鎌倉・室町

鎌倉武士・佐々木定綱~無名で地味なれど子孫たちは日本史上で大活躍

元久二年(1205年)4月9日、佐々木定綱という武士が亡くなりました。

一般的にほとんど知名度ない方ですが、後世から振り返ってみると「あれ? この方、実はスゴイのでは……?」という御方。

源頼朝が関東に流されていた時代からの家臣でした。

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源平合戦で活躍し旧領を取り戻す!が……

頼朝が流罪になったのは、父・源義朝が平治の乱に敗れたからです。

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定綱はこのとき一家揃って義朝方についていたので、処罰される前に近畿から逃げなくてはなりませんでした。

そこで頼朝を追うような形で、佐々木一家も関東へやってくることになります。

皆逃げ足が早かったというか手際が良かったらしく、別れ別れではありましたが、関東で腰を落ち着けることができました。逃げ足も才能のうちですね。

そのまま雌伏すること約20年。
「頼朝、挙兵したってよ」と聞きつけた佐々木一家は、頼朝のもとに集って平家討伐の軍に加わります。

源平の合戦では主要な戦のほとんどに参加し、富士川の戦いの後にはその功績を認められて、元の領地を返してもらいました。

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壇ノ浦の戦いにも当然出陣。
さらにその後の戦でも活躍を続けたため、頼朝の覚えもめでたかったようです。

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しかし、建久二年(1191年)、それまでの努力が台無しになりかける事件が起きます。

 

うっかり神鏡を割ってしまう大惨事

トラブルの相手は、あの比叡山延暦寺でした。

佐々木家の領地は延暦寺と縁が深く、同家が寺に年貢のようなものを収めなくてはいけません。

しかし、その年の前年は水害が起きたため領内が不作になり、支払いに遅れが出てしまいます。

ない袖は振れないので仕方がありません。

これに対し、激怒した延暦寺側の聖職者たちは「はよ払わんかい!!」と大勢で押し寄せてきたのです。

しかも錦の御旗よろしく、神鏡を掲げてのことでした。

元々義務を果たしていなかった佐々木家側が悪いですが、この取立てのとき延暦寺側は「佐々木家の人に乱暴を働いた挙句に火をつける」という、どこからどう見てもただの暴徒と同じことをやってくれます。聖職者とは?

たまたま定綱は京都に出かけていて留守だったため、息子たちが事に当たり、これがまたよくありませんでした。

上記のような横暴を働かれたので黙っておれず、応戦した際、うっかり神鏡を壊してしまったのです。

その名の通り「神聖な鏡」のことですから、神社のご神体になっており、要するにとても大切なもの。

当時は極刑に値するほどの罪だったため、単なる年貢の取立てが朝廷と幕府を巻き込んだ大騒動に発展してしまいました。

幸い、朝廷の役人も鎌倉の頼朝も定綱に味方するような動きをしてくれたので、即座に死刑とはなりません。

一方の延暦寺側は、当然ながら不満が募ります。そして再三朝廷へゴネた結果、何とか死刑は免れて佐々木一家はあちこちへ流罪となってしまうのです。

 

次男の定重は打首に処されてしまう

頼朝としても「延暦寺側の人だって佐々木家の武士をコロしてるでしょ? もうちょっと何とかなりませんかね?」(※イメージです)と交渉しましたが、これは失敗。

かえって延暦寺側から「神鏡を壊した罰当たりなヤツを殺せ!!」と反発を招いてしまい、頼朝はこれを飲まざるをえなくなります。
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