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【承久の乱】
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「もう武力討伐しかなくね?」
とはいえ、いきなり「よろしい、ならば戦争だ!」という話になったわけではありません。
朝廷側は度々書面で「チョットどうなってんの?」と幕府へ苦情を送っておりました。
これを受け取った幕府にしても、ドコかで折り合いをつけようと色々交渉していたのですが、それが成就する前に実朝が暗殺されるのですから始末に負えません。
コトここに至って後鳥羽上皇は「もう武力討伐しかなくね?」と決意を固め、北条義時追討の院宣(上皇からの命令書)を出すのでした。
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院宣を出すと同時に息子である順徳天皇を味方につけ、まだ成立して30年ほどしか経っていない鎌倉幕府打倒の兵を組みます。
順徳天皇は「退位した方が気軽に動けるから」という理由で、わざわざこの乱のため息子(仲恭天皇・当時3歳)に譲位するほどの気合い。
ここもよくよく考えてみるとすごい話ですよね。
順徳天皇のお兄さんである土御門(つちみかど)上皇と温厚な貴族たちはこの戦に反対したのですけれども、もはや二人を止めることはできません。
そして鎌倉幕府は「朝敵」となり、いわゆる皇軍と戦うことになったのです。
心が折れそうになったところで女帝登場!
幕府側では、ほとんどの武士が朝廷との関係悪化を知りませんから、まさに寝耳に水。
「え、いつの間に俺ら朝敵になったの? 上皇様と戦うとか聞いてないんですけど……恐れ多いし、降伏していいですか?」と気弱になる者も出てるほどです。
実際、西日本では多くの武士たちが上皇サイドにつきました。
ここで活を入れたのが、北条政子の有名な演説です。
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「かつてお前達は、頼朝殿に山よりも高く海より深いご恩を受けたというのに、この体たらくはどうしたことですか! 今こそそのご恩を返すときではありませんか! 上皇に従いたいというのなら、今すぐこの場で名乗り出なさい!!」(超訳)
細かいことを申し上げますと、実際には安達景盛という武士が政子の代わりに声を張り上げたらしいです。
というか、そもそもこの演説を聞いている時点で北条サイドでは?という素朴な疑問もありますよね。
いずれにせよ幕府が討たれては、彼らの大事な「所領の保証」すらままならなくなる恐れがあり、鎌倉武士団は一致団結。京都へ軍勢を向けることとしました。
当初は「鎌倉に本拠地を構えて迎え撃とう!」という声もありましたが、結局、彼らは【攻め】を選びます。
待っていては味方の武士に動揺が走って不利になりかねない――そんな大江広元や北条政子などの意見を取り入れたのでした。
さすがの義時も『朝廷と戦うのはヤベェ?』と最初は躊躇したもようです。
しかし、ついに武力蜂起へ。
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