「ミリタリー飯」……すなわち軍隊が野戦などで食べる食事のこと。
自衛隊でも「戦闘糧食」といって缶詰やレトルトパウチ製のものなどが支給されるそうです。
当然ながら複雑な調理ができない戦地において迅速かつ簡便に摂取でき、なおかつ十分なカロリーを満たすことのできるものが条件となりますが……。
戦争が常態化していたともいえる戦国時代はどうだったのでしょうか
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そもそもが食うため奪うため
当時は日本中が飢餓の時代でした。
戦場に雑兵たちが集まる多くの理由は「ご飯」が食べられるからにほかなりません。
「頼むから、子連れはやめるように」と大名たちが命令を出した例もあります。
子供にメシを食わせるため「この子はいずれいい戦闘員になりますんで見学です」という理由で従軍する親子が相次いでいたからです。
メシを食うだけではありません。
敵地に入ったら、集落で人さらいをしたり、家財道具やお宝を強奪したり。
要は、生きるためですね。
それゆえ戦争に強い領主は尊敬されたりもしました。
※ただし乱暴狼藉を働く者たちは武士の間では軽蔑もされたりしたそうですから、その辺、ややこしいところです
戦闘時には、以下のような非常食を食べますが、戦(いくさ)といっても日本の場合は、戦闘そのものよりも、陣地の構築などの土木作業の時間もかなり多かったことをあらかじめ申し上げておきます。
まずは標準的な食事の様子を見てみましょう。
一日三食の起源は戦国時代だった
この頃の一般庶民は、朝と夕の2回の食事が一般的でした。
が、重労働の兵士たちは3回となります。
兵士たちの食事が江戸時代になって武士の食生活に取り入れられ、今の日本の「一日3食」という生活に繋がっていくという説もあります。
まず戦場で支給される米は「一升=10合」が基準という記録があります。
地域や時期によってバラつきがあり、実際は「5~6合」ぐらいが平均だったと思われ、他に塩や味噌も適量を配給。
仮に10合が支給された場合、一例として以下のようなスケジュールで食べたりしました。
【戦場ごはんの時間】
・朝に5合炊いて朝ごはん2合半食べる
↓
・残った2合半を昼に食べる
↓
・昼には新たに2合半炊いておく
↓
・昼に炊いた2合半を夕方に食べる
↓
・夜も2合半炊いておき夜戦に備える
あくまで戦場での話であり、日常生活では朝と夕方の2食だったと考えられています。
「10合も支給されるなんて随分と贅沢じゃない?」と思われるかもしれませんが、雑兵たちにはそれだけの重労働が課されており、まさに「腹が減っては戦はできぬ」状態なのでした。
例えば【長篠の戦い】なんて事前の陣構築(土木工事)が織田徳川勝利の要因と考えられますし、
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【鳥取の渇え殺し】、【備中高松城の戦い】なんて、それこそ周囲に砦を設置する土木工事がほぼメインですよね。
それこそ雑兵たちの出番であり、一日中、工事現場にいたら、それはお腹も空くことでしょう。
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なお、「一日のご飯を一度に炊いておけばラクでは?」とも思われるかもしれませんが、炊いたままのご飯を放置しておくのは食中毒の原因ともなり、わざわざ分けて炊かねばならなかったのです。
※戦国期の陣笠は皮製・紙製のものが多く、江戸期になるにしたがい金属製の陣笠が用いられるようになりました(そのため戦国期は鍋を持ち込んでいたと考えられています)
もう少し具体的に見ていきましょう。
炒米・干飯
もっともイメージしやすい糧食のひとつでしょう。
主食となる穀物を加熱した後で乾燥させるという、保存性・携帯性に優れた戦国のミリメシです。
そのままポリポリかじるもよし。
お湯で戻して柔らかくするもよし。
実際にはお湯と一緒に口に含んで咀嚼したことが多かったともいいます。
干飯は現代の「アルファ化米」に通じるものでもありますね。次は「味噌」に注目してみましょう。
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