豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家 麒麟がくる特集 週刊武春

豊臣秀吉 多くの伝説はドコまで本当か?62年の生涯まとめ年表付き

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日本史のみならず世界史を見渡してみても、この男以上に出世した人物はおらず――。

そう思わせてやまないのが豊臣秀吉だ。
織田信長に仕え、数多の大事業を乗り越え天下人になったサクセスストーリーは輝かしいばかりである。

しかし、同時にその出自や幼少期については、多くのナゾに包まれている。

墨俣城の伝説に始まり、中国大返し山崎の戦い、文禄・慶長の役など。
今なお燦然と輝く戦国末期の功績は、いかにして成し遂げられたのか。

その生涯62年をスッキリまとめてみよう。

※太閤とは「摂政や関白だった人物」の尊称

 

尾張に生まれる

秀吉は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。

生年についてはいくつか説があり、有力なのが以下の2つ。

天文5年(1536年)説 ※土屋知貞『太閤素生記』
天文6年(1537年)説 ※竹中重門『豊鑑』

織田信長が1534年、徳川家康が1542年なので、ほぼ同世代であることは間違いないが、それにしても、なぜ秀吉だけがアヤフヤなのか?

本来、名門武将であれば基本的に生年は「◯年」と記録されるか、場合によっては「◯月◯日生まれ」とまで残される。
が、秀吉の父は、足軽または農民だったとする木下弥右衛門で、身分があまりに低く、家族の出生記録も残されていなかったのだ。

そもそも父親が誰なのか――そんな、のっぴきならない説も服部行雄氏によって提示され、これも有力視されているのだから、いよいよナゾに満ちた人物である。

 

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最初の仕官先は織田家じゃない!?

通説に従って話を進めると、父・弥右衛門は早くに死に、母・なかは竹阿弥と再婚。
義父と実母の間に弟・豊臣秀長と妹・朝日が生まれ、義父と折り合いの悪かった秀吉は、家を出たという話になっている。

ところがこれについても、竹阿弥が秀吉の実父という説や、いやいや秀長と朝日の父も秀吉と同じく弥右衛門だよ――と混乱させられるように、前半生は不明というのが実態だ。

秀吉の幼名に関しては『太閤素生記』には「猿」、後に「藤吉郎」、「小竹」、「日吉丸」とあり、同時に創作の可能性も指摘されている。

下層階級の出身であったため記録が少ないのが主な原因。
秀吉自身も天下人となってから「きょうだい」と名乗りあげた人物を虐殺した話や、「姉妹」と噂された人物を京都に呼び出し殺した話も伝わっており、実父の出自を隠そうとしていた様子がうかがえる。

家を出た秀吉は15歳頃、ある武家に仕えることになった。

それこそが織田信長……ではなく今川義元の陪臣・松下長則である。遠江国の頭陀寺(ずだじ)城主であり、現在の静岡県浜松市南区に本拠を構えていた。

家柄とは関係なく、若かりし頃から目端だけは利いたのであろう。

秀吉は松下家で目をかけられていたようだが、まもなく同家を去ることになる。これは主君に気に入られ出世した秀吉を周りが妬み居づらくなったからとも、秀吉が金を盗んで出奔したとも言われ、真偽は不明。

ただし、後に秀吉が、長則の息子・松下之綱(ゆきつな)を家臣にし、1万6000石の大名(遠江・久野城主)にまで取り立てていることから、少なくとも松下家に恩義を感じる扱いをされていたのは間違いなさそうだ。

 

女性問題で信長に叱られる

松下家を去った秀吉は天文23年(1554年)頃から、当時、清須城主だった織田信長に仕えはじめた。

仕官のきっかけは知人の口利きと言われるが定かではない。
草履取りとして信長の草履を懐で暖めた逸話もつとに有名だが、この話は江戸中期の本が初出である。

ただ、ここでも色々と機転が利き、信長に気に入られたことは確かなようだ。

草履の他にも、台所を取り仕切って薪の量を減らしたり、清須城・石垣修理の際には部下を数組に分け、早く仕上がった組に報奨を出すことでお互いを競わせ、工期を短縮した逸話が伝えられる。

永禄4年(1561年)、秀吉は信長の弓衆であった浅野長勝の養女おね(ねね、ねい)と結婚する。
長勝は実子がおらず、おねは長勝の妻の妹にあたる朝日殿と杉原定利の娘であった(長勝の姪)。

この結婚は、10歳以上も若いおねに一目惚れした秀吉のプロポーズからはじまった恋愛結婚で、当時としては珍しいもの。
秀吉の身分が低かったことでおねの実母は結婚に反対だったが、長勝や周囲の説得もあり2人は無事、結ばれることとなった。

おねは後に秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)として豊臣家の家政をとりしきることとなる。

少々先の話となるが、長浜城主のころとみられる書状に【秀吉が女性問題でおねと大げんかをして信長が仲裁し、秀吉を「はげねずみ!」と叱責する】ものがある。

イラスト・富永商太

 

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金ヶ崎で死地からの生還

秀吉の名が最初に現れた史料は、永禄8年(1565年)11月2日の坪内利定(喜大郎)宛て知行安堵状である。

このときの名前は「木下藤吉郎」。
坪内に与えられたのは622貫目(石高換算は諸説あるが藤田達生氏は100石としている)で中級武士だったことから、彼に知行を安堵できる秀吉は、この頃には織田家臣の中でも相当な地位を築いていたと言える。

ちなみにこのとき信長は、清須城から小牧山城(愛知県)へ居城を移している。

この2年後には、現代において軍師として知られる竹中重治(半兵衛)を配下に組み入れた。

岐阜城へ移った信長に従い、秀吉も上洛戦に参加し、近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立てるなど、実戦での記録が目立つようになってくる。
そして元亀元年(1570年)、越前(福井県)の朝倉義景討伐に出かけた時、織田家ならびに秀吉の運命は大きく変わる。

浅井長政の突然の裏切りにより織田軍は挟撃されてしまったのだ。

北からは朝倉の反撃。南からは浅井の猛追。
織田家ならびに織田信長は、後に幾度か周囲の大名たちに囲まれ、その命を脅かされてきたが、おそらくやこのときが最も慌ただしく追いつめられたことであろう。

そこで秀吉に与えられた役割が殿(しんがり)であった。
迫りくる敵の目を自分たちに引きつけながら、同時に味方の軍を無事に国許(あるいは京都)へ帰らせる役割であり、死んでも仕方のないポジションである。

そこで見事、信長はじめ大勢の味方を撤退させることに成功し、同じく任にあたっていた池田勝正や明智光秀と共に帰国を果たす。

この一連の撤退劇を「金ヶ崎の退き口」と言い、考え方によっては秀吉最初のターニングポイントだったと言えるかもしれない。ちょうど織田信長が桶狭間で今川義元を討ったようにだ。

浅井長政/wikipediaより引用

 

37歳で城持ち

朝倉浅井の挟撃に遭い、一時は死線を彷徨った織田軍。
いったん国へ戻った信長の動きは異常なまでに素早かった。

同撤退から約3ヶ月後、リベンジとばかりに浅井へ攻め込み、姉川の戦いに勝利する。

浅井の本拠地・小谷城を守るための支城である横山城にいた浅井氏家臣の上坂、三田村、野村肥後が撤退すると秀吉が定番(城番)として入城した。

それから約3年後の天正元年(1573年)、ついに織田勢は小谷城の戦いで浅井家を滅亡へと追い込むのであった。

難攻不落の山城とされる小谷城攻撃では、秀吉が大奮闘。
まず、姉川の戦いに敗れて小谷城に籠城した浅井長政に対し、元亀3年(1572年)、小谷山の眼前にある虎御前山に付城(陣城)を築く。言うまでもなく包囲するためだ。

信長はこの虎御前山城の城番を秀吉とした。
信長公記』によると、浅井攻めの最終局面において秀吉は虎御前山城の本陣を出て、水の手谷から京極丸を攻め落としたとある。このことにより、長政のいる本丸と長政の父・久政の籠もる小丸が分断され、追い詰められた久政は自刃。

その後、嫡男・万福丸を城外に逃がし、正室と三人の娘を織田軍に引き渡した長政は自害し、北近江の戦国大名浅井氏は50年の歴史に幕を閉じた。

助けられた浅井三姉妹の長女・茶々は、後に秀吉自身の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで、三女の「江」は徳川秀忠の妻となるのはよく知られた話であろう。
城外に逃れた万福丸は、信長の命を受けた秀吉の軍勢により発見され串刺しの刑に処せられている。

これら活躍の報奨として秀吉は、浅井の旧領・北近江三郡を与えられた。

小谷城は廃城となり、秀吉は琵琶湖に面した「今浜」を「長浜」と改名し長浜城を建てる。
改名の際には信長から「長」の一字をもらったという、なんとも彼らしい話が伝わっているが、このとき信長に仕えて約20年が経過。出自すら不明の秀吉は、37歳にして城持ちとなるのであった。

なお、記事の便宜上、ここまで全て「秀吉」表記で統一しているが、当時「木下」と名乗っていた秀吉はこの頃(元亀4年頃)に「羽柴」と改めている。

「羽柴」という名字は、信長の有力家臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ貰った――というのが通説ながら、他にも説があって確定はしていない。
天正三年六~七月頃からは文書の署名で「藤吉郎」の通称を記さず、「筑前守」の受領名を用いるようになっている。

いずれにせよ朝倉浅井を滅亡させ、尾張~美濃~そして近江・琵琶湖畔を手中に収めた織田家。
近江と岐阜を結ぶ要衝で城主となった秀吉の貢献が多大であったことは疑うべくもなく、後に彼らは西の大国・毛利家との対決に駆り出されることとなる。

そこで気になるのが東の脅威だった武田信玄。一体、どうなったのか?

というと、話は前後してしまうが、浅井朝倉を滅亡させる前に信玄は亡くなっており(1573年)、織田家としては一気に道が拓けるような極太の幸運に恵まれている。

 

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謙信を目前に逃亡→松永討伐で名誉回復

武田勝頼との直接対決となる長篠の戦い(1575年)では秀吉も一軍を率いて騎馬軍団の精鋭たちを撃退し、更には翌年、伊勢(三重県)北畠氏の遺臣が籠もる霧山城攻略などでも功績を挙げた。

この1576年には織田信長の命による安土城の建設も始まっている。

普請奉行に任命されたのは丹羽長秀。
彼の指揮によって工事が進められていく中で、秀吉が出て来るエピソードが「蛇石」という巨石だ。

城の中へと運ぼうとしたがどうしてもうまくいかず、そこで秀吉や滝川一益などが手伝うこととなり、実に1万人もの人数で山頂へ引っ張りあげたという。

かように近江ではノンビリとした牧歌的な雰囲気も感じられるが、一歩、外へ目を向ければ敵だらけの状況に変わりはない。

信玄が死に、次に脅威となったのが他ならぬ上杉謙信だ。同家との戦いは秀吉にとっても後味苦いものとなった。
柴田勝家が謙信と対峙した手取川の戦い(石川県)で、勝家と意見が合わず無断で撤退し、信長の勘気を被るのである。

ただしこの直後、松永久秀の討伐戦で功績を挙げて信長から褒美まで貰い、信用もさらに厚いものとなったのだろう。

天正5年(1577年)秀吉は、毛利元就の築いた中国地方の毛利切り崩し工作を命ぜられる。
このころ信長の四男・於次丸を養子として迎えてもおり、信長政権下では明智光秀と並び称されるトップクラスの「軍団長」となっていた。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

 

秀吉にとっても織田家にとってもピンチ!

いざ中国地方へ進出――。

天正5年10月、信長の命令で毛利氏の勢力下にあった中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、長浜城を妻のおねに任せて播磨国へ出陣した。

秀吉の播磨平定は順調に進み、播磨国守護・赤松氏配下の赤松則房・別所長治・小寺政職らを従え、かねてから交流のあった黒田官兵衛(孝高)から姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。

しかし天正6年2月、別所長治が毛利方へと離反、拠点である三木城を包囲。
2年にわたり過酷な兵糧攻めとして知られる「三木の干殺し」を敢行する。

この戦いの最中、秀吉にとっては信じがたいことが起きる。同年6月、播磨・伊丹城の荒木村重が離反したのだ。
ここを押さえられれば中国地方と近畿地方への通路が遮断され、地理的に見て、窮地に立たされるのは明白。

中国攻略は一時膠着せざるを得ず、しかも村重の説得に向かった黒田官兵衛(孝高)が、逆に有岡城に1年余り幽閉される事件もおきてしまう。
織田家にとってもピンチと言える状況となった。

 

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伝説の「中国 大返し」始まる

風向きが変わり始めたのはその翌年。
天正7年(1579年)に備前美作の大名・宇喜多直家が服属し、10月にはようやく有岡城を陥落、天正8年1月には前述の三木城を攻略した。

さらに翌天正9年には、事前に周囲の米を買い上げた上で鳥取城を完全に包囲し、数千人もの人々を餓死へと追い込み、同城を陥落させる(鳥取の飢え殺し)。
※このとき大河ドラマでも主役になった黒田官兵衛が共に暗躍していた。

天正10年(1582年)、秀吉は、毛利方の備中高松城(岡山県)で水攻めを行っていた。

敵城主は今なお名将として名高い清水宗治
援軍にやってきた毛利方としてもこの拠点を落とされるワケにはいかず、さりとて秀吉との全面対決には至らず、ジリジリと大軍の鼻先を突き合わせて動けずにいる日々が続く。

戦局を動かすには、織田信長、直々の出陣がしかるべきか――。

後世から見てもかような判断をしてもおかしくない、まさにそんなとき、秀吉にとっては雷に打たれたような激震が走ったであろう出来事が勃発する。
日時は6月2日早朝。そう、本能寺の変が起きたのだ。

秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜から4日未明と言われる。
つまり事件後36時間から48時間のうちに知らされていたのだから、その情報網はかなり高度なものだったと推測できる。

秀吉は信長の死を隠し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に、毛利輝元と講和を結び、即座に京へ軍を引き返した。
※実際は、水運を通じて毛利方にも「本能寺の変」が伝わっていたという見方もある。となると、なぜ毛利方は秀吉の背後へ襲いかかることをしなかったのか?という疑問も湧いてくるが、領土拡大を望まない毛利としてはここで秀吉に恩を売っておき、事後の所領安堵を担保しておきたかったのかもしれない

そして歴史に残る大移動劇が始まる。
「中国大返し」だ。

イラスト/富永商太

 

山崎で光秀を討ち、清須に臨む

備中高松から京都まで約230km。
これを約10日間で走りきったとする「中国大返し」の秀吉軍について、日程の詳細は諸説あるが、9日未明には姫路城を出立したことが様々な史料で一致している。

 

秀吉は配下の兵に姫路城の米や金銭をすべて分け与え、明智光秀との戦いに決死の覚悟で臨んだ。

場所は京都の山崎である。

短期間で大軍の動員に成功した秀吉は、6月13日、満足に態勢の整わない明智軍と決戦、首尾よく勝利を治める。

同合戦は山崎の戦いとも天王山の戦いとも言われ、その兵数は史料により異なるが、太閤記によると秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000しかおらず、迅速な行軍が勝利につながったといえるだろう。

信長の弔い合戦で主君の仇を討った秀吉は、織田家臣団の中で政治力・発言力を強め、臨んだ清須会議では三法師(後の織田秀信/信長の長男・織田信忠の息子)を担ぎ出した。

同会議は、織田氏の後継および領土配分を決めるもので、単純に石高だけ見ると重臣・柴田勝家を抜くことになるが、同時に近江の要衝であった長浜城を手放すことになり、更にはお市の方が勝家のもとに嫁ぐことになり、後世語られているように「秀吉の一人勝ち」でもなかったことが窺える。
信長の妹であるお市の方は、やはり重要なシンボルであり、その発言力も無視できなかったのである。

 

秀吉が信長の葬儀を取り仕切り

姫路城を拠点とした秀吉は、急遽、山崎の戦いで舞台となった地に山崎城を築いた。
京都や安土城から遠い姫路では、いざというときに心もとないからであり、実際、その懸念はスグにでも炎となって燃え盛りそうであった。
言うまでもなく柴田勝家との対立である。

清須会議から数ヶ月の間、お互いに不満は抱えながらも、表面的に秀吉と勝家との争いは見られなかった。

両者の対立が表面化したのは同年十月のこと。
この月の十五日に京都の大徳寺で信長の葬儀(百カ日法要)が行われた。

この葬儀は七日間をかけて行われる大々的なもので、遺体の無い信長を荼毘に付す代わりとして、秀吉は、香木で木像を2体作らせ、1体を祀り、1体を火葬した。

信長の棺に付き従った参列者は3000人余り。警護の兵は3万人。
そして、このセレモニーの喪主は三法師ではなく、信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝であった。織田信雄織田信孝の出席も無く、もちろん勝家の参加もない。

要は、秀吉が、この葬儀を取り仕切り、自身が織田家中の主導的な立場、つまり信長の後継者であるということをアピールしたのである。

秀吉、死せる信長を金箔で踊らせる

 

報いを待てや 羽柴筑前

無論、これを勝家が面白く思う訳はなく、この後、秀吉が信長の次男・織田信雄(のぶかつ)を三法師が成人するまでの織田当主として擁立し、信長の三男・信孝の後見であった勝家と真っ向から対立。




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天正11年(1583年)、ついには賤ヶ岳の戦いへと発展する。
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