三浦義澄

三浦義澄/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

三浦義澄は頼朝の挙兵を支えた鎌倉幕府の重鎮~史実でどんな実績が?

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椀飯(おうばん)の役

その後、鎌倉へ。

12月には、新造されたばかりの頼朝の御所で、義澄が椀飯(おうばん)の役を務めています。

椀飯とは、この場合家臣が主人に食事を振る舞うことです。

元は公家社会で行われていた習慣ですが、鎌倉幕府創立後は武家の行事として長く広く行われるようになっていきます。

ちなみに江戸時代頃になると主君から家臣へ食事を振る舞うことを指すようになり、これが民間にも広まって「大盤振る舞い」と変化しました。

義澄が何を振る舞ったのか。

そこまでは『吾妻鏡』に書かれていませんが、このときに限らず『吾妻鏡』では衣食住に関する記述がほとんどないのが特徴のひとつです。

公家の日記とは違いますし、この時代ですとまだ武家には「自分たちの記録をつける」という習慣が根付いていないので、重要な件以外の記述があっさりしているのも仕方ありません。

三浦氏の本拠地である三浦半島は三崎港をはじめとした良港に恵まれていますし、鎌倉も海が近いので、海産物が多かったかもしれませんね。

この後も義澄は椀飯振る舞いをたびたび行っていますが、あまりにも回数が多いので省略させていただきます。

治承五年(1181年)1月。

頼朝が鶴岡八幡宮初詣に出かけた際にはお供を務めました。

また、同年3月にはまだ去就がハッキリしていなかった武田信義が、鎌倉で頼朝に謁見しており、そのとき義澄や梶原景時が同席しています。

さらに6月には頼朝が三浦で避暑をすることになったため、義澄たち三浦一門が気合を入れてご馳走を用意していました。

このとき、酒が進んでから上総広常岡崎義実の間でしょうもない言い争いが起き、刃傷沙汰になりかけたところで義澄の弟・佐原義連が仲裁したという出来事もありました。

そのため、頼朝の覚えがめでたくなったといいます。

義澄はこういうときにあまり表に出てきませんので、一歩引いたところから物事を見るような人だったのかもしれませんね。

頼朝は公然と三浦氏に目をかけていましたから、他の御家人からやっかみを買わないように気を配っていたのでしょうか。

この三浦訪問から頼朝が帰る際、義澄はお土産として兜や馬を献上しています。

馬は「髪不撫(かみなでず)」という名のもので、義澄はこれに乗って何度も戦に出ており、負けたことがなかったとか。

 


壇ノ浦の戦い

次に義澄が戦場へ赴くのは、元暦元年(1184年)8月のことです。

頼朝の弟・源範頼に従って西へ向かう征伐軍の一員に加わりました。

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翌文治元年(1185年)に範頼が豊後に渡る際は、周防の警備のため留守を命じられています。

これもひとえに義澄や三浦氏に対する信頼感から来るものでしょうが、義澄は先陣で華々しく戦う気満々だったので、待機させられることには不満だったようです。

守備を務めている間に、屋島の戦いを終えた義経軍が周防までやってきたので、義澄は義経に接触。

義経は義澄に案内役と先鋒を命じられました。

壇ノ浦の戦い】に関しては、戦闘以外のところでも義澄の名が登場します。

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義経と梶原景時が先陣を巡って言い争いをし、ヒートアップした双方の郎党までもが殺気立ったとき、義澄が義経に組み付いて同士討ちをやめさせた……というものです。

武士としての意地も持っていますが、やはり義澄はどちらかというと一歩引いたところから物事を見るような、冷静なタイプだったのでしょう。

となると個人としての武勇は伝わりにくいため、目立ちにくくなってしまいますね。

平家滅亡後の義澄は、武士というよりも政治家のような働きが目立ってきます。

どの御家人にも共通ではありますが、その中でもうまく適応していった一人かな、という感があります。

いくつか簡単にご紹介しましょう。

 


鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)

文治元年(1185年)10月。

義澄は、勝長寿院の落成供養に向かう頼朝の警護役を務めました。

警護役も大変ですが、地盤固めに余念がない頼朝も大変です。

こうした政治的な仕事としては、文治二年(1186年)6月、「戦続きで疲弊した農民のため」という頼朝の命で、義澄が相模の百姓に米を配ったこともあります。

庶民の暮らしを安定させ、都への税を滞りなく遅れるようにすれば、頼朝や関東武士への信用が高まるのは必然。

評判を買うための先行投資といったところでしょうね。

さらに文治三年(1187年)2月には、頼朝が義澄邸を訪問し、酒宴が開かれています。

ちょうど信濃・保科の遊女の長が訴訟のため鎌倉に来ていたので、この宴席に呼び出して歌を歌わせて楽しんだそうです。

文治三年(1187年)8月には、鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)に参加しています。

この放生会(ほうじょうえ)については特別なエピソードがあり、梶原景時の記事に詳細がありますので、よろしければ後ほど併せて御覧ください。

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端的に言えば「弓術に長けた金刺盛澄」が流鏑馬で数々の神技を炸裂させています。

義澄の息子・三浦義村も流鏑馬の五番手として選ばれましたので、父として誇らしかったことでしょう。

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その他の事績について、以下にざっと記させていただきますと……。

文治三年(1187年)9月

→頼朝の乳母・比企尼の家の庭に白菊が咲いたため、頼朝と政子が重陽の宴会を開催

→義澄や足立遠元など年配の御家人がお供を務める

文治四年(1188年)1月20日

→頼朝が伊豆山権現・箱根権現・三島大社へ参詣の旅

→義澄が道中の相模川に船橋を作るよう命じられる

文治四年6月11日

奥州藤原氏から朝廷献上の馬や黄金などが届く

奥州藤原氏については少し補足が必要ですね。

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この時点での彼らは源義経に通じており、鎌倉側から信用されていませんでした。

そのため義澄は、馬と黄金を没収すべきかどうか、頼朝に尋ねます。

『吾妻鏡』では、頼朝が「公のものだから没収してはならない」というところで記述が終わりますので、おそらくそのまま京都へ運ばれたことでしょう。

 

逃げる藤原泰衡を追い

いかがでしょうか。

公の仕事から私的な宴まで、幅広い場面で義澄の名が登場。

長老格とみなされていたこともあってか、この時期から次世代と関わる場面にもたびたび登場してきます。

例えば文治四年(1188年)7月、萬寿(後の二代目将軍・源頼家)の鎧初めの儀式です。

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義澄は、畠山重忠和田義盛と共に、萬寿が馬に乗るための手助けをしたばかりでなく、翌文治五年(1189年)4月には、北条時政の三男・北条時連の元服式にも参加。

頼朝は、義澄の弟・三浦義連に加冠役を務めるよう命じました。

義澄ほか名だたる御家人の多くが居合わせていたため、義連は当初遠慮したのですが、頼朝が指名の理由を以下の通りに並べ、

「お前はかつて、上総広常と岡崎義実の争いを見事に収めてみせたな。私はその采配に感心したのだ。

この子は政子が目をかけているので、お前のような立派な武将になってもらいたい。

故に加冠の役を任せるのだ」

周囲の人々も納得したので、義連が加冠を務めたそうです。

義澄も誇らしかったでしょう。

同じく文治五年夏の【奥州征伐】では、阿津賀志山での奮戦が知られています。

平泉に向かって逃げる藤原泰衡を追い、義澄らは暴風雨の中を追撃し、その道中で泰衡の有力な郎従・若次郎を討ち取ったそうです。

頼朝軍はそのまま平泉へ入りましたが、肝心の泰衡が見つかりませんでした。

その捜索は、義澄・義連・義村ら三浦一族に任せます。

すると9月6日になって河田次郎という泰衡の郎党が主人の首を持ってきたため、それ以上の進軍は取りやめになりました。

ちなみに次郎は頼朝に

「泰衡を討つのは時間の問題だったので、お前のやったことは手柄にならない」

と言われて処刑されています。

おそらく、頼朝の父・義朝が家臣の長田忠致に首を取られたことを思い出し、不快になったから……というのもあるでしょう。

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