鹿苑寺金閣」ですので、まとめて覚えておくと万全でしょう。

 

足利義持「俺は親父とは違うぞ」というアピール

しかし、一代の間にこれだけ強大な権力を持つと、次=息子の代に反発を招きがちです。

そのための罠なのか、あるいは単なるおべっかなのか。
義満の死後に朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号が贈られたことがありました。

四代将軍となった足利義持はこれを固辞しているため、この称号はほとんど使われていません。
義満と義持の親子仲が悪かったからというのもあります。

足利義満さんの息子・足利義持/wikipediaより引用

もしこれを受け入れていたら、どこから
「皇族でもないのになんて不遜な! そんな将軍家についていく義理はない!」
みたいな不満が噴出して、一騒動起きていたかもしれませんね。もちろん義持がそこまで計算していたかどうかはわかりませんが。

義持も若いうちは、父の遺臣に支えられて政治を行いました。
応永17年(1410年)からは独自の政策を打ち出していきます。

といっても、それまで全く意見を出さなかったわけではなく、金閣以外の鹿苑寺の建物を壊したりして、「俺は親父とは違うぞ」というアピールはしていました。
それでいて乱暴と思われることはしていないので、父譲りのバランス感覚を持っていたようですね。

問題は、六代より先の将軍です。

 

クジ引きで将軍を決定とは

五代将軍になった足利義持の息子・足利義量(よしかず)。
彼が子供のないまま、しかも父・義持より先に亡くなってしまったため、六代将軍の座をどうするかという大問題が起きました。

どの幕府でも四~六代将軍のあたりで継承問題が起きるのはなんででしょうね。
その辺になると気が緩むもんでしょうか。

仕方がないので、足利氏の血縁者の中から公正に決めるべく、石清水八幡宮でくじを引くことになりました。
現代から見ると「テキトーかっ!」とツッコミたくなってしまいますが、この時代のくじは「神意をうかがう手段」だったので、正当な方法です。
※クジ引きというカタチ(神託)にしただけで、最初から決まっていたという見方も有力

そして義満の五男で義持の同母弟・足利義教が選ばれました。

足利義教/wikipediaより引用

彼は十代のうちに出家し、この頃まで比叡山で天台座主(天台宗のトップ)を務めていたため、政治の「いろは」どころか「い」の字も知りません。
そのため、何度も将軍就任を辞退します。

しかし、周囲に推されて結局承諾せざるをえず、還俗して名前を改め、髪が伸びるのを待って正式に将軍の座に就きました。

足利義教は、義持の時代に停止されていた義満の政策を復活させたり、自ら富士山へ行ったりと、わかりやすく義満に傾倒します。

そこまではまぁいいのですが、古巣である延暦寺を完全に幕府の傘下に置こうとして「物理的解決」に挑み、山ごと焼くという凄まじいことをしています。

一度仏門に入った人とは思えない乱暴ぶりですが、比叡山延暦寺平安時代から「この神輿が目に入らぬか!!」という感じで好き勝手に振る舞っていたのでどっちもどっちですかね。

 

関東では鎌倉公方の火種がくすぶり……

同時にこの頃は、関東でも火種がくすぶっていました。

鎌倉公方です。

室町幕府の地方統治の一環として設置された「鎌倉公方」は、もともと尊氏の四男・基氏の子孫たちが世襲することになっていました。
この時代には基氏のひ孫・足利持氏が鎌倉公方の職に就いていたのですけれども……。

この持氏が、六代将軍を決めるときに候補者から漏れていたことを理由として、義教のことを恨み続けていたのです。

将軍に限らず、世襲制のエライ役職が血筋の近い順に受け継がれていくのは当然のことなのですけれども、持氏は義持の猶子(養子)になっていたため「六代将軍は俺に決まってる!」と思い込んでいたのだそうです。
そのため、義教の将軍就任時にお祝いも送らなかったとか……って、子供かっ!

鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実はこの状態を懸念し、なんとか義教と持氏の仲を取り持とうと努力していました。

しかし持氏は、関東管領は鎌倉公方ではなく将軍から任命されるということもあってか、憲実の献言を突っぱね続けます。

この時点で、
「忠臣の言うことを聞かないとロクなことにならない」
というテンプレに入りつつありますね。

その後、持氏が憲実をブッコロそうとしたため、憲実は自分が身を引いて事を収めようとしたのですが、これも失敗。

義教はこの経緯を聞いて
「たぶん憲実は
『持氏は何の罪もない私を討とうとしたんです! 成敗してください!』
って言ってくるだろうな。
近所の守護に憲実の味方をするよう命じておこう」
と考え、実行に移していました。

残念ながら、これがかなりの早合点でした。

上杉憲実は、儒教に深く傾倒していたため持氏討伐を望まず、逆に持氏を許してくれるよう義教に頼んでいます……って、こちらは聖人かっ!

 

次第に社会は荒廃 乱や一揆が増えてくる

日頃から強硬策を取りがちな義教が、穏便な手段を選ぶことはありません。

憲実は責任をとって身辺整理をし、自害しようとまで考えたといいます。
しかし、僧侶に説得されて考え直し、やむなく持氏とその息子・義久を攻めて自害させることに……。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

関東で起きたこの一連の騒動を【永享の乱】といいます。

この余波は元凶の持氏がいなくなっても決着がつかず、さらに面倒な事態を引き起こしていくことになるのですが、これまた長くなるので、この記事では時代を先に進めます。

実はこの辺りから「○○の乱」や「▲▲のナントカ一揆」という事件が増えていきます。

室町時代をなんだか複雑にしている要素の一つですね。
いざ暗記しようとしてもイメージが湧かないから覚えにくい。しかも、あんまりにも頻発する。

「当事者は誰なのか」
「起きた場所はどこか」
こういった基本事項を先に捉えて、それから経過を見ていくと覚えやすいかもしれません。

義教はそういった物騒な事件には「目には目を」的な解決方法を取り、ときには守護大名の誅殺などもしました。
ちょっとしたことで老若男女問わず、苛烈な処断をしたという逸話も多々あります。

ぶっちゃけ、織田信長よりよっぽど「魔王」な言動をしています。
繰り返しますが、元天台座主(一番偉いお坊さん)です……。

と、これが、あまりにも物理的解決過ぎて恐怖政治状態になり、最期は室町幕府のお偉いさんグループである四職(ししき)の一人、赤松満祐に暗殺されてしまいました。
この事件は【嘉吉の乱】と呼ばれています。
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