文覚と呪術

文覚(歌川国芳作)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

平安末期~鎌倉時代の「呪術事情」生臭坊主・文覚の呪詛はどこまでマジだった?

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呪いの効果はあったのか?

当時、呪詛はあった。

けれども、それが効いたかどうか、どうやって判断したのか?

結果論的に「こじつけでなんとかなった」と思われます。

例えば平清盛は熱病で亡くなっていますが、その時の様子が『平家物語』に描かれています。

発熱で部屋が熱くなり、水風呂につけると蒸発してしまう。

そんな強烈な症状が描かれていて、現代人が読めば『凄まじい誇張表現だなぁ』と思いますよね。

しかし、当時はどうでしょう。

文覚あたりが、したり顔でこんな風に言う。

「ご覧あれ、あの清盛の酷い死に様を! 南都焼討にした仏敵にふさわしい死に様ですぞ!」

そしてニヤリと笑う。

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話を聞かされた方はどう感じるか?

思わず呪詛が効いたと考えてしまっても仕方ないとは思いませんか。

『鎌倉殿の13人』では、清盛の死後、豪華な袈裟をまとった文覚が再登場しており、彼なりの営業トークが成功した証かもしれません。

このように呪殺認定を受けた人物は、なにも平清盛一人だけではありません。

『鎌倉殿の13人』に登場する人物は、主人公の北条義時はじめ、複数名が「祟りで死んだ!」と当時は認識されております。

その条件を見てみましょう。

・権力者である

→政敵から憎まれ、標的にされるがゆえにそうした記録が残る。

・【承久の乱】に関わった

→京都の人からすれば憎い存在。せめて祟りで死んだと思いたい。

・突然の急死

→現代からすれば卒中や脳出血による死も、当時は「祟りだ!」とみなされた。

長生きし、子や孫に囲まれ、大往生を遂げる――このくらいの好条件がなければ「祟りだ!」と呼ばれる時代だったんですね。

時代比較のため、幕末を考えてみましょう。

水戸藩主の徳川斉昭は厠で心臓発作を起こし急死しました。

するとこんな噂がまことしやかに囁かれます。

「水戸藩士が【桜田門外ノ変】で井伊直弼を殺しただろう。それを恨んだ彦根藩足軽某が、庭師に化けて入り込み、刺殺したらしいぞ……」

怨念由来の陰謀論ではありますが、こちらは祟りではなく暗殺になっていて、人間の意識も進化していることがわかります。

呪詛をこじつけと片付けることは合理的に思えます。身体的暴力を厭わない坂東武者より穏やかにすら思えます。

しかし、本当にそうでしょうか?

自分を呪った札や髪の毛が見つかること。そんなもの標的からすればゾッとすることでしょう。

得体の知れない存在から憎しみがぶつけられれば、相当なストレスが溜まります。

現代にたとえるのであれば、SNSにおける誹謗中傷ですね。

心の傷は人の命に関わります。気にしなければOK……ではないのは昔も今も同じことです。

 


“末法の世”と気候変動

『鎌倉殿の13人』の舞台は「末法の世」であったとされます。

釈迦の教えが届かなくなり、世が乱れるという仏教の思想ですね。

日本では、永承7年(1052年)を末法元年とする考えがありました。

平氏と源氏が争い、武者が京都になだれ込んでくる様を見ながら、人々が「まさに仏様のいない末法や……」と思い込んだとしても無理ないことでしょう。

こうした思想だけでなく、科学的なアプローチもできます。

地理と気候変動です。

日本で源平合戦から鎌倉時代へ移るころ、中国でも大変動が起こっておりました。

宋王朝が滅び、元が支配するようになったのです。

モンゴルにいた元が中国まで押し寄せたのはなぜか?チンギス・カンの天才性だけでは説明できません。

実は温暖化の影響もあったとされます。

中国大陸では、気候変動が歴史を動かします。

後漢から『三国志』へ流れ込む時代は、寒冷化が進んでいました。

北方にいる民族は、寒冷化しても温暖化しても中国をめざします。

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寒冷化すれば食糧を求めて南下し、温暖化すれば勢いを増して南下する……。

こうした気候変動の影響は、日本でも影響した可能性はあります。

『鎌倉殿の13人』では、飢饉のために兵糧が不足する様子が描かれました。兵糧が十分に備蓄できる状況であれば、戦況が異なった可能性は考えられます。

そうした気候変動に恐れ慄く当時の人々は、科学知識がなかったため、何かに原因を託すしかなかった。

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頼朝が後白河法皇の夢に登場する場面は、ユーモラスでお笑いの場面とされます。

文覚のヌメヌメとした動きも激しい祈祷も、確かに笑えました。

当時の価値観や世界観を踏まえる上でも、こうしたオカルト要素を考えてみるのも実は興味深い。

文覚はあからさまに不気味かつ、邪悪な雰囲気を漂わせていた。

人の悪意や心理につけこみ、知識や弁舌でたぶらかす。

刃をふるわずとも、誰かの心を傷つける。

そんな調子ですから、不気味で世間から憎まれても仕方ないでしょう。

実際、文覚は一度は社会的成功を得ますが、支援者を失い落魄してしまいます。まさしく因果応報ですね。

人を呪わば穴二つ――文覚からはそんな教訓が学べそうではあります。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
繁田信一『呪いの都平安京: 呪詛・呪術・陰陽師』(→amazon

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