殺伐とした展開が続いた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、屈指の癒し系と見なされていた和田義盛。
横田栄司さん演じる熱血漢で、すぐにカーッ!となったかと思えば、武士としての矜持と、女性に対する優しさも持ち合わせていて、どうにもこうにも憎めない。
だからこそ、彼の最期を知ったときには多くのファンが嘆かれたことでしょう。
義盛の最期だけは直視できなかった!
タイトルになった十三人の中でも、とりわけムゴくて見ちゃいられない破滅を迎えてしまう――その戦いとなったのが【和田合戦】です。
義時と対立した義盛が鎌倉を舞台に暴れ回り、そして討死する。
鎌倉幕府創成期ならではの抗争ではあります。
しかし、義盛を追い詰めた北条義時と、裏切った三浦義村のやり方があまりに陰惨。
では一体どんな戦いだったのか?
建暦3年(1213年)5月3日は和田義盛の命日。
和田合戦の背景と経緯を振り返ってみましょう。

和田義盛/Wikipediaより引用
血気盛んで侠気あふれる義盛だが
『鎌倉殿の13人』の和田義盛は、いささか派手にデフォルメされつつも、彼らしさがよく現れた人物像だったでしょう。
単純で豪快。何かあればすっとんでいく血の気の多さ。騙されやすいところもある。しかし、明るい茶目っ気で人々を和ませる。
同時に、以下のように危うい要素も数多く持ち合わせていました。
・畠山重忠への遺恨
劇中の義盛は何かと重忠をライバル視し、彼の意見に反対することがしばしばありました。
なかなか面白いコンビのようで、これには理由があります。
源頼朝が挙兵したときの重忠は、京都にいる父が平家方でもあり、そうした配慮から三浦義明を攻め滅ぼしました。

三浦義明と三浦義澄(勝川春亭画)/wikipediaより引用
義明の孫である義盛が、そうした遺恨から反発心があってもおかしくはありません。
重忠の死によって治まるとはいえ、本来こうした家臣の間の揉め事は主君が押さえつけねばならず、それができない幕府初期の統治体制に限界があったことがわかります。
・三浦一門の家督
和田義盛にとって、三浦義村は従兄弟にあたります。
義明の長男は杉本義宗であり、この義宗が早世したため、その弟である義澄が三浦一門の家督を継ぎました。

こうした関係は対立が生じやすい関係と言えます。
義村からみれば、義盛一門が家督相続において異議を挟んでこられたら面倒。
かつ、三浦一門を相続した義村からすれば、同族でありながら目上のように振る舞う義盛が目障りに思えてもおかしくはありません。
畠山重忠も義明の孫にあたりますが、外孫です。義盛や義村とは従兄弟関係ながら、二人とは異なる立場だったのです。
・北条と三浦
北条と三浦は、坂東武者としては本来同格でした。
源義朝は三浦一族の娘を妻としています。
一方、北条からは時政の娘である政子が頼朝の妻となりました。
源氏との姻戚関係という意味では三浦の方が北条に先んじていたのです。
それが頼朝の飛翔によってどんどん差が広がっていった。
三浦はどうすべきか?
義村は娘の矢部禅尼(初)を北条に嫁がせ、協調路線を取りますが、義盛はそうではありません。
・義盛の野望、国司就任
北条一門は、時政の遠江守任官を皮切りに、息子の義時と時房もそれぞれ相模守と武蔵守となりました。
頼朝と姻戚関係にある北条家を源氏一門に連なるとして、政子が推挙したから実現したものです。
こうした状況を受けて、義盛は上総国国司の就任を政子に訴えました。
ところが政子には断られる。仕方ないから大江広元を経由して源実朝に嘆願すると、いったんは了承を取り付けるも中々話が進まない。

源実朝/Wikipediaより引用
義盛としてはイラ立ったことでしょう。
なんで尼御台(政子)は聞いてくれねえんだよ!
鎌倉殿(実朝)もぐずぐずしやがって!
北条ばかりじゃねえか!
そう思ってもおかしくない状況でした。
ドラマでは明るい笑顔を見せている義盛ですが、史実では不穏な要素も多い人物です。
彼には思慮深さが欠けていた。
『鎌倉殿の13人』の義盛像は、現代人から見れば誇張されているようにも思えますが、史料を見ていても、勝手に持ち場を離れたり、喧嘩に乱入する粗忽さが目立っています。
当時は中世ですからそんなもの、と言えばそうかもしれません。
いずれにせよ脇の甘さは否めない人物でした。
早々に崩壊した【十三人の合議制】
『鎌倉殿の13人』のタイトルが発表されて以来、世間では様々な誤解が生じたように感じます。
表向きは「若い将軍・源頼家を支える13人」ですから、彼らが手を執りあうようなイメージをされてもおかしくない。実際それにちなんだ土産菓子や便乗企画もありました。
しかし、この【十三人の合議制】というのは不明点が多いのです。
実際に集まって話し合ったかどうかもハッキリしない。人選もよくわからないところがある。そして即座に崩壊。むしろ手本にしてはいけない不吉なグループでした。
積極的に合議制を破るような行動に走り、権力を独占しようとしたのが北条時政です。

北条時政/wikipediaより引用
時政は、知勇に優れた梶原景時や、武蔵国の比企能員というライバルを蹴落とすと、娘婿である平賀朝雅を鎌倉殿に就任させようとします。
妻である牧の方(りく)と共に企んだとされ、その計画は、政子・義時・時房によって止められました。
いわゆる【牧氏事件】です。
このとき時政側についた宇都宮頼綱は本人の出家により事態は収拾されました。
ソフトランディングがなされ、後に合議制は空中分解し、時政による独裁も止められました。
新たに北条一族を率いることになった北条義時は、父・時政のような野心家ではなかったのか、その後、慎重に振る舞います。
尼御台・政子と、まだ幼い鎌倉殿である実朝のもと、文官である大江広元らと合議による政治を進めたのです。
一見、理想的な政治体制でしょう。
義時が先導するようになってから、一族丸ごと滅びるような流血沙汰が減ってたことは確かです。
しかし、いつの世も政治体制はバランスが重要です。
一強でなくなると、それはそれで反抗心を抱く者が出てくる。
なぜ北条ばかりがあんなデカい顔をしてんだ!
元々は俺らと対等だったじゃねえか!
そういった不満が渦巻いて……。
泉親衡の乱
鎌倉に訪れたしばしの平穏。
その後、建暦3年(1213年)、きな臭い事態が生じます。
千葉成胤が阿静坊安念という僧侶を義時のもとへ連行しました。阿静坊安念が、怪しげにこう持ちかけたというのです。
「頼家公の遺児・千手丸(永実)様を擁し兵を挙げ、あの憎き北条義時を打倒しましょう。力を貸してくだされ!」
事実ならば、ただならぬ事態。この僧は信濃・青栗一族でした。
鎌倉は合議を開き、安念の取り調べを命じます。
そして発覚した計画は、意外にも大規模なものでした。
首謀者は泉親衡。
陰謀の範囲は信濃、相模、越後、上総、下総、伊勢にわたり、賛同者は張本130人余で、与同者200人余にものぼったのです。
彼らは、頼家の遺児である千手丸を担ぐことも画策していて、実に一年半にもわたって広範囲で暗躍していました。
この事件を【泉親衡の乱】と呼びます。
義時の挑発
事件には、千葉常胤、上総広常、八田知家、和田義盛ら、古株御家人の親族までもが加わっていました。
このとき上総にいた義盛はあわてて鎌倉に戻りました。
そして頼朝以来長年仕えてきたことを実朝に語り、子息の和田義直と和田義重の赦免を願いでたのです。
しかし、です。和田一門の残る一人、甥の和田胤長が釈放されず、義盛は一族郎党98人を率いて将軍御所で赦免を願います。
そんな和田一門の前で、信じがたい光景が繰り広げられました。
『な、なんだあれは……?』
見れば、胤長が後ろ手を縛られ引き摺られ、引っ立てられているではありませんか。なぜ、あのような屈辱的な様をわざと見せつけられるのか。
実行に移したのは二階堂行村(行政の子)ですが、その命令者と意図は明確でした。
反乱は許さん!
それが和田一門だろうと、やれるものならやってみろ――そんな北条義時の挑発です。

絵・小久ヒロ
結果、胤長は陸奥国岩瀬に流刑となり、程なくして胤長の幼い娘は父恋しさのあまり病となり、短い一生を終えたのでした。
胤長の屋敷は、いったん義盛に与えられます。
しかし、義盛が代官を置いといたその屋敷に、北条義時の配下がやって来て退去するよう告げます。落ち着く間もなく、屋敷は義時のものとされました。
もう北条義時だけはゆるせねえ!
あの和田義盛が、そう思わないわけがありません。もはやこれまでと見ていた義時が、義盛をさんざん挑発していたのです。
怒りのあまり我を忘れたか、元からの性格なのか。義時の挑発に我慢できない義盛が建てた挙兵計画は杜撰でした。
「なんだか近々、戦になるらしいぞ……」
「そうなのか!」
鎌倉中でそう噂になるほど、義盛の軍事行動は筒抜けだったのです。
実朝はこのことに愕然とし、義盛を呼び出して実情を聞きます。すると義盛はこう答えました。
「鎌倉殿に恨みはねえんです。でも、あの相州(義時のこと)だけはどうしても許せねえ、あまりに身勝手だ! どうしてそうなっちまったか、なんとかしてぇと思ってるだけです!」
シラをきるどころか、そう答える義盛。
それでも彼には親しい一門がいます。
和田一族、縁戚横山党、波多野氏……加えて、従兄弟にあたる三浦義村・胤村兄弟も同族として味方につくと考えていました。
義村と胤村は、義盛に起請文を提出していたのです。
鎌倉で繰り広げられた和田合戦
そして運命の建暦3年(1213年)5月2日――完全武装し、当初の予定よりも一日前倒しにして和田義盛は決起します。
武装した一門たちが一堂に集結。
しかし、鎌倉の自邸でそんなことをすれば近所に筒抜けです。
八田知重(知家の子)が使者を送り、大江広元に伝えると、宴会をしていた広元は中座し、実朝に報告しました。

大江広元/Wikipediaより引用
義時も予め知っていました。三浦兄弟が事前に告げていたのです。
「思った通りだ。和田は兵を挙げるぜ」
「そうか」
蜂起の一報を聞いた時、義時は囲碁の最中でした。
そして全く動じることもなく、囲碁の目を数え、席を立つと、出仕のために着替えて実朝のもとへ向かいます。
義時は実朝の御台(正室)と政子を避難させ、迎撃の準備を整えました。
和田方の主力は150騎。
まず彼らが実朝邸を包囲しました。義時邸と広元邸も同時に攻撃されます。
局地的であった【比企能員の乱】と異なり、広範囲を巻き込む市街戦が展開されたのです。
実朝邸は放火され、実朝は義時と広元と共に逃げ延びました。
義盛は実朝に恨みはなく、あくまで義時の横暴を問い糺したいと実朝に返していました。
興奮していたのか、それとも実朝は義時の甥だと考え直したのでしょうか。
鎌倉殿に襲いかかってしまい、もはや和田方が許される道は閉ざされました。
この戦いで屈指の武勇を見せたのが、義盛の子・朝比奈義秀です。
義秀は義時の次男・朝時はじめ、多くの武士を退けました。
しかし、いつまでも戦い続けられるわけでもありません。
人馬が疲弊し、矢も尽きてゆきます。
幕府方が巻き返す中、和田方は由比ヶ浜まで撤退しました。
和田一門滅亡
翌3日の払暁(ふつぎょう・明け方)、横山党が援軍に駆けつけます。
義盛が決起を一日早めたため、この日の到着となったのですが、結果、和田方は3,000騎にまで盛り返しました。
御家人たちも勝敗が見えないためか、幕府方への味方をためらう者も少なくありません。
それでも下総からは千葉成胤も到着しました。
大江広元は実朝の名を入れた「御教書」(みぎょうしょ)を作らせます。文書で鎌倉殿の権威を示し、味方を奮起させたのです。
と、程なくして戦況が変わります。
義盛が一番可愛がっていた息子は、四男・和田義直でしたが、その義直が討ち取られたと聞き、義盛は思わず号泣してしまうのです。
「こうなっちゃ、もう、戦う意味なんてねえよ……」
そして絶望しながら戦いに挑み、ついに討ち取られ……享年67。

鎌倉の海「由比ヶ浜」
残る義盛の子・義重、義信、秀盛も討死し、横山党も敗北しました。
長男の和田常盛は甲斐国まで落ち延びるものの、そこで自害。
朝比奈義秀は船で安房へ逃げてゆきました。
孫の和田朝盛は京都、朝盛の子・佐久間家盛は安房へ逃れています。
義秀はその武勇ゆえか、巴御前の子という伝説まで作られ、生存の噂が流れました。しかし、はっきりした足取りはつかめません。
和田方の討死した者は、御家人だけでも142名にのぼり、28名が捕縛されました。
幕府方の被害も小さくなく、51人が討死し、負傷者は1,000人を超える有様です。
片瀬川の川辺には、和田方234もの首が晒されたのでした。
そしてこの合戦の翌健保2年(1214年)、14歳の僧・栄実が自殺しました。
【泉親衡の乱】で担がれるとされていた頼家の子です。
和田義盛の残党がまだ生存しているからには、栄実が再び担がれる可能性はあります。
その危険性を排除するため、頼朝と政子の孫が命を落としたのでした。
友の肉を喰らう犬と、その盟友
結果的に義時たちの勝利となった【和田合戦】は、決して無謀な戦いだったとも言い切れません。
突如発生し、一方的に比企一族が殲滅された【比企能員の変】と比較すると、戦闘も広範囲にわたり、参加者も多かったのです。
義盛が挙兵を一日早めたこと。
三浦義村・胤村が裏切ったこと。
こうした不利な条件がなければ、義盛の宿願である北条義時誅殺が叶った可能性もあります。
義時にとっては薄氷の勝利でした。
そしてその結果は、義盛の意図とは正反対に突き進んでゆきます。
この戦いで勝利を決定する大きな役目を果たし、それに見合う利を得た人物がいました。
三浦義村です。
三浦一族の宗家当主は義村でありながら、20歳以上も年上である義盛が実質的に一族を率いているという見方がそれまでは当然でした。
任官の上でも、義盛は義村をしばしば上回っていました。
そんな邪魔な義盛を子とまとめて滅ぼすことで、三浦一族宗家の座は安泰となったのです。
しかし、そんな義村に対する辛辣な味方を示す逸話も残されています。
承久元年(1219年)正月のこと。
その日、御家人たちが集まり、義村が良い席に座っていると、まだ若い千葉胤綱(成胤の子・12歳)が堂々とやってきて腰を下ろしたのです。
カチンときた義村は毒舌を吐きます。
「下総の犬は自分の寝床も知らねえのか」
「三浦の犬野郎は友の肉を食うってな!」
孫のような小僧に辛辣な言葉を浴びせられ、さすがの義村も堪えたようです。
胤綱は【和田合戦】当時、まだ幼児でしたので、この発言は父・千葉成胤の愚痴あってのものでしょう。
成胤は【泉親衡の乱】発覚に大きな役割を果たし、【和田合戦】でも奮戦しながら、勝敗を決する大きな手柄となったのは三浦義村の裏切りと、その後の適切な行動でした。
一門の肉まで食らって出世したいか!
成胤が我が子の前でそう嘆いていたからこそ、息子の胤綱も咄嗟に言い返せたのでしょう。
その結果、後世でこの「三浦犬は、友をくらふ也」という台詞は、義村を評する言葉として定着してしまいます。
しかし、義村が悪名と引き換えに、三浦宗家の座と、幕府での発言権を得たのも事実。
このやりとりも、嫉妬されるほど的確な動きをする義村の人物像をよく示す逸話に思えます。
ただし……。
その義村以上に大きな果実を手にしたのが北条義時でした。
【和田合戦】の影響は広範囲に及び、またもや北条に反抗的な坂東武者たちの力が大きく削がれたのです。
侍所別当である和田義盛は討死し、義時が就任。
すでにこの時、政所別当にも就いていて、義時は軍事と政治、両方の頂点に立ったのです。
二代目執権――かくして鎌倉幕府の頂点は北条氏となり、その滅亡まで続きました。
★
『鎌倉殿の13人』で義時は、頼朝の政治手腕を学びました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
御家人誰か一人に権限を集中させてはならないことも、繰り返し主張しています。
その集中した権力が思わぬ経緯を経て、義時のもとへ転がり込んだ。
政所別当に続き、侍所別当の地位まで手にしたとき――頼朝から学んできた義時は何を思ったのでしょうか。
強大な権力を手にするためならば流血を辞さない姿も、義時は学んでいます。
和田義盛一族の死も“必要悪”だと割り切る伏線は、ドラマの中で既に張りめぐらされていました。
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【参考文献】
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon)
細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(→amazon)
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon)
坂井孝一『源氏将軍断絶』(→amazon)
坂井孝一『源実朝』(→amazon)
他





