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徳川家康/絵・富永商太

徳川家 週刊武春

徳川家康75年の生涯をスッキリ解説・年表付!実は世界での評価が高い征夷大将軍

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まず初めに、子供じみた質問をひとつ。

あなたは徳川家康(とくがわいえやす)さんのことが好きですか?

「ハイッ!」
と二つ返事でお答えする方は、戦国ファンの中でも少数派でしょう。

織田信長豊臣秀吉と共に家康は、その功績の大きさから「三英傑」などと称されたりしますが、人気の面では一段も二段も2人より劣る。

なぜだろう?
とあらためて考えてみますと、信長の桶狭間や本能寺のようにド派手なエピソードもなく、秀吉のように存在自体が超レアケースでもないことが影響していそうです。

要は、全然カッコよくないんですね。
アタマに浮かぶのは、オジサンやお爺さんのときの姿と申しましょうか。

しかし、それはやっぱり偏ったイメージでしょう。

家康だって桶狭間の戦いで戦功を挙げてますし(今川義元の元で)、信長に付き従ってからも、
金ヶ崎の退き口
・姉川の戦い
三方ヶ原の戦い
長篠の戦い
等と、熱き血潮のたぎる歴史を重ねております。

そうした点も加味されてなのか。あるいは最終的な勝利者としての結果なのか。
なぜか外国では徳川家康の評価が高く、海外発の世界史事典には必ずといっていいほど家康の名が掲載されます。

徳川家康は、決して政治力重視のオジサン的武将ではない――。

本稿ではそんなことを意識しつつ、史実を基に、彼の人物像に迫ってみたいと思います。

 

1542年岡崎にて生誕

竹千代、のちの徳川家康は天文11年(1542年)、松平広忠と於大の方の嫡男として岡崎城で生まれました。
このとき父の広忠は17歳、その妻・於大の方は15歳というまだ若い夫婦。

竹千代は武田勝頼よりも3歳上にあたり、のちに対決することになる武田信玄とは親子ほどの差になります。

信玄だけでなく、北条氏康、上杉謙信らからみると息子、織田信長や豊臣秀吉からみると弟世代くらいというところです。

岡崎城に伝わる家康の産湯井戸

さて、彼の先祖にあたる松平一族ですが、これがどうもハッキリしない由来。その出自が江戸期以来議論されおり、どうやら古代豪族・賀茂氏の流れでないか?とされています。

家紋の「三つ葉葵」は葵祭で有名な賀茂神社との関わりがあることがわかります。

ただし、これでは武家の棟梁としてはちょっと血統の正統性が弱いわけです。

平家始祖・親氏には、新田義貞に属した得川義季の子孫であるという伝説がありました。
家康はこの伝説を根拠にのちに「徳川」と名乗り、新田系の清和源氏血統であると自称するようになったのです。

また家康の系統である安祥松平家は、実は嫡流ではありません。嫡流の家勢が衰えたためそれにとってかわった系統です。
このあたりの血筋の問題はいろいろとつつかれてきた点です。

そんな松平党たちの躍進のキッカケとなったのは、七代目であり家康にとって祖父にあたる清康でした。武勇に長けた清康は三河国を切り従えます。

ところが天文4年(1535年)、守山城攻略を目指して織田信秀(信長の父)と対陣中、部下に斬殺されてしまうのです。この「守山崩れ」と呼ばれる悲劇以来、松平党は勢いを失い、苦難の日々を歩むことになったのでした。

この時、清康の嫡子である広忠は僅か13歳。彼は岡崎城を追われ流浪の身となります。
今川義元の取りなしで岡崎城に戻れたものの、これ以降は今川の意向に逆らえなくなりました。

のちに家康となる竹千代が生まれたのは、こんな苦難の中でのことでした。

さらに幼い竹千代に苦難が襲いかかります。母・於大の方の兄である水野信元が今川と敵対する織田方についたため、於大が広忠から離縁されてしまったのです。

こうして竹千代は、実母と生き別れることとなったのでした。

松平清康/wikipediaより引用

 

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三河武士団の忍従 すべては竹千代様のために

生母と離別した竹千代に、さらなる困難が待ち受けます。

6歳の折、父・広忠が織田家に対して対抗するため援軍を今川家に申し込んだところ、人質として竹千代を求められたのです。織田への対抗勢力である松平家から人質を取るのならば、生母実家が織田方についた竹千代がふさわしかったのです。

竹千代は駿府へと送られます。が、このとき有名な人質の横取り事件があって織田家に送られ、竹千代はそのまま二年間、尾張に滞在することになったのでした。

そしてこの尾張人質期間中の天文18年(1549年)に、父・広忠が急死してしまうのですから、過酷にも程がある幼少期です。広忠は表向き病死とされていますが、実は家臣による殺害でした。

祖父、父と二代続けて家臣により殺害されてしまった竹千代。
義元は成年の当主が不在となった松平家を支配下に置き、人質交換で竹千代の身柄を駿府に移します。

竹千代は多くの若い家臣たちに囲まれながら、駿府で暮らすことになりました。彼らは青年か主君と同年代にあたり、遊び相手をつとめながら、竹千代を守り続けます。

駿府で竹千代の教育にあたったのは、母方の祖母である源応尼でした。

さらに長じると、名門今川家に仕える名僧たちが薫陶を授けます。その中には今川義元が頼りにした太原雪斎もいました。学問に長けているだけではなく、合戦でも活躍した太原雪斎の教えを受けたことは、竹千代にとって大いにプラスとなったことでしょう。

大大名たる今川家で知性と教養に磨きをかけたことは、竹千代の人格形成によい影響を及ぼしたことでしょう。今川家としても、竹千代が成人したのちには今川家配下の武将として力を尽くして欲しいわけで、粗略な扱いはしなかったと推察できます。

竹千代自身の処遇はさておき、その家臣たちの扱いは過酷なものでした。

岡崎城に入った今川家の城代に従わねばならず、合戦では捨て石のような役目を背負わされるのです。幼主である竹千代が駿府にいる以上、逆らうこともできません。
それでも三河武士団は松平家を見限らず、いつか来る独立の日を信じていました。

彼らの希望は、幼主・竹千代に託されていたのです。

天文22年(1555年)、竹千代は14歳で元服。義元から一字拝領し、次郎三郎元信と名乗ります(ただし、その数年後には元康と改名したようです)。

元信は元服後一時的に岡崎城に戻ります。
しかしそこには今川家の城代がおり、本丸に入ることはできませんでした。

それでも家臣たちは元服した主君の姿を見て感慨もひとしお。元信はこっそりと蔵の中身を見せられます。
そこには大量の兵糧米と軍資金が備蓄されました。

「これは若殿が三河に戻る時のため、その時期に備えて蓄えていたものでございます」

今川家に服従し、決して豊かではない暮らしの中、こつこつと貯められた物資を見て、元信の感動も大きく、そして責任感も全身を駆け巡ったことでしょう。

永禄元年(1558年)、元康は初陣で戦果をあげますが、それに対して恩賞は松平家のごく一部を与えられただけでした。家臣たちは不満を訴え、松平家の領地すべてを与えるように訴えますが、退けられます。

関ヶ原まで、あと四十二年。この二年後、石田三成が生まれるのでした。

 

桶狭間で思わぬチャンス! そして岡崎城へ

念願の松平家独立の好機は、思わぬところでやってきます。

永禄3年(1560年)、今川義元は圧倒的な軍事力を背景に、尾張侵攻を開始(上洛目的という説は現在否定されています)。その配下の将として、元康は先鋒を任されました。

これは露骨な捨て石という見方もできますが、彼の領地が地理的に尾張に近いということも関係しているでしょう。元康の任務は孤立した大高城への食料搬入であり、首尾良くこの任務を果たします。

しかし5月19日、予想だにせぬ大番狂わせが発生します。皆さんご存知の通り、今川義元が織田信長率いる軍勢に討たれてしまったのです。

のちに「桶狭間の戦い」と呼ばれる歴史上の転換点。元康はこの時、大高城で休息中でした。

このままでは敵地尾張に入り込んでいる松平勢は孤立し、囲まれてしまいます。絶体絶命のピンチか――と焦った元康ですが、実のところ織田勢には兵力の余裕がなく、元康に攻撃を仕掛けることは出来ませんでした。

そこで元康は、自領の松平まで無傷で撤退し、いったんは菩提寺の大樹寺に入ります。
このとき、松平家の本拠である岡崎城は、今川の城代が撤退し、空城になっていました。喉から手が出るほど欲しかった念願の岡崎城が目前にある……されど今川に対する義理のためか、しばらく様子見に徹する元康。

意を決して岡崎城に入り、今か今かと織田勢の襲来を待ちました。

岡崎城

が、義元を討ったことで力を使い果たしたのか、結局、織田勢はやって来ません。

かくして思いもよらぬ幸運により、ほぼ無傷で岡崎城を取り戻した――なんて書くと棚ボタラッキーのようではありますが、先に大高城へ危険な食料搬入を果たしていることを忘れてはいけません。

いずれにせよ今川は、当主義元を討たれ、家督を継いだ今川氏真体制では、不安定な状況です。

この間隙を縫って永禄5年(1562年)、元康は今川家から独立を果たし、母方の叔父の仲介で織田家と同盟を結びました。
このとき義元からもらった偏諱「元」を返上し、家康と名乗るようになります。

スムーズな独立のようにも思いますが、実際はさにあらず。

永禄6年(1563年)には「神君三大危難」の一つである三河一向一揆に遭っており、家康は一揆を鎮圧しつつ三河を統一。ようやく独立大名となったのでした。

二代続けて主君が若くして家臣に殺された三河松平一族。悲運の雲に晴れ間が見え、ようやく明るい兆しが見えてきました。

関ヶ原まで、あと四十年のことです。

 

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織田信長と同盟を結び「家康」に改名する

永禄5年(1562年)、前述の通り、元康は尾張の織田信長と同盟を結びました。
この同盟は、信長が本能寺で斃れるまでの二十年間堅持されることになります。

この同盟で西側に安全を確保した元康の狙いは、東の今川です。義元の死以来、国衆の動揺を抑えきれない今川領は、武田・北条によって食い荒らされているような状態でした。

そして永禄6年(1563年)には元康から「家康」へと改名。

「家」の字はどこから来たのかというと、清和源氏の「源義家」ではないかとされています。さらに永禄9年(1566年)には従五位三河守叙任と同時に「徳川」に改姓。松平元康はおなじみの「徳川家康」となったのでした。

さてここで、あの狂歌を思い出したいと思います。

◆織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

これを家康本人がもし読んだとしたら「おいおい、織田が餅をついたというならば、私だって一緒にやっていたじゃあないか」と言いたくなるかもしれません。

織田信長が天下布武を目指していたのは確かです。そしてその道のりには、頼りになる同盟相手として家康がいたのでした。いわば信長が杵で餅をつく合間に、手際よくひっくり返していたのが家康と言えるのではないでしょうか。

二人の関係は共存共栄であり、家康だけではなく信長もこの同盟から利益を得ていたのです。そうでなければ二十年も続かなかったはずです。

例えば永禄11年(1568年)、信長は上洛を果たします。

これも東側を家康が抑え、背後を突かれることはないと思っていなければ難しいことです。この上洛によって信長は将軍・足利義昭を奉じ、他の大名に対して一歩リードするようになるわけです。

イラスト:富永商太

一方、家康は、東の今川を攻略。永禄12年(1569年)には、今川氏真が掛川城を開城して家康に降伏、戦国大名・今川氏はここで滅亡します。

氏真は家康の保護下に入り、特に険悪な仲というわけでもなく、二人は晩年までつきあいが続きます。
氏真の子は旗本として江戸幕府に仕えるほどです。

家康は信長の同盟相手として、永禄13年(1570年)金ヶ崎の戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参戦、存在感を見せます。

家康というと晩年の狸親父のイメージが強いのですが、壮年期は武家の棟梁らしい精悍な姿を見せています。姉川の戦いではどうしても一番手を切ると譲らず、結局信長は陣立てを変更した、と伝わります。

 

三方ヶ原の戦いで見せた「武士の意地」は決して無駄じゃない!?

信長が勢いを増す中、他の大名も指をくわえて見ているわけではありません。

信長と対立した足利義昭の要請を受け、ついに元亀3年(1572年)、武田信玄が上洛を開始しました(※と言ってもこのときの武田家もかつての今川氏と同様、徳川領への侵攻であり、京都への上洛ではないとの見方です)。

信玄率いる二万の軍勢は、甲府から徳川領へと侵攻開始。家康の敗因を探るまでもなく、数の差は圧倒的でありむしろ勝ち目がまったくない戦いでした。二番目の「神君三大危難」の開幕です。
このときの武田勢ときたら、破竹の勢いとか鎧袖一触とか、そんな言葉がふさわしい進撃ぶりでした。

家康のもとには信長から三千の援軍が到着します。
それでも形成は不利です。家康は本拠の浜松城に籠もり、武田勢の来襲を待ち受けます。

ところが敵は意外な行動に出ます。なんと浜松城を素通りし、三方原台地から浜名湖へと進んだのです。

これは当時のセオリーからすれば異常なことでした。進軍する先にある城は落とす、あるいは少なくとも攻め手を送り込むのが常道。これはまるで猫が鼠をいたぶるような、あまりにひどい侮辱でした。
この見え透いた侮辱を目の前にして、家康と家臣の意見は対立します。劣勢であるからには見送るべきだという静観論に、家康は反対。

「見え透いた挑発であり、おびき出そうという魂胆はわかっている。しかし、これを見送っては武士として末代までの恥だ!」
家康は敢えて出撃し、敵の背後を突く決意を固めたのでした。

敵は家康の手を全て見通しておりました。徳川勢の進軍ルートを予測し、待ち構えていた武田勢は僅か二時間で相手を打ち負かします。徳川勢も織田からの援軍も甚大な被害を被り、家康は忠実な家臣たちを身代わりにたてながら、なんとか撤退したのでした。

浜松城まで戻った家康は敢えて城門を開け放つ「空城の計」を用い、それを見た相手はそのまま引き揚げた、とも言われています。ちょっと出来過ぎた話のような気もしますが。

同合戦は「三方ヶ原の戦い」と呼ばれ、武田信玄相手に惨敗をした家康ですが、これは家康のキャリアにとって必ずしもマイナスになったとは思えない部分もあります。

「試合に負けて勝負で勝った」とは言い過ぎかもしれませんが、敢えて不利とわかっていても武士としての名誉に賭けて出撃するというその心理は、同じ武士にとって「心にグッと来る」行動ではないでしょうか。

イラスト・富永商太

後年の狸親父というイメージもありながら、関が原の戦いで家康は、加藤清正ら豊臣系大名も取り込んでいるわけで、人の心を掴む要素があったはずです。
それがこうした武士としてプライドを賭けて困難に立ち向かった態度ではないでしょうか。

さて、徳川勢を蹴散らした武田勢は後が続きません。
これまたご存知の通り、土壇場になって信玄が病死してしまったのです。

その死はしばし伏せられたままとなりますが、信玄の死による反織田勢力の後退を見逃す信長ではありません。まずは天正元年(1573年)、信長は朝倉義景と浅井長政を滅ぼしたのでした。




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勢いに乗る織田・徳川勢は、信玄亡き後の武田勝頼との戦いに挑みます。天正三年(1575年)、長篠・設楽ヶ原の戦い(いわゆる長篠の戦い)で武田勝頼相手に大勝利。まさに最強のコンビともいえる信長と家康ですが、この先には思いも寄らぬ悲劇が待ち受けていたのでした。
関ヶ原まで、あと二十五年。

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