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【観応の擾乱】
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くすぶる火種
この対立関係が物騒になっていったのは、南朝軍の動きがきっかけでした。
貞和三年(1347年)に河内・和泉で南軍の楠木正行が挙兵し、討伐に向かった直義派の細川顕氏・山名時氏らが敗退。
そこで翌年正月、師直らが楠木正行を破り、その勢いで吉野の攻略に成功 後村上天皇を賀名生(あのう)へ追いやるという大戦果を挙げました。
こうなると、師直の影響力が増すのは必至。
直義は自分の勢力圏を広げる狙いもあって、養子の足利直冬を西の押さえとして長門に送ることを尊氏に提案します。
尊氏としては「自分の子を名乗るウザい奴が遠くに行ってくれる」ということで了承しました。うまく行っても行かなくても、尊氏にとっては何らかのメリットがありますしね。
直義はさらに貞和五年(1349年)閏6月、師直の罷免を尊氏に迫ります。
と、尊氏がこれを了承してしまうのですが、当然のことながら師直は黙っていません。
いったんは引き下がりながら、同年8月に手の者を集めて足利直義の排除を試みました。
直義が尊氏邸に逃げ込むと、師直らは邸を取り囲んで、以下の事項を要求します。
直義が兄を頼っていることと、師直が主人を相手に武力で恫喝しているところがミソですね。
長い目で見れば、下剋上の下地の下地がこの時点で既に存在していたともとれそうです。
足利尊氏はこれらの要求を受け容れた結果、上杉重能・畠山直宗については、流罪先へ向かう途中、師直の手の者により殺害されています。
まあ、この時代の流罪は「表向き死刑にできないから”道中の事故”ということにして殺すつもりです宣言」みたいなものですしね……。
足利直義としても引くしかなく、出家して政治の表舞台から退くこととなりました。
が、もちろん事はこれでは終わりません。
足利直義の失脚を聞いた養子の足利直冬が激怒するのです。
【観応の擾乱】の始まりです
足利直冬は、何かと直義から目をかけてもらっていました。
直義が貞和三年(1347年)に実子・如意王に恵まれた後もそうでしたので、直冬は義父へ強く恩を感じていたことでしょう。
その恩を実績で返さなければ、という責任感もあったはず。
それに加えてこの頃は「両将軍(尊氏と直義)の命令なので私に従うように」という名目で西国武士にあれこれと書状を送っていたので、義父に引退されると困るという事情もありました。
一方、実父であるはずの尊氏は、この時点でも直冬との血縁関係を認めていません。
直冬が生まれる前、彼の母のもとには複数の男性が出入りしていたらしく、尊氏は
「コイツってほんとに俺の息子なのか?」
と疑っていたことが冷遇の理由だそうですが、それは直冬の責任じゃありませんよね。
正室の子である足利義詮や足利基氏と序列の差をつけるのは仕方ないにしても、せめて一門として他の人よりちょっと優遇するくらいはしておけば、無駄な血や時間を使わなくても良かったでしょうに……。
尊氏は気前がいい割に優しくないというか、変なところで「嫌なものは嫌!!」と頑固になる傾向があり、それが最も激しく出たのが直冬の扱いといえます。
しかし血の繋がりはやはり間違いなかったのでしょう。
直冬は果敢にも中国・九州で国人たちを味方につけて一大勢力となったのです。
見過ごせなくなった尊氏は観応元年(1350年)10月、直冬追討のため西へ向かうと、今度はその隙をついて直義が畠山国清・細川顕氏らを味方につけ、大和で挙兵。
【観応の擾乱】の始まりです。
全国規模で南北朝に分かれた対立
「擾乱(じょうらん)」は「騒乱(そうらん)」とほぼ同じ意味で、無秩序な争いを示す言葉です。
しかし「乱」だけでも意味としては通じるところ、わざわざ「擾」をつけるのですから、特別な意味合いがあるということになります。
その名の通り、この戦は実に複雑な経過をたどりました。
日本史上屈指のカオスである【応仁の乱】よりはマシかもしれませんが、「身内の争いがキッカケで全国に飛び火」という点は非常に似通ったところがある。
まず足利直義は、兄と離別するだけでなく、仇敵である南朝方についてしまうのです。
直義は、かつて後醍醐天皇の皇子である護良親王を殺させたことがあるので、南朝からすれば仇も仇。
本来ならばどう考えても手を組まない、組めない相手です。
しかし、南朝方も困っていたのは事実。
既に北畠顕家や楠木正行などの中核となる人材をほとんど失い、武将すっからかん状態だったので、なりふり構っていられませんでした。
前述の通り、顕家と正行の二人を討ったのが高師直なので、共通の敵と見ることもできます。
まぁ護良親王は化けて出てもいいかもしれませんが……。
ここから尊氏・師直派と直義派との合戦が始まり、関東や奥州でも両派閥の軍が激突、もはやこれは戦国時代では?という状況に陥りました。
そこで観応二年(1351年)2月、摂津・打出浜の戦いで直義方が勝利すると、尊氏は「高兄弟を出家させるので、戦をやめよう」と申し出ます。
直義はこれを受け入れました。
しかし、です。恨みというのはハイ和睦ですか、とそう簡単に消えるわけではなく……直義方だった上杉能憲が護送中の高一族を襲撃し、皆殺しにしてしまうのです。
能憲は師直に殺された上杉重能の養子だったとされる人で、父の敵討ちとなりました。
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