義姫

絵・小久ヒロ

伊達家 最上家

政宗の母で義光の妹・義姫(よしひめ)は優秀なネゴシエーター 毒殺話はウソ

昨今、最上義光の評価が回復しております。

そうなると最上ファンとしては、義光がこよなく愛し、頼りにもしていた彼の妹・義姫(よしひめ)の評価も上げて欲しいと願ってやみません。

彼女については「妹は無理だわ……だってあの人でしょ」と拒絶反応される方もおられるでしょう。

義姫は「息子の伊達政宗を毒殺しようとした」とされていて、真っ先にこのマイナスイメージが浮かびがちです。

しかし、実際は違うのです。

現在では毒殺事件そのものが捏造とみなされており、義姫についても再評価が始まっております。

彼女は決してエゴを前面に出して無茶するのような人物ではありません。

1623年8月13日(元和9年7月17日)は、そんな義姫の命日。

実際の彼女はどんな女性だったのか。その生涯を振り返ってみましょう。

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毒殺事件でキャラが立ちすぎた義姫

そうはいっても、義姫といえば毒殺というイメージが定着しています。

大河ドラマ『独眼竜政宗』の名場面として母の毒の膳を口にした政宗をあげる人も多いです。

義姫がゲームに出てくる時は険しい顔で毒を使うキャラにされたりしています(『戦国大戦』等)。

さらに彼女の人格そのものが、毒殺事件から逆算したものとして扱われます。

よくある義姫像はこんなところでしょう。

敵対した最上家から送り込まれた女スパイ的役割を果たしていた

→最上家と伊達家は、必ずしも敵対していたわけでもありません。戦国大名夫人は実家と婚家を橋渡しする役目もありますが、それはむしろ当たり前のことであり、異常で卑劣なことだと考えるのは無理があります

最上義光から夫の伊達輝宗を暗殺するよう密命を受けていた

→荒唐無稽もほどがあります

長男の政宗を溺愛するも、産んだ直後引き離され乳母に預けられ、自ら育てられないことを悔しがる。そのため次男は手元で育てた

→当時の大名夫人は一部例外をのぞいて乳母が育てることは当然。現代人の感覚から逆算した人物像です

醜くなった政宗を憎んだ

→毒殺事件から逆算した以外、根拠不明

政宗の冷酷なふるまいは母譲りの血

→最上家の者が冷酷であるという根拠が薄弱(むしろ伊達家の方が、父子喧嘩ばかりしている濃い背キャラクターの当主が多いのですが)

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どれもこれも、冷静に考えてみれば荒唐無稽で無茶苦茶な人物としか言いようがなく、『どうしてこうなった……』とツッコミたくなります。

そもそもこんな悪女であれば、成敗されるか離縁されて実家に送り返され尼にでもさせられるのではないでしょうか。

こういったフィクションで流布している人物像は、あくまでお話としていったん忘れて頂きたいと思います。

あのドラマのあの場面も、あの漫画のあの場面も、全部嘘なのかと愕然とする方もいるかと思います。

嘘なんです。

すべて忘れてください。

毒殺事件は実のところ、当時の史料では記録がはっきりと残っていません。

登場するのは『伊達治家記録』で、事件が起こったとされる時から一世紀近く経って編纂されたもの。

仙台藩がいかに自分たちの先祖は立派であったか示すために記録したものですから、誇張をまじえた記述も見られます。

信憑性については疑問符のつく記述もありますので、そのまま全て真に受けることはできません。

 


義姫は有能なネゴシエイター

それでは史実での彼女はどんな行動をしたのでしょうか。

戦国時代の女性となるとどうしても史料が不足し、人となりはわかりにくいものです。

義姫もまたそうですが、例外的に彼女の行動や考え方について、比較的詳細に残っている出来事があります。

その出来事とは、嫁ぎ先である伊達家と、実家である最上家が対立した天正16年(1588年)大崎合戦です。

この合戦において、義姫が輿で乗り込み仲裁したというものです。

大河ドラマ『独眼竜政宗』でも印象的な場面ですし、これまたゲームでカード化されてもいます(『のぶニャガの野望』義姫ニャン宝)。

「そうかぁ、実家と嫁ぎ先の争いを見たくない平和を愛する女性だったんだね!」

……というのも違います。

従来、義姫のこの行動は親族同士の争いを見たくないから強引に止める、女性ならではの挺身行為とされてきました。

しかし、史料を丹念に見ていくと、それとは異なる「交渉人」としての顔が見えてきます。

 


東北名物 親戚同士トラブル 大崎合戦

そもそも大崎合戦とは何か。

まずWikipediaをみますと、

大崎合戦(おおさきがっせん)とは、天正16年(1588年)に起きた伊達政宗軍と大崎義隆・最上義光連合軍との戦い。

とあります。

本記事のメインは義姫ですので、詳細は各自調べていただくとして、対立構造は以下の通りとなります。

伊達政宗:大崎家臣の氏家吉継を支持

最上義光:大崎義隆(義光の正室兄)を支持

この合戦がつかみにくいのは、両者ともに狙いがよくわらない点です。

積極介入して大崎を支配下に置く野心的戦いというよりは、親戚のごたごたに引っ張り込まれたような感じと言いますか。両者とも、支持する相手から「揉めているので助けて!」と頼まれて腰を上げています。

このあたりが東北戦国史の厄介なところです。

他の地域と同じように考えていると混乱します。東北は他地域と比べて「ゆるい」のです。

互いを不倶戴天の敵と見なし、滅ぼすまで戦うような殲滅戦は戦国時代においてすら、あまりありません。

東北地方は寒冷であり、冬期間は軍事行動を休むこととなります。実質的に一年間のうち、戦うことができるのは半年程度。根性で無理矢理に雪中行軍をする例もありますが、あまりよい結果は得られません。

また東北大名は、ほぼ皆親戚同士という点も重要です。

これは子だくさんだった伊達稙宗(政宗の曾祖父)や伊達晴宗(政宗の祖父)が、片っ端から娘を近隣大名に嫁がせたことが原因です。

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これに限らず伊達家は血縁者を他家に嫁がせる、養子として送りこむことで影響を与えてきており、軍事力だけではなくハプスブルク家のような血縁力で、東北において力を保ってきておりました。

こうした状況があるため、最後には「まあまあ親戚同士なんだから、滅ぼすようなことはやめてこのあたりでやめましょう」と手打ちすることになりがちです。

さらにこの合戦の時期にご注目を。

小田原の陣まであと二年です。

天下の流れからは遠い東北の地とはいえ、アンテナをはりめぐらせている大名は、中央の情勢をキャッチしていました。そろそろ豊臣秀吉のもと、天下はさだまるかもしれないと読む者もいた、ということです。

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と、前置きが長くなりましたが、ここでこの対立構造を再度見てみましょう。

伊達政宗:大崎家臣の氏家吉継を支持

→奥羽第一の大名面子としては、なんとか話しまとめないとな〜……めんどくさいけど、まとめれば大崎家を支配下におけるかもしれないし

最上義光:大崎義隆(義光の正室兄)を支持

→義兄の頼みは断れないよな〜めんどくさいな〜

と、伊達と最上は大崎合戦に対してめんどくさい気持ちがあった、特に最上義光はあまり積極的ではなかったのではないか、と思われるのです。

「親戚の頼みが断れないなら、別の親戚にやめるよう言われたらいいじゃない!」

そう義光が考えたかどうかまでは断言できませんが、こう考えてもおかしくはない状況でした。

そんな中、我が子政宗と兄・義光の苦境に立ち上がったのが、妹の義姫なのでした。

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