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徳川家康/絵・富永商太

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週刊武春 徳川家

徳川家康はもっと評価されていい! 75年の生涯に見る熱き心と老練な政治力

更新日:

国内外での評価差が激しい徳川家康

徳川家康は、その功績と比べて、不思議なほどに人気がありません。
例えば、以下の狂歌と句。

◆鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰(ほととぎす)
◆織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

いずれも「家康なんて威張ってはいるけど、ただ棚ボタで天下を統一しただけじゃないか」というやっかみがこめられています。

その一方、海外で発行された世界史関連の辞典には、必ずといっていいほど徳川家康の名が掲載されています。

とりわけ象徴的だったのが、BBC制作の『ウォリアーズ 歴史を動かした男たち』でしょうか。
ナレーションからして、かなり鼻息荒くその評価が伝わってきます。

◆これは偉大な侍の物語。その偉業はナポレオンやシーザーに匹敵する

また、海外で発売された、とある伝記紹介文にはこうあります。

◆日本史上屈指の成功した統治者であり、世界史上でも有数の狡猾な戦略家。徳川家康は、日本史上で最も多くの危難と謀略が蔓延する時代を乗り越え、ついに天下統一を成し遂げた

諸外国と日本内での、この評価の差は一体何なのでしょう?
日本人が家康をやっかみもこめて過小評価しているのか、それとも海外の人々が過大評価しているに過ぎないのか。

本稿では、史実ベースにもとづいて徳川家康の生涯を振り返り、その功績を正しく見直してみたいと思います。

(富永商太・絵)

 

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守山崩れで三河松平党に悲劇が訪れ

竹千代、のちの徳川家康は天文11年(1543年)、松平広忠と於大の方の嫡男として岡崎城で生まれました。
このとき父の広忠は17歳、その妻・於大の方は15歳というまだ若い夫婦。
竹千代は武田勝頼よりも3歳上にあたり、のちに対決することになる武田信玄とは親子ほどの差がありました。信玄だけでなく、北条氏康、上杉謙信らからみると息子、織田信長や豊臣秀吉からみると弟世代くらいというところです。

岡崎城に伝わる家康の産湯井戸

さて、彼の先祖にあたる松平一族ですが、これがどうもハッキリしない由来。その出自が江戸期以来議論されおり、どうやら古代豪族・賀茂氏の流れでないか?とされています。
家紋の「三つ葉葵」は葵祭で有名な賀茂神社との関わりがあることがわかります。

ただし、これでは武家の棟梁としてはちょっと血統の正統性が弱いわけです。松平家始祖・親氏には、新田義貞に属した得川義季の子孫であるという伝説がありました。
家康はこの伝説を根拠にのちに「徳川」と名乗り、新田系の清和源氏血統であると自称するようになったのです。
また家康の系統である安祥松平家は、実は嫡流ではありません。嫡流の家勢が衰えたためそれにとってかわった系統です。
このあたりの血筋の問題はいろいろとつつかれてきた点です。

そんな松平党たちの躍進のキッカケとなったのは、七代目であり家康にとって祖父にあたる清康でした。武勇に長けた清康は三河国を切り従えます。
ところが天文4年(1535年)、守山城攻略を目指して織田信秀(信長の父)と対陣中、部下に斬殺されてしまうのです。この「守山崩れ」と呼ばれる悲劇以来、松平党は勢いを失い、苦難の日々を歩むことになったのでした。

この時、清康の嫡子である広忠は僅か13歳。彼は岡崎城を追われ流浪の身となります。
今川義元の取りなしで岡崎城に戻れたものの、これ以降は今川の意向に逆らえなくなりました。のちに家康となる竹千代が生まれたのは、こんな苦難の中でのことでした。
さらに幼い竹千代に苦難が襲いかかります。母・於大の兄である水野信元が今川と敵対する織田方についたため、於大が広忠から離縁されてしまったのです。

こうして竹千代は、実母と生き別れることとなったのでした。

松平清康/wikipediaより引用

 

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三河武士団の忍従 すべては竹千代様のために

生母と離別した竹千代に、さらなる困難が待ち受けます。
6歳の折、父・広忠が織田家に対して対抗するため援軍を今川家に申し込んだところ、人質として竹千代を求められたのです。織田への対抗勢力である松平家から人質を取るのならば、生母実家が織田方についた竹千代がふさわしかったのです。

竹千代は駿府へと送られます。が、このとき有名な人質の横取り事件があって織田家に送られ、竹千代はそのまま二年間、尾張に滞在することになったのでした。
そしてこの尾張人質期間中の天文18年(1549年)に、父・広忠が急死してしまうのですから、過酷にも程がある幼少期です。広忠は表向き病死とされていますが、実は家臣による殺害でした。

祖父、父と二代続けて家臣により殺害されてしまった竹千代。義元は成年の当主が不在となった松平家を支配下に置き、人質交換で竹千代の身柄を駿府に移します。
竹千代は多くの若い家臣たちに囲まれながら、駿府で暮らすことになりました。彼らは青年か主君と同年代にあたり、遊び相手をつとめながら、竹千代を守り続けます。

駿府で竹千代の教育にあたったのは、母方の祖母である源応尼でした。
さらに長じると、名門今川家に仕える名僧たちが薫陶を授けます。その中には今川義元が頼りにした太原雪斎もいました。学問に長けているだけではなく、合戦でも活躍した太原雪斎の教えを受けたことは、竹千代にとって大いにプラスとなったことでしょう。

大大名たる今川家で知性と教養に磨きをかけたことは、竹千代の人格形成によい影響を及ぼしたことでしょう。今川家としても、竹千代が成人したのちには今川家配下の武将として力を尽くして欲しいわけで、粗略な扱いはしなかったと推察できます。

竹千代自身の処遇はさておき、その家臣たちの扱いは過酷なものでした。
岡崎城に入った今川家の城代に従わねばならず、合戦では捨て石のような役目を背負わされるのです。幼主である竹千代が駿府にいる以上、逆らうこともできません。
それでも三河武士団は松平家を見限らず、いつか来る独立の日を信じていました。

彼らの希望は、幼主・竹千代に託されていたのです。

天文22年(1555年)、竹千代は14歳で元服。義元から一字拝領し、次郎三郎元信と名乗ります(ただし、その数年後には元康と改名したようです)。

元信は元服後一時的に岡崎城に戻ります。
しかしそこには今川家の城代がおり、本丸に入ることはできませんでした。それでも家臣たちは元服した主君の姿を見て感慨もひとしお。元信はこっそりと蔵の中身を見せられます。
そこには大量の兵糧米と軍資金が備蓄されました。

「これは若殿が三河に戻る時のため、その時期に備えて蓄えていたものでございます」

今川家に服従し、決して豊かではない暮らしの中、こつこつと貯められた物資を見て、元信の感動も大きく、そして責任感も全身を駆け巡ったことでしょう。
永禄元年(1558年)、元康は初陣で戦果をあげますが、それに対して恩賞は松平家のごく一部を与えられただけでした。家臣たちは不満を訴え、松平家の領地すべてを与えるように訴えますが、退けられます。

関ヶ原まで、あと四十二年。この二年後、石田三成が生まれるのでした。

 

桶狭間で思わぬチャンス! そして岡崎城へ

念願の松平家独立の好機は、思わぬところでやってきます。
永禄3年(1560年)、今川義元は圧倒的な軍事力を背景に、尾張侵攻を開始(上洛目的という説は現在否定されています)。その配下の将として、元康は先鋒を任されました。

これは露骨な捨て石という見方もできますが、彼の領地が地理的に尾張に近いということも関係しているでしょう。元康の任務は孤立した大高城への食料搬入であり、首尾良くこの任務を果たします。

しかし5月19日、予想だにせぬ大番狂わせが発生します。皆さんご存知の通り、今川義元が織田信長率いる軍勢に討たれてしまったのです。

のちに「桶狭間の戦い」と呼ばれる歴史上の転換点。元康はこの時、大高城で休息中でした。
このままでは敵地尾張に入り込んでいる松平勢は孤立し、囲まれてしまいます。絶体絶命のピンチか――と焦った元康ですが、実のところ織田勢には兵力の余裕がなく、元康に攻撃を仕掛けることは出来ませんでした。

そこで元康は、自領の松平まで無傷で撤退し、いったんは菩提寺の大樹寺に入ります。
このとき、松平家の本拠である岡崎城は、今川の城代が撤退し、空城になっていました。喉から手が出るほど欲しかった念願の岡崎城が目前にある……されど今川に対する義理のためか、しばらく様子見に徹する元康。

意を決して岡崎城に入り、今か今かと織田勢の襲来を待ちました。

岡崎城

が、義元を討ったことで力を使い果たしたのか、結局、織田勢はやって来ません。
かくして思いもよらぬ幸運により、ほぼ無傷で岡崎城を取り戻した――なんて書くと棚ボタラッキーのようではありますが、先に大高城へ危険な食料搬入を果たしていることを忘れてはいけません。

いずれにせよ今川は、当主義元を討たれ、家督を継いだ今川氏真体制では、不安定な状況です。
この間隙を縫って永禄5年(1562年)、元康は今川家から独立を果たし、母方の叔父の仲介で織田家と同盟を結びました。
このとき義元からもらった偏諱「元」を返上し、家康と名乗るようになります。

スムーズな独立のようにも思いますが、実際はさにあらず。永禄6年(1563年)には「神君三大危難」三河一向一揆に遭っており、家康は一揆を鎮圧しつつ三河を統一。ようやく独立大名となったのでした。

二代続けて主君が若くして家臣に殺された三河松平一族。悲運の雲に晴れ間が見え、ようやく明るい兆しが見えてきました。
関ヶ原まで、あと四十年のことです。

 

織田信長と同盟を結び「家康」に改名する

永禄5年(1562年)、前述の通り、元康は尾張の織田信長と同盟を結びました。この同盟は、信長が本能寺で斃れるまでの二十年間堅持されることになります。
この同盟で西側に安全を確保した元康の狙いは、東の今川です。義元の死以来、国衆の動揺を抑えきれない今川領は、武田・北条によって食い荒らされているような状態でした。

そして永禄6年(1563年)には元康から「家康」へと改名。「家」の字はどこから来たのかというと、清和源氏の「源義家」ではないかとされています。さらに永禄9年(1566年)には従五位三河守叙任と同時に「徳川」に改姓。松平元康はおなじみの「徳川家康」となったのでした。

さてここで、あの狂歌を思い出したいと思います。

◆織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

これを家康本人がもし読んだとしたら「おいおい、織田が餅をついたというならば、私だって一緒にやっていたじゃあないか」と言いたくなるかもしれません。
織田信長が天下布武を目指していたのは確かです。そしてその道のりには、頼りになる同盟相手として家康がいたのでした。いわば信長が杵で餅をつく合間に、手際よくひっくり返していたのが家康と言えるのではないでしょうか。
二人の関係は共存共栄であり、家康だけではなく信長もこの同盟から利益を得ていたのです。そうでなければ二十年も続かなかったはずです。

例えば永禄11年(1568年)、信長は上洛を果たします。これも東側を家康が抑え、背後を突かれることはないと思っていなければ難しいことです。この上洛によって信長は将軍・足利義昭を奉じ、他の大名に対して一歩リードするようになるわけです。

イラスト:富永商太

一方、家康は、東の今川を攻略。永禄12年(1569年)には、今川氏真が掛川城を開城して家康に降伏、戦国大名・今川氏はここで滅亡します。
氏真は家康の保護下に入り、特に険悪な仲というわけでもなく、二人は晩年までつきあいが続きます。
氏真の子は旗本として江戸幕府に仕えるほどです。

家康は信長の同盟相手として、永禄13年(1570年)金ヶ崎の戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参戦、存在感を見せます。
家康というと晩年の狸親父のイメージが強いのですが、壮年期は武家の棟梁らしい精悍な姿を見せています。姉川の戦いではどうしても一番手を切ると譲らず、結局信長は陣立てを変更した、と伝わります。

 

三方ヶ原の戦いで見せた「武士の意地」は決して無駄じゃない!?

信長が勢いを増す中、他の大名も指をくわえて見ているわけではありません。

信長と対立した足利義昭の要請を受け、ついに元亀3年(1572年)、武田信玄が上洛を開始しました(※と言ってもこのときの武田家もかつての今川氏と同様、徳川領への侵攻であり、京都への上洛ではないとの見方です)。

信玄率いる二万の軍勢は、甲府から徳川領へと侵攻開始。家康の敗因を探るまでもなく、数の差は圧倒的でありむしろ勝ち目がまったくない戦いでした。二番目の「神君三大危難」の開幕です。
このときの武田勢ときたら、破竹の勢いとか鎧袖一触とか、そんな言葉がふさわしい進撃ぶりでした。

家康のもとには信長から三千の援軍が到着します。
それでも形成は不利です。家康は本拠の浜松城に籠もり、武田勢の来襲を待ち受けます。

ところが敵は意外な行動に出ます。なんと浜松城を素通りし、三方原台地から浜名湖へと進んだのです。

これは当時のセオリーからすれば異常なことでした。進軍する先にある城は落とす、あるいは少なくとも攻め手を送り込むのが常道。これはまるで猫が鼠をいたぶるような、あまりにひどい侮辱でした。
この見え透いた侮辱を目の前にして、家康と家臣の意見は対立します。劣勢であるからには見送るべきだという静観論に、家康は反対。

「見え透いた挑発であり、おびき出そうという魂胆はわかっている。しかし、これを見送っては武士として末代までの恥だ!」
家康は敢えて出撃し、敵の背後を突く決意を固めたのでした。

敵は家康の手を全て見通しておりました。徳川勢の進軍ルートを予測し、待ち構えていた武田勢は僅か二時間で相手を打ち負かします。徳川勢も織田からの援軍も甚大な被害を被り、家康は忠実な家臣たちを身代わりにたてながら、なんとか撤退したのでした。
浜松城まで戻った家康は敢えて城門を開け放つ「空城の計」を用い、それを見た相手はそのまま引き揚げた、とも言われています。ちょっと出来過ぎた話のような気もしますが。

同合戦は「三方ヶ原の戦い」と呼ばれ、武田信玄相手に惨敗をした家康ですが、これは家康のキャリアにとって必ずしもマイナスになったとは思えない部分もあります。
「試合に負けて勝負で勝った」とは言い過ぎかもしれませんが、敢えて不利とわかっていても武士としての名誉に賭けて出撃するというその心理は、同じ武士にとって「心にグッと来る」行動ではないでしょうか。

イラスト・富永商太

後年の狸親父というイメージもありながら、関が原の戦いで家康は、加藤清正ら豊臣系大名も取り込んでいるわけで、人の心を掴む要素があったはずです。
それがこうした武士としてプライドを賭けて困難に立ち向かった態度ではないでしょうか。

さて、徳川勢を蹴散らした武田勢は後が続きません。これまたご存知の通り、土壇場になって信玄が病死してしまったのです。
その死はしばし伏せられたままとなりますが、信玄の死による反織田勢力の後退を見逃す信長ではありません。まずは天正元年(1573年)、信長は朝倉義景と浅井長政を滅ぼしたのでした。

勢いに乗る織田・徳川勢は、信玄亡き後の武田勝頼との戦いに挑みます。天正三年(1575年)、長篠・設楽ヶ原の戦い(いわゆる長篠の戦い)で武田勝頼相手に大勝利。まさに最強のコンビともいえる信長と家康ですが、この先には思いも寄らぬ悲劇が待ち受けていたのでした。
関ヶ原まで、あと二十五年。

 

信康切腹事件 理由は諸説あれど心苦しき事件なり

天正年間はまさに世代交代の時代でした。
天正6年(1578年)、武田信玄と争った上杉謙信が急死。後継者をめぐる「御館の乱」が発生します。

長篠の戦いでの損害回復で勝頼も苦しい立場であり、武田と上杉がおとなしくなったその最中、信長の目は西へと向けられます。
この時期は、毛利攻めの羽柴秀吉が活躍していた時期。一方で家康はあくまで東担当であり、西の秀吉に、東の家康という構図が出来上がります。
徳川はこの頃、防備に専念する穏やかな日々となっておりました。

この比較的穏やかな時期の天正6年(1578年)、家康にとって悲劇的な事件が起こるのです。

家康の嫡男・信康の正室は、信長の娘・徳姫でした。彼女が父の信長に対し、信康母子を告発する書状をしたためたというのです。この内容が姑である築山殿との不仲程度ならともかく、二人が武田と通牒しているとあったから、信長としては見逃せません。
信長が徳川からの使者である酒井忠次に問い糾したところ、彼は否定しなかったため、信康は切腹、築山殿の死が決まってしまった、という流れです。

この不可解な悲劇の動機はいろいろな説があり、これだという決定的な証拠はなかなか見いだせていないようです。
ただ、とりあえず、信長が信康の器量を恐れた説は除外してもよいのではないでしょうか。信長にとって徳川は重要なパートナー。その世継ぎが優れていたのならば、それはむしろ歓迎すべきことでしょう。この説は家康がのちに天下を取るというバイアスに基づいたものではないかと思います。

武田勝頼が送り込んだスパイである大賀弥四郎なる者が、徳川家中に深く入り込み、築山殿と信康を手なずけて武田を利する行動を取るように操った、というトロイの木馬のような説もあります。
あるいは武田信玄・義信父子のように、不仲が背景にあるとか。

いずれにせよ、父が子、夫が妻を死なせなければならなかったのですから、痛恨事には間違いありません。
この事件によって、家康の嫡子は事件の翌年に生まれた秀忠となります。

関ヶ原まで、あと二十一年です。

 

バカンス気分が一転! 本能寺の変で命がけの帰国を果たす

天正10年(1582年)、信長は満を持して武田領に侵攻を開始。相次ぐ武田家臣の離反が発生します。
家康は駿河から武田領へ攻め入り、ここでも頼りになるパートナーとして手腕を発揮します。信長は家康の功績に報い、家康は駿河を拝領することになったのでした。

宿敵である武田氏はここで滅び、信長も家康も祝賀ムードであったことでしょう。信長は功労者の家康を本拠地の安土城に呼び、祝おうという流れになります。
ところがこの時、饗応責任者の明智光秀がよりにもよって腐った魚を用意してしまったらしい、ということが問題になります。この時に信長は今でいうガチ切れをして光秀を激しく叱って蹴りを入れてしまったらしいのですが、信長の気持ちも、光秀の気持ちもわからなくもありません。

信長としては、
「今は初夏だし、生ものの魚は腐りやすい。だからこそ、万事ぬかりなくこなす光秀に頼んだわけだろ。それを腐らせるとかありえない失態。しかも長年尽くしてくれた家康相手だぞ。俺の顔に泥を塗りおって!」

光秀としては、
「この生ものが腐りやすい季節に魚から腐った臭いがしたくらいで、蹴りを入れるなんてあまりに横暴だ。家康公は長年のつきあいって言いますけど、私だって長いこと仕えているじゃないですか。この間の甲州攻めでも面罵されましたし」
といったところですね。

家康は場の空気の悪さを感じ取ったと思ったかもしれませんが、まさかこの後、光秀が信長を討つとか思ったわけもありません。

信長の家康への慰労は続きます。
「長年いろいろありがとう。武田も滅びたことだし、一区切りってことで堺見物なんかどう? 茶会も楽しんでゆっくりしていってね」

信長としては安土の腐った魚事件もあることですし、それを補うためにも豪華ツアーを用意するわけです。堺の接待尽くしで、家康も「いろいろあったけど、信長公と長年コンビ組んできてよかったよな」と思ったんではないでしょうか。
この時の信長の家康への対応を見ていると、ビジネスパートナーとして最高です。気遣いのある人だな、と思えます。
ただし、この「信長プロデュース家康お疲れ様ツアー」は最悪の形で幕切れとなるわけですが……。

信長手配の接待尽くしを楽しんでいた家康の元へ、6月2日に凶報が飛び込んできます。
前日、京都の本能寺で信長が光秀によって討たれたというのです。楽しいバカンスが一転、地獄のサバイバルになりました。三番目の「神君三大危難」の開幕です。

凶報に接して、家康は半ば諦めました。
「もう駄目だ。土民の手にかかって無残に死ぬくらいなら、切腹する」
そんな主君を本多忠勝ら家臣が止めます。
「伊賀を越えて、帰りましょう」

そう提案したのは服部半蔵正成でした。忍者の代名詞となった「服部半蔵」ですが、服部半蔵正成自身は忍者ではなく、その父が忍者でした。半蔵正成はこの父の代から家康に仕えていました。

家康は早くから伊賀忍者を活用していたようです。信長は「天正伊賀の乱」で伊賀忍者に弾圧を加えましたが、家康はむしろこの時彼らを保護下に置いたようです。こうした家康の経歴が伊賀越えの時に生かされたことでしょう。

家康とその家臣たちは、少なくない犠牲を払いながらも険しい道を突破。生き延び、本拠地三河にたどり着きます。家康は信長の仇打ちのために光秀討伐に向かうものの、羽柴秀吉が勝利をおさめたと知ると引き返します。

そんな彼の前に、主を失った武田遺領が横たわっていました。
関ヶ原まで、あと十八年です。

忍者・服部半蔵、実際は武士! 家康に仕えた忠臣は優しさの人だった

 

旧武田領を巡る争い 表裏比興の真田が立ちはだかる

旧武田は恐ろしくカオスな状態になっておりました。
主君を失った武田家臣や国衆が一揆を起こし、領内にとどまる織田系武将に牙を剥いていたのです。この土地を越後の上杉、相模の北条、そして三河の徳川が見逃すわけもありません。

甲斐・信濃・上野は三者が火花を散らす場となったのです。ただし、上杉景勝は新発田重家の反乱が起こっていたこともあり、積極介入しにくい状況でした。

この混乱の中、旧武田家臣である真田昌幸が活躍します。
状況を見て、つく相手を替える昌幸は、この「天正壬午の乱」の鍵を握る存在でした。

家康ははじめ北条相手に苦戦をするのですが、当初は北条方だった昌幸を味方につけたあたりから、状況が好転します。徳川と北条は同盟を結び、ひとまず乱は終わるかに見えたのですが、予想外の事態が起こります。
この和睦交渉で、北条氏政は上野国沼田領を要求。家康は昌幸に引き渡しを求めたのです。

「だが断る。沼田領は徳川から与えられた領土ではない」
昌幸としてはせっかく味方したのに沼田を求めるとは、家康に恩を仇で返されたようで腹が立ったとは思います。そうとはいえ、家康としてはまさか断られるとは思ってもいなかったでしょう。

真田昌幸/wikipediaより引用

天正13年(1585年)、家康は真田討伐のために家臣を出兵、第一次真田合戦が起こります。家康としては生意気な国衆をひねり潰すくらいの気持ちだったかもしれません。国衆と大名ではまず戦いにならないのが普通です。
ところが真田は普通ではない。
家康は圧倒的少数の相手に対して、手痛い敗北を被ったのでした。しかも昌幸が徳川方を撃退した上田城は、昌幸が家康配下であったときに、家康の許可を得て建てたものです。まさに屈辱的な敗北でした。

このあとも真田一族は、家康の人生の転換点において、あまりありがたくない形で顔を出します。

それにしてもこの天正壬午の乱というのは、重大な戦いであり、錚々たる大名が絡んでいるにも関わらず、注目を集めにくいような気がします。
本能寺で信長が倒れると、注目は華々しく仇打ちを遂げる秀吉に集まってしまうということもあるでしょう。戦いの最後で真田に大敗し、味噌を付けてしまったため、というのもあるのでしょう。

しかしこの乱で家康は、しっかりと自分なりの天下餅をこねているのです。
思うように介入できなかった上杉、どうにも精彩を欠いているように思える北条に対して、家康は確実に旧武田領を獲得し、新たなる天下人たる秀吉も無視できない存在になったのです。

 

秀吉との対決 そして豊臣政権へ

天正10年(1582年)、信長が倒れ、家康が旧武田領で激しい死闘を繰り広げている頃。
畿内は空白状態になりました。

信長の後継者たちは狼狽し、光秀を討とうにも、まるで動きが止まったような状況です。
そんな中、毛利攻めに赴いていた秀吉は、敵と素早い講和を結ぶと、電撃的な中国大返しで駆け戻り、山崎の戦いで光秀を打ち破ったのでした。

信長の死から一月ほどのち、清洲会議において信長と共に討ち死にした嫡男・織田信忠の遺児・三法師を織田家後継者とし、その叔父である信孝と信雄を後見とすることが決定されます。
しかしこの決定後も、信孝と信雄の確執は続きます。
信孝は柴田勝家、信雄は秀吉と結び、信長の家臣団をも巻き込む争いに発展。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いとなり、勝家が敗北、自刃します。同様に信孝も切腹へと追い込まれました。

勝った側の信雄ではありますが、この頃から秀吉との仲が悪化。信雄は家康に接近します。記述が前後しますが、この要請は第一次上田合戦の前です。
家康と秀吉はついに天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで対決することになります。

この戦いは、家康にとって「勝負に勝って試合に負けた」と言えるのではないでしょうか。
数で劣る家康・信雄連合軍は最終的に講和を結び、家康は次男・於義丸(のちの秀康)を人質として秀吉に送っています。とはいえ、長久手方面において徳川勢は敵を圧倒しました。徳川四天王※1・井伊直政や家康のイトコである水野勝成の活躍によって森長可、池田恒興を討ち取り、羽柴秀次が率いていた本隊を壊滅状態に追い込んだのです。
森長可の首は、戦場からさほど離れていない菩提寺まで運ばれる途中、敵の目をかいくぐって進むことを断念して埋葬されたと伝わります。長可ほどの名だたる武将がそのような目にあわねばならなかったほど、徳川勢は強く、綿密な警戒をしていたのでしょう。

講和後、家康と秀吉の間では戦いには至らないものの、和解もしない、冷戦状態が続くことになります。
そんな中、衝撃的な事件が起こります。
天正13年(1585年)、長年仕えてきた石川数正が突如秀吉の元へと出奔してしまったのです。

数正は、駿府での人質時代から苦楽をともにしてきた家臣です。
しかも彼は軍事機密情報を握っていたわけですから、それがすべて敵の手の内に渡るということです。
彼の出奔は、これだけ重要な事件であるにも関わらず、動機はハッキリしません。秀吉との対決を唱える強硬派に対して、数正は和平派。秀吉との交渉に疲れてきたのか、向こうの方がよいのではと思えてきたのでしょうか。

いずれにせよこの出奔によって家康は軍制改革をしなければならなくなります。
このとき力になったのが、旧武田家臣たちでした。

武田軍制を取り入れた甲州流軍学が築城術に変わった理由

天正14年(1586年)になると、秀吉は懐柔策を取って家康に接近してきます。実妹・朝日姫を家康に正室として迎えさせ、さらに人質として生母・大政所をも送ってきたのです。
こうなると家康も、流石に秀吉からの上洛要請を断り切れなくなります。
仕方なく上洛したような形かと思われますが、家康にとってはなかなか美味しい話でもありました。この時期に朝廷から「三位中将」に叙任されているのです。家康にとってはかなり嬉しい叙任ではありますが、「従一位関白」である秀吉と同席したらば下位に置かれるということでもあります。

それでも損と得を天秤にかければ、大きな魅力が官位にはありました。
秀吉としては手強い家康をついに屈服させたのです。官位授与の効果は抜群で、これに抵抗できる大名はいません。

この時期、家康は藤原から源氏に改姓しています。家康はもともと源氏にしたいと願っていましたが、その動機は将来的に「征夷大将軍」を希望していたからでした。
のちの歴史を考えると家康はこの頃から将軍としての天下を狙い、着々と動いているようにも思えますが、公家の頂点を極めた関白秀吉からすれば、せいぜい「征夷大将軍=東国武士の抑え」と解釈できるのではないでしょうか。

事実、家康は今後東国武士の抑え、代表のような役割を果たします。
関ヶ原まで、あと十二年です。

※1……徳川四天王(本多忠勝・榊原康政井伊直政酒井忠次の4名)
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北条氏滅亡を受け、小田原ではなく江戸へ移封

小牧・長久手の戦いから数年間、秀吉が九州を征圧する間、豊臣政権下で家康とその家臣たちは一息つく日々を送ることになります。
若い頃から戦場を駆け巡ってきた彼らにとって安息の日々でした。

こう書くとまるで家康がのんびりと餅つきを横で見ていたようですが、もちろんそうではありません。領内の整備といった内政や検地、さらには関東や奥羽の大名との外交も行っていました。

九州まで征圧した秀吉の目は、関東・奥羽に向けられます。
奥羽の大名は、鎌倉以来の名門であることを誇りとし、また貴族である関白に恭順することに抵抗を示す者もいました。一方では、今権威を味方につければ一発逆転ができるとばかりに、いち早く秀吉に認められようとする者もいました。

そして関東には、北条家がありました。
北条家には難攻不落の小田原城、南奥を制した若き独眼竜・伊達政宗との同盟関係、そして姻戚関係にある徳川家康という、頼りになるものがあります。
家康としては、秀吉に服従以来同盟は破棄されたようなものであり、家康自身も北条氏政・氏直父子に服従するよう迫っていたのです。
しかし相手は応じません。

北条家周辺をめぐる関東は、導火線のない火薬のような状況におちいっていました。
そこへ導火線を差し込む男が登場します。
あの真田昌幸です。

第一次上田合戦の原因となった沼田領問題は、真田方の勝利によって宙に浮いていました。家康の訴えを聞いた秀吉は、昌幸に沼田領を北条へ引き渡すように命じたのですが、ここで昌幸が沼田領の名胡桃領だけは真田のものとして認めさせたのです。
北条からすれば沼田の中の名胡桃だけ残すというのもおかしな話で、強硬奪取していまいました。

もはや問題は、北条と真田のものだけではない状況。秀吉が命じた分割案である以上、北条は秀吉に背いたことになったのです。
名胡桃という小さな導火線に火が付き、北条家を吹き飛ばす小田原攻めが開戦するのでした。

圧倒的な戦力差にも関わらず、北条方は望みを捨てませんでした。家康が北条を救う手段を講じるかもしれない、陸奥から伊達政宗が来援するかもしれない……しかしどちらも起こりません。
やがて政宗は秀吉の本陣に訪れ帰順。万策尽きた北条氏は降伏して難攻不落の小田原城を明け渡し、滅亡を迎えたのでした。

家康は北条滅亡を受けて、関東へ移封されます。
しかし家康は北条氏の本拠ではなく江戸を首府として選び、整備を進めえます。現代でも首都東京として発展しているだけに、地理的には申し分のない選択であったと言えます。周期的に地震が発生することはこの時点ではわからなかったことですし。

こうしてみると、家康は秀吉がこねた餅を食べるのを待っていたというより、東日本で餅をこねていたと言えるのではないでしょうか。
関ヶ原まで、あと十年です。

小田原征伐をスッキリ解説! 北条家が強気でいられた小田原城はどんだけ強かった?

 

豊臣政権内の人格者・家康に頼る武将たち

改めて振り返ってみると、小田原落城から関ヶ原まで十年しかありません。
その間、全国平定を終えた秀吉の野心は、海外へと向けられました。

文禄・慶長の役です。

この海外への遠征は秀吉だけの考えではなく、信長もその志向があったようです。ただし、明や朝鮮と通商するにとどまるものかもしれませんが。
ハッキリしているのは、秀吉の中でこの海外への野望は危険きわまりない大陸征服を目的としたものになりました。この時代の合戦は他の領土に攻め込み、資源を掠奪する経済活動という面がありましたから、国を富ませるためならば必要という意識もあった可能性があります。

家康はこの出兵に反対の立場であり、前田利家と連名して諫書を秀吉に送りました。
立場としては留守役であり、渡海せずに名護屋に留まります。後の秀吉没後は朝鮮半島からの撤退指揮、朝鮮からの使節との会見等、この出兵をおさめる働きをしています。

忘れてならないのが、この戦で石田三成が加藤清正らから反発を受けたことでしょう。また小早川秀秋は戦場での不手際を秀吉から厳しく責められ、家康によって取りなしを受けました。
多くの者が疲弊した中で、家康は存在感を示し、人望を上げることになっていたのです。

イラスト・富永商太

更に、朝鮮出兵の出兵で暗いムードの豊臣政権において、世間に衝撃を与える大事件が起こりました。
文禄2年(1593年)、秀吉に第二子・拾丸が誕生。その二年後の文禄4年(1595年)、秀吉の後継者とみなされていた関白・豊臣秀次が切腹したのです。
強要されてのものなのか。追い詰められて突発的に自害に及んだのか。諸説ありますが、確かなのはこの事件が豊臣政権に大きな打撃を与えたことです。

秀次の死後、秀吉はその妻妾三十余人を処刑する――という愚挙に及ぶのです。

戦国一悲運の美女・駒姫 顔すら見たことない夫・豊臣秀次の連座で処刑される

ピンチに陥ったのは妻子だけではありません。
秀次と親しかった大名たちも謀叛の嫌疑をかけられ、窮地に陥ります。例えばその中には伊達政宗もおり、彼らに手をさしのべ、弁護したのが家康でした。

かような無茶無謀が繰り返されていく豊臣政権のもとで、大名たちは不満をため込んでいきます。しかしそのはけ口はぶつけようにもない。
そうした大名たちにとって、家康は心のよりどころになってゆくのです。

そして慶長3年(1598年)、秀吉が死亡。残されたのは僅か六歳の秀頼でした。
不満の貯まった歴戦のツワモノ大名たちを押さえ込める器量もくそもない幼齢です。

関ヶ原まで、いよいよあと二年。

 

三成襲撃事件を機に政治的勝利を手中に収める

秀吉は幼い我が子に天下を残すにあたって、無策であったわけではありません。
本能寺の変で横死した信長とは違い、彼には対策を練る時間は多少なりともありました。

秀吉はその死に際して、前田利家に後見を託すとともに、家康に政治を任せるとともに秀頼の保護と頼みました。秀頼の妻に家康の孫娘・千姫を嫁がせ、末永く豊臣と徳川が和して天下を治めるよう願いを託したのです。
後世の結果を知っていると、猫に鰹節の番を頼んだような気がしますが、それだけ家康は信頼出来る性格だと秀吉に思われていたのでしょう。

秀吉の死後、家康は早々に嫡子・秀忠を江戸に戻します。
これから起こる動乱の中で、信長・信忠父子のように揃って命を落としてはならないと判断したのでしょう。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

家康は政権を任されると、まずは朝鮮半島からの撤退に尽力。そして秀吉の死の翌慶長4年(1599年)正月、家康の居城がある伏見と秀頼がいる大坂において騒ぎが起こります。
ことの起こりは、家康の親族が有力大名である伊達、福島、蜂須賀の三家と婚約を結んでいたのが発覚したことでした。
当時の結婚は同盟を意味します。秀吉は生前、勝手に大名同士が婚約する「私婚」を禁じていたのです。
それを破ったのですから、糾問使が伏見の家康の元へと向かいました。

しかし家康は、天下に異心を抱いてなどいない、これは言いがかりだ、誰が自分を讒言しているのかと手強い反撃に出ます。さらには家康暗殺計画があるとの噂が立つと、大坂方の大名たちは続々と伏見の家康の元へ参集し、警護をかって出ます。この中には大谷吉継、加藤清正、黒田如水ら、秀吉に恩顧のある者も含まれていました。

同事件が第一ラウンドであるならば、第二ラウンドは前田利家死後の閏三月に起こります。利家が亡くなるやいなや、翌日には加藤清正福島正則、浅野幸長、蜂須賀家政、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興の七将が石田三成を襲撃したのです。
背景には朝鮮出兵地の現地武将と国内にとどまった秀吉の間での葛藤がありました。
三成は武将の現地での働きを報告したに過ぎないのですが、報告された側としては「不利になるようなことを報告した」、いわば「チクり」への怒りが鬱積していたのです。

このとき三成は、家康の元へ逃げ込んだという説が長いこと信じられてきました。映画『関ヶ原』原作でもこの設定であり、その場面があるとしたら見所になるのではないでしょうか。
ところが近年の研究で、三成は自邸に逃げ込んだことが判明しております。
のちに三成が家康次男・結城秀康の護衛で佐和山城まで送り届けたことから、誤解が生じたようです。

三成は出るに出られない、七将も踏み込むに踏み込めない。そんな膠着状態に仲裁をかって出たのが家康です。
家康としては三成を排除する絶好の機会ではありますが、七将のような乱暴な武力行使を求めるわけにはいきません。
七将は武装解除し大坂に戻り、三成は居城佐和山城への謹慎が決まりました。

関ヶ原まであと一年、この時点で家康は政治的勝利をおさめつつありました。

 

家康とて、とてもコントロールできない、関ヶ原

慶長5年(1600年)、五大老の一人である上杉景勝に謀叛の疑いがあるとの噂が広まりました。
家康は景勝に対して上洛を求めるものの、上杉家執政・直江兼続はこれを拒否。このときの返書が「直江状」とされています。

家康はこの回答を受け、会津征討を決意します。上方を離れるとなれば何かが起こる。それは当然、予測していたでしょう。
6月16日、家康は伏見城の留守役・鳥居元忠と酒宴を開き、覚悟を固めて会津へと旅立ちます。

家康はあくまで、秀頼を守るため、豊臣政権に害を為す者を討伐するという名目で行動しておりました。
家康が天下を取るためのものではなく、表向きはあくまで豊臣政権内部での抗争ということです。家康に味方するものを東軍として反豊臣系であるとみなすと、状況が単純化されすぎますので、注意が必要です。

家康が不在となった上方では、謹慎中の石田三成が行動を起こしました。
大坂の三奉行や淀殿ははじめ、三成の行動には同意していません。彼らは慌て、家康に上方へ引き返すよう連絡しています。しかしその風向きが徐々に変わり、彼らは考えを変えてゆきます。
7月17日、大坂の三奉行から家康への糾弾状が出され、秀頼への忠義のために集結せよと全国の大名に対して呼びかけたのです。

一方東国では、7月25日、小山評定が行われました。このとき家康は、大坂三奉行が出した糾弾状をまだ知らなかったようです。
「大坂の奉行も淀殿もあやしい動きに困っているのだな」という段階であり、「大坂の奉行も淀殿も家康を糾弾している」と認識していたわけではない、ということです。
家康はここで評定を終えると、江戸に入りました。

フィクション作品では、家康が三成の挙兵を予測していて、その情報が入ると「計算通り(ニヤリ)」とほくそ笑む……なんて設定も見かけますが、コトはそう単純ではありません。
留守にすれば何かが起こる、でも具体的にどう起こるかまではコントロールできていない、そんな状況。三成の単独行動ならともかく、淀殿が背後にいる三奉行まで動いたとなると予断を許しません。
家康は江戸で作戦を練りました。

 

「君たちヤル気ないよねwww」の一言で福島正則、岐阜城へ爆進!

家康がなかなか動かない。これに対して苛立っていたのが、清洲城に待機している福島正則ら豊臣系武将でした。
家康はここで手を打ちます。腹心を送り、こう挑発したのです。

「おのおのの手出しなく候ゆえ御出馬なく候、手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」
君らがやる気なくて何もしないから、俺としては出て行けないんだよね。君らがやる気見せたらこっちもやるけどね、という完全な煽りです。

家康としてはやる気を試したつもりなのでしょう。
「人たらし」といえば秀吉というイメージがありますが、この言動を見ていると家康もまた人の心理を操り、やる気を出させる心理の達人という気がしてきます。

「はぁ? 俺らやる気満ちあふれているし! そんだけ言うなら見て下さいよ、俺らの闘魂見せてやるぜ」
正則らのやる気は家康の想像すら越えて、たった半日という猛スピードで岐阜城を落としました。
岐阜城は西軍の最前線であり、かの信長が築いた立派で堅固な城です。あの坂道を登るだけで運動不足の現代人なら息が切れます。

その城を、要の城を、たった半日で落としたわけです(詳細は→岐阜城の戦い)。正則らはさらに勢いを増し、西へと向かいます。

家康としてはこの状況は「これだけやる気があって高い火力を持つ連中が揃っているぞ!」と頼もしく思う反面、「これだけ強いと自分や息子の出番がないかもしれん」とコントロールできない危険性をも感じることにもなりました。家康抜きで勝利しては困るため、家康は9月1日に江戸を立つと、大急ぎで西へ向かうことになったのでした。

家康本人はスピードアップに成功したものの、別働隊を率いる秀忠はそううまくはいきませんでした。
秀忠隊は真田昌幸・信繁父子が立てこもる西軍の要所・上田城を攻撃、抵抗の激しさから一端撤兵します(第二次上田合戦)。そして今後の状況を協議している中での9月9日、増水の影響で遅れていた家康からの使者が到着しました。
結果的に、秀忠隊は堅い守りを見せた真田勢の奮戦、使者到着の遅延、いくつかの不運が重なり、関ヶ原本戦に間に合いません。

この秀忠隊は徳川家臣団でも精鋭揃いで、実のところ主力部隊だったのです。

福島正則ら豊臣系武将の予想以上の奮戦、主力部隊である秀忠隊の不在と、想定外の事態が起きながら、9月14日までに家康は、大垣城付近にまで至ります。大垣城を水攻めし、かつ三成居城である佐和山城を攻めるという複合作戦が当初の計画でした。

 

毛利隊は動かず 小早川隊も動かず 予断を許さぬ状況で

これに対して三成ら西軍は、この作戦を阻止するため大垣城を出て、関ヶ原へと敵をおびき出します。
9月15日。まだ夜も明けない頃から両軍ともに動きだし、布陣を固めます。

この布陣を見てドイツの戦術家が「この布陣ならば西軍が勝つ」と述べた、という話もありますが、事実ではないようです。そもそもこの状況ならば、西軍が戦場の選定をして東軍をおびき出しているわけで、それならば有利な布陣ができるのも自然かと思います。

この日、この時、これだけの人数が、これだけの諸侯によって集められ、ぶつかりあったということは驚異的です。日本史においてだけではなく、当時世界的に見ても、これだけの軍勢が動員され動くということは稀であったことでしょう。

両軍あわせて十五万の戦いは、午前七時頃から動き始めます。
盆地であった関ヶ原は前日からの雨の影響で、霧が濃くたちこめていました。
その霧の中、戦いの幕は切って落とされます。

一番槍は井伊直政でした。秀忠隊が到着しない中で、東軍は徳川勢の影が薄いという状況でした。
抜け駆けは重大な違法行為と認識しながら、しかも家康の四男・忠吉に初陣の空気を教えるためと苦しい言い訳をしながら、直政が敢えてこの行動に出たのは、何としても徳川勢が手柄を立てねばならないと認識していたからかもしれません。

東軍は猛攻を加えるものの、あの三成とて無策ではありません。大砲を用いて応戦し、敵をひるませます。

午前十時になると霧も晴れ、視界も晴れて来ました。三成は松尾山に陣取る小早川秀秋隊、南宮山の毛利秀元隊に向けて狼煙をあげ、攻撃を促します。
小早川隊の布陣した松尾山は攻撃するには絶好の場所であり、ここに主力部隊を入れるように三成は整備をすすめていました。秀秋がここに布陣することは三成としても不本意でした。秀秋は伏見城攻撃以外消極的で、どこか動きに不審なところが見られたのです。そういうグレーな人物を要所に置くというのは危険でした。

かといって家康としても秀秋を信じていたわけではありません。
両軍にとって秀秋は不審であり要注意人物でした。

それでは秀秋は、松尾山で両軍どちらにつくか天秤にかけていたとか、迷っていたとか、そういう単純なものでもないようです。東西両軍があまりに激しくぶつかりあうため、どちらに味方すればよいのか。見極めが難しい状況なのでした。

では南宮山の毛利隊はどうか。毛利隊の先鋒を任されていた吉川広家・福原広俊が、黒田長政経由で家康との間に、「攻撃に参加しないかわりに、毛利に厳しい処分はくださない」との密約を交わしていたのです。毛利隊は吉川と福原が止めるため動けず、その後ろに布陣している長宗我部盛親、長束正家も動けません。
長宗我部らの度重なる出陣要請に、広家は「弁当を食べているため」とあまりに苦しい言い訳をしたため、これがのちに「毛利の空弁当」という不名誉な逸話として残されてしまったのでした。

西軍は数こそ多いものの、事前の家康による政治工作によって動きを封じられていました。とはいえ、武装した大軍が敵として家康を囲むように布陣している状況には変わりません。どこかで誰かが心変わりして家康を攻めれば形成は逆転します。

もはや限界。家康は勝利のためにどこかでスイッチを押さねばならない。その時間的な余裕はありません。
家康はついに小早川隊へ向けて鉄砲を撃ち、出撃を促します。

これを受け正午前後、小早川隊は大谷隊へ攻撃を仕掛けます。さらに内応の約があった脇坂安治・朽木元網・小川佑忠・赤座直保の四隊も寝返り、大谷隊に襲いかかります。
それまで持ちこたえていた西軍は崩れ、最後まで踏ん張っていた石田三成隊も破れ去りました。
三成は落ち延び、のちに捕縛、処刑されることとなるのでした。

かくして関ヶ原の戦いは終わります。
たった半日で勝負がついたことから、また大河ドラマであまりに端折られることから、最近は何故かあっさり決着がついたかのよう思われがちですが、そういうものでもありません。
いろいろな人にとって予想外の結果でした。
敗れた側の石田三成も、何度も家康の裏をかく戦略戦術を見せ付けており、まさに日本史上に残る頂上決戦にふさわしい、知略と武勇の衝突だったと言えるでしょう。

 

徳川と豊臣 ふたつの公儀が存在する矛盾

関ヶ原の勝利は、あくまで家康という豊臣政権の家臣が「君側の奸」である石田三成らを成敗したものでした。
このあとも家康は淀殿・秀頼母子には臣下の礼を取っています。家康は関ヶ原の論功行賞を行い、諸侯の加増や減封を行いますが、あくまで秀頼の家臣として実施した、というかたちになります。

三年後の慶長8年(1603年)、家康は将軍宣下を受けました。官位は従一位となります。
そしてその二年後、慶長10年(1605年)には将軍の座を嫡子・秀忠に譲ります。戦国三英傑の中で唯一にして初めて、存命中にスムーズな権力移譲(将軍職)を実行したのが家康なのでした。
この時点から豊臣家滅亡まで、あと十年です。

家康が着々と徳川幕藩体制を整える中、問題となってきたのが西の豊臣秀頼でした。
家康が将軍に任官される過程において、打倒したのはあくまで石田三成であり、豊臣秀頼ではありません。つまり、徳川幕府が成立しても依然として西には豊臣氏の政権もあった。いわば東西にふたつの公儀がある状況です。
家康は豊臣のこねた餅を座ったまま食べたというよりも、別の餅をこねた状況でした。

この東西二つに公儀がある状況は、当初は安定しておりました。
それをどこで家康が方針を転換したのか、何故そう思ったのか。これは状況から推理するべきでしょう。

家康は、信長が手に仕掛けていた天下を秀吉が奪う様を見ました。豊臣の天下を骨抜きにする過程を自ら企て、実行にうつしました。
天下を奪う手口を誰よりも知っているのが家康です。天下を取ることは難しい、そしてそれを維持することはそれに輪を掛けて難しい。自らの存命中に豊臣の天下を潰さねば、徳川の安泰はないのではないか。武家棟梁としての経験の浅い秀忠には荷が重いのではないか。
かといって、すぐにでも大坂への軍事行動が起こせるとも思えない状況です。

慶長16年(1611年)、二条城で家康と秀頼は会見を果たします。立派に成長した秀頼の傍らには、ぴったりと加藤清正がついていました。
問題は、青年となった秀頼よりも清正です。
彼ら豊臣系の武将が健在であるうちは、秀頼相手に軍事行動を起こすことは難しいのではないでしょうか。

懸念は豊臣だけではありません。毛利、島津、上杉、佐竹ら、関ヶ原後に大規模減封された外様大名も、徳川に不満を抱いています。もし、もう一度、関ヶ原前夜のように天下が乱れたら、彼らも呼応するでしょう。その時果たして、秀忠は天下を守りきれるのでしょうか。

しかしその清正は会見の二ヶ月後に急死。さらにその二年後には、清正と並ぶ豊臣系の有力武将・浅野幸長も世を去ります。
状況は変わりつつありました。
火薬はあります。あとは導火線に火が付くのを待つだけです。付くか付かないか、大坂方次第でした。

 

方広寺大仏殿鐘銘事件から、大坂冬の陣へ

大坂の陣の引き金となった「方広寺大仏殿鐘銘事件」。
慶長19年(1614年)、秀頼が再建をすすめていた方広寺大仏殿が完成し、そこの鐘に刻まれた文字が問題となります。

「国家安康 君臣豊楽」

家康の諱を切断し、豊臣が栄えるように読める……家康が無理矢理ケチをつけたとか、挑発したとかいろいろと言われています。
しかしこれは、こじつけというより、豊臣方の依頼で銘文を考えた僧・清韓が狙って入れた文言であり、むしろ大坂方の悪ノリが根底にありました。インターネットに挑発的な文言を書き込むことを「炎上狙い」と呼びますが、これぞまさに大坂城まで炎上させる結果となった、歴史上に残る「炎上狙い」ではないでしょうか。

にしてもそこまでやるか、と家康の対応を批判的に見る向きもあるかと思います。
このあたりは、当時の人の諱へのタブー感や、呪詛への忌避感を考慮しなければいけないでしょう。言葉に対する重みは、現代よりもずっと憚れるものがあり、家康のクレームも決して荒唐無稽とは言い難いのです。

家康はこの事件を端緒として、ついに人生においてやり残した最後の仕事に着手します。
秋から冬にかけて、いよいよ「大坂冬の陣」を始めるのです。

家康は行軍のあいまに、京都や奈良で古典調査や寺社仏閣見物をする余裕を見せました。幼い頃、太原雪斎の薫陶を受けたという家康は、古典や書籍に親しむ知性の持ち主でもありました。
老境であり、かつ郡中というときにあっても、家康は知的好奇心を満たすべく行動をしています。
いやはや、何とも驚嘆すべきタフネスです。

一方、大坂城には続々と牢人が集まっていました。
その中には、真田信繁(真田幸村)、後藤又兵衛基次ら、手練れの者も含まれていました。

これもよくよく考えてみればなかなか恐ろしいことだと思います。当時の日本には、彼らのような従軍経験があり、腕の立つ者が、そのあたりに仕官もせずいて、ひとたび何かが起これば集まってくるのです。牢人は平時においては、潜在的に危険な存在と言えます。関ヶ原が終わって十五年も経つのに、日本各地から戦争のエキスパート、不満を持つ者たち、武器、軍資金が大坂に集まるのです。
この時点では乱世に時が戻る可能性があったということでしょう。

真田信繁は「真田丸」と呼ばれる出城・曲輪を築き、敵を苦しめます。
真田丸での奮戦のような戦術上のファインプレーがあったとはいえ、戦略的には終始攻め手が勝っていました。
大坂方の果敢さと守りの堅さに手を焼いた家康は、オランダ製の大砲を持ち出します。
ヨーロッパの城郭と違い、日本の城郭は砲撃に対して無力でした。砲弾は淀殿の侍女を圧死させ、彼女とその周辺の者たちに大きな心理的打撃を与えました。

この大坂の陣は、戦国の世に幕を引くものです。装備の面でも集大成でした。
鉄砲の装備率も各軍ともに高く、オランダ製の大砲までありました。もし戦国の世が続いていたとしたら、どんな兵器や戦法が日本で使用されたか想像すると、なかなか興味深いものがあります。

砲撃で心理的有利にたった徳川方は、和睦交渉を行います。
このとき徳川方は外堀だけを埋める条件のはずが、勝手に内堀まで埋めてしまった、卑怯だ、とよく言われています。
しかし、工事内容が非常に大がかりなものであり、騙してそんなことができたわけではありません。
そもそも和睦の条件なのですから、城として防御力を低くするのは当然です。内堀まで勝手に埋めた、というのはこのあと「夏の陣」が起こるとわかっている、歴史の結果を知った者による誇張や創作ではないでしょうか。
したがって、最近では「家康が騙し討ちのように勝手に内堀を埋めた!」という話は否定されています。

 

大坂夏の陣と豊臣家の最期 そして家康、死す

いったんは和睦を受け入れた豊臣家。
徳川から出された条件のうち「大坂城を退去し、他の領地に移ること」だけはどうしても飲めませんでした。

家康としては、豊臣家が大坂城から出たら、知行も減らすことなく好きな土地を与えると約束していたのです。
天下を担う家ではなく、ただの一大名になればよいということなのですが、これを豊臣家としては受け入れることができなかったのです。とはいえ、家康としては、一応助け船を出した、とも言えるのではないでしょうか。ここまで好条件を出しても拒むというなら、もはや手切れということです。

4月には交渉は決裂し、再戦はやむを得ない状況に。4月も終わる頃から、大坂方は出撃を開始します。

しかし、既に大坂城は防衛機能を失っていました。大坂方には城を出撃する案もあったようですが、結局は城の南で決戦を挑むことになりました。

5月6日までの戦闘で大坂方は追い詰められ、7日、両軍は天王寺口で激突。
ここまで圧倒的不利である中、大坂方は善戦しました。もはやこれまでだと追い詰めた彼らは、最後の武士としての花道を飾るべく、猛烈な攻撃を仕掛けました。
中でも天王寺の口の戦いにおける毛利勝永と真田信繁は驚異的な戦いぶりを見せました。家康本陣まで乱れたほどの猛攻は、伝説的な武勇として歴史に刻まれたのです。
善戦はあったとはいえ、大坂方は徐々に押されて城内へ撤退しました。徳川方は三の丸にまで迫ります。

7日深夜、大坂城内にいた叛逆者が城に放火。徳川方はこれに乗じてさらに火を放ち、大坂城は炎に包まれます。
淀殿・秀頼母子は秀頼の正室で家康の孫にあたる千姫を逃し、彼女による助命嘆願に一縷の望みを繋ぎます。千姫は無事に脱出したものの、秀忠は彼女が自害しなかったことを激怒し、助命嘆願を一蹴したのでした。

このあと、山里郭の土蔵で火を避けていた淀殿・秀頼母子に、土蔵を警護していた徳川方から銃弾が浴びせかけられます。
自害を促す無言の回答――。三十名あまりの供とともに、母子は自害、土蔵には火がかけられたのでした。5月8日、正午頃のことでした。

僅か十日ほどで、終わりを迎えた大坂夏の陣。その後も家康にはやるべきことがありました。
幕藩体制の基礎となる『武家諸法度』、朝廷に対する『禁中並公家諸法度』、寺院に対する『寺院諸法度』等を制定。
その翌年の元和二年(1616年)一月、家康は鷹狩りの最中に倒れてしまいます。

「天ぷらを食べて死んだ」というのはよく言われていることですが、年齢と長年の労苦を考えてみれば、食あたりはあくまで引き金であって、死因ではないでしょう。むしろ死の前年まで出陣できた壮健さが驚異的なのであり、日頃から健康に留意していたことがうかがえます。
それからおよそ三ヶ月後の4月17日、家康は駿府にて七十五年の生涯を終えました。
辞世は以下の通りです。

◆先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う

乱世に生まれ、生き抜き、そしてそんな時代に終止符を打った英雄の最期でした。

 

「ピースメーカー」としての徳川家康、その再評価

いきなり話が四世紀も飛ぶことをお許しください。
筆者が徳川家康の偉大さを認識したのは、日本の裏側であり、かつ家康の生きた時代から四世紀も隔たった、メキシコにおける麻薬戦争について考えていた時でした。

2006年から始まったこの内戦状態は、十年以上を経ても終息の気配がありません。
麻薬を売買するギャングの跳梁跋扈によって乱れに乱れきったメキシコ。
メキシコ人の国民性に結びつけた論調もありますが、私はそうは思いません。

・政府の無力化
・勢力同士の小競り合いが常時発生している
・市民レベルまで私刑や暴力による解決が根付いている
・全国に流通する武器
・経済活動として横行する掠奪

こういった要素は、応仁の乱以降の戦国時代にも共通するものがあります。
戦国時代の人々は中世だからこそ残酷である、というのは半分正解で、半分そうではないのでしょう。たとえ現代であろうとも、こうした不幸な要素が揃えば、人は暴力で解決しあう無法状態に陥ってしまうのです。

自分がメキシコ大統領であるとして、この戦争をどう終わらせるか。
そう考えただけで気が遠くなります。麻薬を焼き捨て、マフィアを殲滅し、武器を回収する。それだけでもどれだけの年数と労力がかかることでしょうか。

とかく厄介なのは、人の心の問題です。
麻薬戦争の開始から十年を経て、人の心や意識も変化しました。最も深刻なのは、物心ついたころから戦争状態にある子供たちです。

「大きくなったら麻薬を売りさばいて金持ちになって、ミスコン優勝者の美女を侍らせて、サツどもはぶちのめす」

こういう像が成功イメージとして彼らには植え付けられているわけです。「そんな道を歩んではいけないよ」と大人が言ったところで、どれほどの説得力があるのでしょうか。

家康が生まれ、生き抜いた戦国時代は、まさにこのように生まれた時から暴力にさらされ、解決手段として用いられ、いかにして効率的に暴力を行使するかが求められた時代でした。家康はこうした人の心を変えるところまで為さねばなりませんでした。

大坂の陣の頃には、若い武士たちは戦い方がわからなくなっていました。寛永14年(1637)の島原の乱ではほとんどの武士が戦い方を忘れていました。
このことは堕落であるかのように思われますが、むしろ人の意識が正常化していったあかしとも言えます。
あれだけ日本全国にあふれていた鉄砲は、戦闘ではなく狩猟に使われるものとなりました。武士は腰に刀を差していたものの、不用意に抜いたらば厳しい処分が待ち受けていました。

暴力が当たり前であった日本人は、江戸期を通じて変貌を遂げるのです。

もちろんこうした過程は、家康一人の力では為すことができません。豊臣時代からの惣無事や刀狩りといった政策も非武装化の流れでは重要ですし、秀忠や家光の代まで試行錯誤は続きます。
それでもこの太平の世への転換に最も大きな役割を果たしたのは家康でしょう。

冒頭の国内外での家康評価の差を考えてみると、日本人は天下取りの過程を重視するのに対して、海外の場合は太平の世をもたらし、維持したという点を重視しているのでしょう。

家康と同時代前後一世紀には、スペインのフェリペ二世、イギリスのエリザベス一世、ムガル帝国のアクバル、フランスのルイ14世、清の康煕帝、ロシアのピョートル大帝といった、その国の近代政治を確立した錚々たる君主が名を連ねています。この面々に家康が加わることができるのもまさしく、政権の基礎を築き維持することができたからこそです。

しかし、日本国内では反対です。
江戸幕府が日本を支配し、それが二百六十年という長さにわたって続いたがゆえに、各時代の歴史家は家康の像をその時代にあわせて描きました。
「徳川史観」にせよ、「アンチ徳川史観」にせよ、どうしてもフィルターがかかってしまうのです。フィルターを除去することももちろん大切ですが、世界史から家康像を眺めてみると、このフィルターがそもそもかかっていない状態で見ることができるわけです。

時代が変わり、現代の国家は武力闘争で天下を争うようなことはなく、むしろ軍事力による政権奪取は禁じ手になりました。
家康の天下を奪取する手段というのは、もはや現代政治においては参考にはできないものです。
しかし、内戦状態の国家を安定させ、人心から暴力を遠ざけるという手段は、むしろ現代でこそ見習いたいものであり、色褪せてはいません。

その点がまさしく徳川家康を世界史上でも傑出した存在としているのではないでしょうか。

文:小檜山青

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【参考文献】
笠谷和比古『徳川家康:われ一人腹を切て、万民を助くべし (ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房)
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(講談社学術文庫)
笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)
トレモリエール/ルシ『ラルース 図説世界史人物百科Ⅱ ルネサンス−啓蒙時代』(原書房)
国史大辞典

 





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