上段左から足利尊氏・義満・義政/下段左から足利義晴・義栄・義昭/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

室町時代を一気に読む!南北朝~安土桃山時代のカオスな中世が圧倒的に面白い

2025/08/10

暦応元年/延元3年(1338年)8月11日は、室町幕府の初代将軍となる足利尊氏が、将軍宣下を受けた日です。

いわゆる室町時代の始まりですが、その後、何年続いたのか?

というと最後の十五代将軍・足利義昭が退任するまで、約250年の間に、いわば三つの時代を内包しています。

それが以下の通り。

・皇室が真っ二つに分かれた【南北朝時代】

・室町幕府が機能していた【室町時代】

・応仁の乱以降のカオス【戦国時代】

それぞれ一体どんな時代だったのか?

いわば室町時代マトメを一気に確認してみましょう!

 


後継者争いから南北朝が始まった

皇室が北と南に分かれて戦った南北朝時代。

そもそもの原因は、鎌倉時代に長く実権を握っていた後嵯峨上皇が、後継者をハッキリ指名しないまま薨去したことにあります。

仕方がないので、その後は朝廷と鎌倉幕府の話し合いで皇位継承者を決めていました。

具体的には、後嵯峨上皇の皇子だった後深草天皇と亀山天皇に分かれ、その子孫たちを交代交代で即位させ、公正を図ったのです。

◆後深草天皇(兄)の【持明院統】

◆亀山天皇(弟)の【大覚寺統】

かなり乱暴に言えば静かな兄弟喧嘩ですね。

この辺はとてもややこしいので、もしも受験生の方がいらっしゃいましたら、「どの天皇がどちらの系統なのか」をシッカリ色分けしておいた方がテスト的にはOKかと存じます。

以下に表を記しておきましょう。

なお、天皇家が2つに分かれて次々に天皇となる体制を【両統迭立】と言いまして、スグにうまく立ち行かなくなります。

キッカケは大覚寺統の後醍醐天皇。

後醍醐天皇/wikipediaより引用

突然、「醍醐天皇の時代みたいに、天皇がちゃんと実権を持つ状態に戻したい! もう持明院統も幕府もイラネ!!」(超訳)と考え、アレコレやり始めたのでした。

「幕府もイラネ!!」という点に関しては、割とすんなりカタが付きました。

元寇以来、武士の間で北条氏に反感が強まっていたのが大きな理由です。

ぶっちゃけ、後醍醐天皇に人望や実力があったからではなく、鎌倉幕府が時勢の変化に対応しきれなかった&他の武士がブチ切れたからなんですね……。

 


幕府成立のポイントは中先代の乱

しかし後醍醐天皇はそこがわかっていなかったようです。

「これでワシが好きなように政治をできる^^」とゴキゲンになり、実情にそぐわない政策をいくつも始めてしまいます。

それが【建武の新政】。

おおざっぱにいうと、こんな感じです。

「全てを天皇に集権させようとして実務の大幅な停滞を招き、関係各所から大ブーイングを受けた」

当然、公家も武士も後醍醐天皇に代わる、きっちりと政権運営できる実力者を求めるようになります。

持明院統では

「後醍醐天皇マジありえないから、幕府を倒した武士を味方につけて締め出そう!」(超訳)

と考え、武士からの信望厚い足利尊氏とタッグを組みました。

足利尊氏/wikipediaより引用

一つのポイントとなるのが【中先代の乱(なかせんだいのらん)】です。

建武の新政に伴って、幕府が滅びた後の鎌倉には、朝廷の出向機関である「鎌倉将軍府」が作られていました。

しかし、当然ながら鎌倉には鎌倉幕府の残党がいるわけで。

彼らが自分たちの復権を狙って鎌倉将軍府を襲撃したのが【中先代の乱】です。

建武二年(1335年)の話なので、鎌倉幕府が滅びてからたった2年後のこと。

その頃、足利尊氏はこう考えていました。

「百年以上も政治から遠のいていた朝廷に、地方や武士社会を治めるのは難しい。鎌倉幕府に変わる新しい武士の政治機関を作ったほうが、結局はうまくいくんじゃないか?」

そこに中先代の乱が起きたので、尊氏はこれを鎮圧して実力を示し、ますます信望を得ていきます。

そして建武三年(1336年)、ついに後醍醐天皇を京都から追い出し、持明院統の光明天皇を即位させました。

さらにその二年後には、尊氏自らが征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。

 

「三木一草」が後醍醐天皇を支えたが

後醍醐天皇もタダでは諦めません。

吉野に逃れ「自分こそ正当な天皇だ!」と言い張り続けます。諦め悪すぎというかなんというか……。

このときには、まだまだ後醍醐天皇に味方をする武士もおりました。

楠木正成をはじめとした「三木一草」と呼ばれる四人の武士がその代表例です。

【三木一草】
楠木正成(クスノキ)
結城親光(ユウキ)
名和長年(伯耆守のホウキ)
千種忠顕(チグサ)

楠木正成/wikipediaより引用

こうして出来た構図が以下の通りです。

北朝=持明院統・光厳天皇&足利尊氏など

南朝=大覚寺統・後醍醐天皇&楠木正成など

この対立が続いていた数十年間のことを【南北朝時代】と呼びます。

事の発端である後醍醐天皇はこの状態になって三年後に薨去。

その間に三木一草をはじめとした多くの南朝方武士も敗死していきました。

失礼を承知でかなりキツめに申し上げますと、

「後醍醐天皇のワガママのせいで6年も政治が停滞した上、要らん戦死者を出しまくった」

といっても過言ではないかなぁと。

しかも南朝方もそれぞれのメンツや利権があるので、すぐに「もう後醍醐天皇がいないから降参します」とはいかず、南北朝の問題は数十年も続くことになります。

ここで、室町幕府のほうに視点を写しましょう。

 


幕府が開くも壮大な兄弟喧嘩が勃発

上記の通り、室町幕府は南北朝の対立が発生する中で始まったわけです。

が、次第に幕府の中でも対立が起き始めます。

そして、近年名著が出て有名になった【観応の擾乱】にまで発展してしまいました。

端的に言えば足利尊氏と、その弟・足利直義のバトルです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

元々は尊氏の弟・直義を妬んだ尊氏の側近・高師直とその周辺による対立が発端ですが、これに尊氏の庶子で直義の養子になった直冬が絡んだために、余計話がこじれてしまいます。

「尊氏と直義は元々仲が良かった」というところがより一層悲劇な感がしますね……。

もはや内紛がお家芸である”源氏の呪い”を疑うレベル。

尊氏は直義方に対抗するため、南朝に降伏する印として、南朝の使っていた年号である「正平」を北朝でも使うことを決めました。

【正平一統】といいます。簡単に言えば政治的譲歩ですね。

しかしその後、南朝方の武士が京都を占拠し、三種の神器まで奪うという大事件が起きて統一はおシャカになり、再び南北朝の対立は続きます。

実のところ尊氏も、後醍醐天皇と敵対してしまったことはかなり悔やんでいたようで……。

後醍醐天皇が崩御した後には菩提を弔うためにお寺を建てたほどですから、本当は自分が生きているうちに問題を解決したかったのでしょう。

そもそも「尊」の字も、後醍醐天皇の諱(※)である尊治(たかはる)から賜ったものでしたし。

直義は正平七年=文和元年(1352年)に降伏し、同年急死。

その後、直冬が暴れたものの始末がつき、尊氏も正平十三年(1358年)に亡くなりました。

そして尊氏の息子・足利義詮(よしあきら)が二代将軍になります。

足利義詮/wikipediaより引用

ただ、彼も京都を奪われたり取り戻したり、幕府側から南朝方へ寝返った武士がいたり……という落ち着かない状態が続きました。

※諱(いみな)……貴人の本名のこと。昔は本名には言霊が宿るとされ、滅多に口に出すものではないとされていたため「忌み名」=「諱」とされ、記録上でしか使われなかった

 

満を持して義満さん登場!

正平十八年(1363年)、足利義詮がやっと京都に落ち着けるようになり、この前後から制度整備に取り掛かりました。

と、思ったのも束の間。

わずか四年で病気により急死してしまい、今度は、その息子・足利義満が10歳で三代将軍に就任します。

足利義満/wikipediaより引用

この混乱の直後に幼い将軍というと内紛まみれのイヤな予感しかしませんが、皆さんご存じの通り、彼の時代が室町幕府の最盛期にあたるのがわからないところです。

義満は父・義詮の家臣たちに守り立てられて育ちました。

中でも細川頼之という人は、義満の時代に将軍の権威を高めるため、わざと皆の前で恥をかく行動に出たほどの忠臣です。

名字からお察しの通り、頼之は、後述する【応仁の乱】発端の一人・細川勝元のご先祖様にあたります。

正確に言うと、勝元のご先祖様が頼之の弟なので、直系ではないんですけれども。

南北朝の問題を解決したのも義満の時代です。

義満はまず、京都の警察機能を幕府に一元化。

公家や寺社との折衝も行いつつ、近所の奈良だけでなく富士山や厳島神社まで出かけて権威の誇示に務めました。

それらの集大成として南北朝合一ができたのです。

また、義満は【勘合貿易】を始め、中国(明王朝)との交易を活発にしました。

この時代、大陸の沿岸では【倭寇】という海賊が暴れまわっており、まともな貿易がしにくくなっていました。

しかもこの暴れ方というのが単純な暴力だけでなく、現代でいうところの詐欺に近いこともやっていたので始末が悪い。

「倭」は中国側から見て日本や日本人を指しますが、中には少なからず中国衆もいたとか。まあ、元々外見に大きな差はないですし、現代でも欧米の方からすると見分けがつきにくいですからね。

ここでは「倭の方向からやってくる海賊」くらいの意味が近いかと思われます。

その解決に使われたのが勘合符です。

日本側と中国側で予め割札を作っておき、それを照合することで正規の取引を行うようになったもので【勘合貿易】と呼ばれますね。

こうして幕府の統率を確立させ、また外交問題も解決した義満は、その財力と権力を元に【金閣寺】を建立。

正式名称は「鹿苑寺金閣」です。

鹿苑寺金閣

 

足利義持「俺は親父とは違うぞ」というアピール

しかし、一代の間にこれだけ強大な権力を持つと、次=息子の代に反発を招きがちです。

そのための罠なのか、あるいは単なるおべっかなのか。

義満の死後に朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号が贈られたことがありました。

四代将軍となった足利義持はこれを固辞しているため、この称号はほとんど使われていません。

足利義持/wikipediaより引用

義満と義持の親子仲が悪かったからというのもあります。

もしこれを受け入れていたら、どこから

「皇族でもないのになんて不遜な! そんな将軍家についていく義理はない!」

みたいな不満が噴出して、一騒動起きていたかもしれませんね。もちろん義持がそこまで計算していたかどうかはわかりませんが。

義持も若いうちは、父の遺臣に支えられて政治を行いました。

応永17年(1410年)からは独自の政策を打ち出していきます。

といっても、それまで全く意見を出さなかったわけではなく、金閣以外の鹿苑寺の建物を壊したりして、「俺は親父とは違うぞ」というアピールはしていました。

それでいて乱暴と思われることはしていないので、父譲りのバランス感覚を持っていたようですね。

問題は、六代より後の将軍です。

 

クジ引きで将軍を決定とは

五代将軍になった足利義持の息子・足利義量(よしかず)。

彼が子供のないまま、しかも父・義持より先に亡くなってしまったため、六代将軍の座をどうするかという大問題が起きました。

どの幕府でも四~六代将軍のあたりで継承問題が起きるのはなんででしょうね。

その辺になると気が緩むもんでしょうか。

仕方がないので、足利氏の血縁者の中から公正に決めるべく、石清水八幡宮でくじを引くことになりました。

現代から見ると「テキトーかっ!」とツッコミたくなってしまいますが、この時代のくじは「神意をうかがう手段」だったので、正当な方法です。

そして義満の五男で義持の同母弟・足利義教が選ばれました。

足利義教/wikipediaより引用

※クジ引きというカタチ(神託)にしただけで、最初から決まっていたという見方も有力です

彼は十代のうちに出家し、この頃まで比叡山で天台座主(天台宗のトップ)を務めていたため、政治の「いろは」どころか「い」の字も知りません。

そのため、何度も将軍就任を辞退します。

しかし、周囲に推されて結局承諾せざるをえず、還俗して名前を改め、髪が伸びるのを待って正式に将軍の座に就きました。

足利義教は、義持の時代に停止されていた義満の政策を復活させたり、自ら富士山へ行ったりと、わかりやすく義満に傾倒します。

そこまではまぁいいのです。

問題は、古巣である延暦寺を完全に幕府の傘下に置こうとして「物理的解決」に挑み、山ごと焼いた――という凄まじいことをしています。

一度仏門に入った人とは思えない乱暴ぶりですが、比叡山延暦寺も平安時代から「この神輿が目に入らぬか!!」という感じで好き勝手に振る舞っていたのでどっちもどっちですかね。

 

関東では鎌倉公方の火種がくすぶり……

同時にこの頃は、関東でも火種がくすぶっていました。

鎌倉公方です。

室町幕府における地方統治の一環として設置された「鎌倉公方」は、もともと尊氏の四男・基氏の子孫たちが世襲することになっていました。

足利基氏像(狩野洞春画)/wikipediaより引用

この時代には基氏のひ孫・足利持氏が鎌倉公方の職に就いていたのですけれども……。

持氏が、六代将軍を決めるときに候補者から漏れていたことを理由として、義教のことを恨み続けていたのです。

将軍に限らず、世襲制のエライ役職が血筋の近い順に受け継がれていくのは当然のことなのですけれども、持氏は義持の猶子(養子)になっていたため「六代将軍は俺に決まってる!」と思い込んでいたのだそうです。

そのため、義教の将軍就任時にお祝いも送らなかったとか……って、なんじゃそりゃ、子供か……。

鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実はこの状態を懸念し、なんとか義教と持氏の仲を取り持とうと努力していました。

『本朝百将伝』上杉憲実/国立国会図書館蔵

しかし持氏は、関東管領は鎌倉公方ではなく将軍から任命されるということもあってか、憲実の献言を突っぱね続けます。

この時点で「忠臣の言うことを聞かないとロクなことにならない」というテンプレに入りつつありますね。

その後、持氏が憲実をブッコロそうとしたため、憲実は自分が身を引いて事を収めようとしたのですが、これも失敗。

義教はこの経緯を聞いて、

「たぶん憲実は『持氏は何の罪もない私を討とうとしたんです! 成敗してください!』と考えたであろう。近所の守護に憲実の味方をするよう命じておこう」

と思いたち、実行に移していました。

残念ながら、これがかなりの早合点でした。

上杉憲実は、儒教に深く傾倒していたため持氏討伐を望まず、逆に持氏を許してくれるよう義教に頼んでいます……って、こちらは聖人かっ!

 

次第に社会は荒廃 乱や一揆が増えてくる

日頃から強硬策を取りがちな義教が、穏便な手段を選ぶことはありません。

憲実は責任をとって身辺整理をし、自害しようとまで考えたといいます。

しかし、僧侶に説得されて考え直し、やむなく足利持氏とその息子・義久を攻めて自害させることに……。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

関東で起きたこの一連の騒動を【永享の乱】といいます。

この余波は元凶の持氏がいなくなっても決着がつかず、さらに面倒な事態を引き起こしていくことになるのですが、これまた長くなるので、この記事では時代を先に進めます。

実はこの辺りから「○○の乱」や「▲▲のナントカ一揆」という事件が増えていきます。

室町時代をなんだか複雑にしている要素の一つですね。

いざ暗記しようとしてもイメージが湧かないから覚えにくい。

しかも、あまりにも頻発する。

「当事者は誰なのか」

「起きた場所はどこか」

こういった基本事項を先に捉えて、それから経過を見ていくと覚えやすいかもしれません。

義教はそういった物騒な事件には「目には目を」的な解決方法を取り、ときには守護大名の誅殺などもしました。

ちょっとしたことで老若男女問わず、苛烈な処断をしたという逸話も多々あります。

ぶっちゃけ、信長よりよっぽど「魔王」な言動をしています。

繰り返しますが、元・天台座主(一番偉いお坊さん)です。

あまりにも物理的解決過ぎて恐怖政治状態になり、最期は室町幕府のお偉いさんグループである四職(ししき)の一人、赤松満祐に暗殺されてしまいました。

この事件は【嘉吉の乱】と呼ばれています。

 

日本中を戦乱の巻き込む一大合戦始まった

義教の息子である七代将軍・足利義勝は、就任から数ヶ月、かつ満9歳で亡くなってしまいます。

そして、その弟・足利義政が八代将軍になりました。

【応仁の乱】で有名な人ですね。

足利義政/wikipediaより引用

義政というと、まともに仕事してなかったことが有名ですが、実は若い頃は真面目に将軍の職務をやっていたこともありました。

例えば、関東公方が関東管領をブッコロしてしまったことに始まる【享徳の乱】や、守護大名家での相続争いなどにも介入。

ただ、享徳の乱が28年も長引くわ、相続争いも頻発しっぱなしだわでヤル気を削がれてしまったようです。

まあ、いくら行動に移しても成果が上がらないんじゃ、誰だってイヤになりますもんね。

義政は長いこと息子に恵まれなかった上、寛正二年(1461年)には、京都を含めた周辺地域で飢饉が起きるという最悪な事態に見舞われます。

しかも、積極的に対策を打たねばならない立場の義政は、この頃にはすっかり仕事がイヤになってしまっており、酒宴や将軍御所の改築など、暴君のテンプレみたいな趣味に没頭していました。

そして応仁の乱が始まります。

応仁の乱を描いた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用

 

中央から地方へ 権力が散らばっていく

応仁の乱が一段落した後。

幕府の権力・権威は痛いほどに落ちてしまい、それまで京都にいた大名たちもガラッと態度を変え始めます。

『こんなショボい幕府からお墨付きもらってもしょーがないし、地元で商売なりなんなりしていい暮らししよう!』

例えば、大陸との貿易が盛んだった山口(大内氏)など。

彼らをアテにして、京都から地方の大名に身を寄せる公家も少なくありません。

ちょっと変わったところでは、元々持っていた土佐の荘園に腰を落ち着けた一条教房(前関白)などもいますね。

こういった公家の移住は上方の文化が地方に伝わるキッカケにもなり、山口や土佐は小京都と呼べるほどの町並みになりました。

武士のほうでも、文化的後進という意識が強かったこと、また権威付けのために、都落ちした公家を進んで迎え入れています。

世相が物騒なことを除けば、win-winといえなくもない。

さて、この辺から【戦国大名】という単語が出てきます。

それまでの【守護】とは何が違うのか?

ハッキリした定義はないですが……変化していく経緯をつかんでおいたほうが、戦国時代をほんの少し理解しやすくなるかと思います。

守護大名は、室町幕府から任命された守護として、各地の軍事・警察・徴税などの権限を持っていました。

彼らが次第に経済力をつけ、周辺の有力者=国衆(地侍・小領主)を家臣にし、実力を高めていったものです。

例えば、足利氏の親戚である斯波(しば)氏、畠山氏、細川氏や、貿易で財を成した大内氏などは、数カ国を支配する強大な力を有しておりました。

こうした守護大名は、幕政に参与するため京都に滞在していることも多く、代わりに守護代(=”守護”の”代”理)を在国させることもありまして。

そこが一つの下剋上ポイントになります。

全ての守護代が誠実だったわけもなく、留守中に良からぬことを企んでのし上がる!なんてケースもありました。

有名どころだと、毛利元就が幼い頃、そんな感じのトラブルに遭っています。

正確に言えば、その頃の毛利家は国衆(地元の有力者)であって守護大名ではないんですけども。

毛利元就/wikipediaより引用

戦国大名という単語自体は、実は1953年に生まれた新しい用語です。イメージとしては、守護大名がさらに自治性を強めたという感じでいいかと。

発生の経緯は、おおむね四パターンに分かれます。

①守護大名がさらに自治性を強める

→島津氏・大友氏・宇都宮氏など

②守護代やその下の家臣が下剋上

→織田氏・尼子氏・三好氏など

③国衆や宗教団体が自治能力を持つ

→毛利氏・筒井氏など

④国や所領を持たないかそれに近い状態から成り上がり

→斎藤氏・後北条氏など

戦国大名とは言いにくいですが、比叡山延暦寺や石山本願寺も似たような勢力ですね。

こうして各地方で大名同士が領地や利権などを巡って戦が頻発、まさに戦国の世になるわけです。

しかし、灌漑や街道などの公共設備や、各大名が自分のシマを治めるための法律【分国法】を整備して、社会の進歩もみられました。

 

集団行動とか暴動を意味する「一揆」も盛んに

さて、もう一つ、室町・戦国時代をややこしくしている用語「○○一揆」を見てみましょう。

「一揆」という言葉には「集団行動」や「暴動」という意味があります。

種類も主に3つあり、この時代においては名前で性質が見分けられますね。

①国一揆
→その土地の有力者=国衆が起こした一揆

②土一揆
→農民が起こした一揆

③一向一揆
→一向宗=浄土宗の信徒が団結して起こした一揆

それぞれ起きた時代の年号をとって【正長の土一揆】とか、起きた場所の地名から【山城の国一揆】など、受験でもいくつか問われるものがあります。

正長の土一揆で徳政碑文が刻まれた疱瘡地蔵/wikipediaより引用

「一揆を起こしたのがどこのどんな人達だったのか?」

これに着目するとわかりやすくなるでしょう。年号と名前だけで必死に覚えようとしても頭が痛くなるだけです。

文化面に目を向ければ、戦国の頃には、海の向こうのヨーロッパから新たな文物が入ってくるようになりました。

その代表が

・鉄砲伝来
・キリスト教伝来

でしょう。

もともと香辛料や金、奴隷などを求めつつ、同時にキリスト教を布教していたヨーロッパ人。

南米大陸でスペインやポルトガルが「現地の住民をブッコロして入植!」という無茶をしていたことを考えると、日本は幸運でした。

当時はまだ航海技術が未発達。

通常の航海でも生還率が20%程度で、戦争どころじゃないというのも大きな理由ですが……日本もヨーロッパと近かったら軍事衝突は確実だったでしょう。

というか戦国時代バリバリで農民から武士まで総武装状態だったから、全力で追い返したかもしれません。

数倍の距離を渡ってくるヨーロッパの軍は、かなり分が悪かったはずです。

中国か東南アジアあたりの拠点と往復された……まぁ、その辺はIF戦記の世界ですね。

 

民衆の社会レベルが上がり文化経済も発展する

室町・戦国時代の生活・慣習については、もう一つ大きな特徴があります。

鎌倉時代以前と比べて、民衆の社会レベルが上がり、当時の生活風景や職業などが見やすくなっているのです。

小売業の登場や馬借・車借といったレンタル業、行商人なども登場。

彼らを後押しする形で交通網も整備され、関所もできました。

また、文化史でおなじみの

【書院造】
【茶の湯】

など、現在の日本文化の元となったものが多々生まれた時代でもあります。

他にも庶民が関わったと思われる物には、室町幕府のダメっぷりを批判した【二条河原の落書】があります。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨

このごろみやこにはやるもの やとう ごうとう にせりんじ

文体のリズムがよく見識を感じさせることから、ある程度学のある人が書いた可能性も高いですが。

「戦争によって技術が向上する」というのはどこの国でもある話で、室町時代はそれと共に日本社会が成長した時代。

歴史の流れや戦国大名・戦国武将の話題が派手で人気ですけれども、民俗学や文化史的な面をたどるのが楽しい時代かもしれませんね。

 

三英傑の活躍から江戸時代へ

戦国大名が相争う中で頭角を現したのが、皆さんよくご存じの織田信長です。

織田信長/wikipediaより引用

信長も、スタートした時点ではまだ尾張一国の統治も難しく、勢力的に心もとない状態でしたが、尾張=東海道=京都と行き来しやすい場所が地元だというところが大きなアドバンテージになりました。

足元が固まってからは、京都と本拠地を頻繁に往復。

自身の才覚だけでなく、多くの優秀な家臣に恵まれて天下人寸前まで登り詰めました。

地方の戦国大名の中にも、

「今、尾張の織田信長ってヤツの勢いがすごいらしい。今のうちに仲良くなっておこう」

と考え、手紙や贈り物をする者がいたほどです。

例えば、伊達政宗の父・伊達輝宗などが鷹を送ったりしていますね。

伊達輝宗/wikipediaより引用

しかし、本能寺の変によって信長の進路は絶たれ、代わりに羽柴秀吉が台頭。

織田家の有力な家臣だった柴田 勝家らに勝ち、その後、徳川 家康や長宗我部 元親など、一定以上の勢力を持つ大名に勝って一気に勢力を広げます。

秀吉はさらに、朝廷で関白の座を巡る争いが起きていたことを利用し、近衛 前久(信長のマブダチ)の猶子になって、自分が関白になるというウルトラCもやってのけました。

この威光を利用して、九州最大勢力の島津氏も討伐。

続いて関東の後北条氏も討ち、その流れで東北の諸大名も傘下に収めて一気に天下統一を成し遂げます。

そして【刀狩り】や【太閤検地】などを全国に行うことにより、統治を進めた……のですが、晩年の【豊臣秀次事件】や【文禄・慶長の役】で自ら政権を瓦解させる要因を作ってしまいました。

秀吉亡き後、豊臣家臣は主に「石田三成が憎いかどうか」を基準に割れてしまいます。

石田三成/wikipediaより引用

そこにつけ込んだのがご存知、徳川家康ですね。

家康は次々に味方を増やし、【関ヶ原の戦い】で勝利を収め、その後2年半の時間をかけて天下人となっていきます。

関が原の戦いから三年後に征夷大将軍となって【江戸幕府】を開きましたが、豊臣家を滅ぼすことはせず、しばらく折衝を重ねました。

豊臣側の出方によっては公家として生き残らせることを考えていたフシもありますが、結局、交渉は決裂、1614~1615年の【大坂の陣】にて豊臣家は滅びます。

豊臣恩顧だった大名たちもこの間に鳴りを潜め、応仁の乱からの戦乱の世はようやく落ち着きを見せます。

もういっちょ戦はありますが、それはまた江戸時代のところで。


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【参考】
国史大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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