直江兼続/wikipediaより引用

週刊武春 武田・上杉家

直江兼続の真価は「義と愛」にあらず!史実に見る60年の生涯とは?

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戦国武将の直江兼続ってどんな人?

そう問われ、思わずニヤニヤしてしまう戦国ファンの方もいらっしゃるかもしれません。

彼を取り巻く環境を一言で表すなら「誤解」。
普通の戦国武将とは、まるで違うルートで知名度を挙げてきました。

一例がコチラです。

『花の慶次』に登場した直江兼続。
「利いたふうな口をきくな〜!」という決め台詞がAA(アスキーアート)にされ、ネット上に大拡散した過去があります。

また、彼の兜の前立てもよくなかった。

【愛】という尖った漢字一文字のため、アンサイクロペディアでは

完全にもてあそばれております/アンサイクロペディアより引用

【愛】ではなく【受】という文字でネタにされてしまう。

他に、人気の『戦国無双』や『戦国BASARA』といったアクションゲーム、ソーシャルゲームでも同様の扱いをされがちです。

 

【愛】の正体は【LOVE】ではありません。

本来は「愛染明王」なのですが、そんなことはお構い無しに散々イジられる――それが直江兼続でした。

もう愛なんて信じない! 直江兼続の【兜】に秘められた恐ろしい神様

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実は、名誉挽回のチャンスもあったのです。

が、よりにもよってそれが【致命的な一打】になってしまうとは、上杉ファンの皆さまも想像できない展開だったでしょう。

他でもありません。
2009年大河ドラマの『天地人』です。

直江兼続が主役のこの作品。
戦国時代が舞台の大河では人気ワーストNo.1候補という不名誉な評価が付きまといます。

例えば、北の関ヶ原とも称される「慶長出羽合戦」において。
『天地人』では、兼続よりも人気の高そうな前田慶次はおろか、対戦相手の最上義光すら出さず、とんだ肩透かし作品として今じゃ地元民にも相手にされないような状況です。

山形県民の歴史ファンに向かって
「直江兼続は山形県を代表する戦国武将ですよね」
なんて言うのは控えましょう。どうにも切ない表情をされることがあります(県内のエリアによる)。

そんな『天地人』から約十年――今なおマイナス評価は尾を引いているようです。

ネット上では「(直江兼続は)義と愛の人」というイメージが皮肉られて「偽と哀の間違いでしょ」なんて書き込みをされるほど。
上杉ファンや兼続ファンの皆さんは、未だに傷心の日々です。

そこで。
微力ながら、本稿では真実の直江兼続に迫ってみたいと思います。

戦国末期において上杉景勝の腹心を務めた存在感。
家康を追い込んだ『直江状』の送り主。

果たして真の兼続とは?
フィクションのイメージからかけ離れた史実に迫ってみましょう。

 

三成と同じ歳生まれたの与六

直江兼続は永禄3年(1560年)、越後国魚沼郡上田荘坂戸城にて誕生しました。

幼名は与六。
父は樋口兼豊で、母は泉弥七郎重蔵の娘とされています。
兄弟は、実頼と秀兼がおりました。

とは申し上げたものの、彼の生地、先祖、両親の出自などは諸説あってハッキリしておりません。
兼続の一代で景勝に引き立てられ、そして彼の子孫が断絶し、家が亡くなったのが影響しているのでしょう。

後述しますが、兼続そのものの評価も江戸時代に変動しています。
記録が残りづらく、ナゾの多い経歴なのです。

彼の戦国同期には、名だたる武将が揃っておりました。

例えば、石田三成後藤又兵衛基次は同年に誕生。
若くして織豊時代を乗り切り、関ヶ原や大坂の陣を迎える年代です。

三英傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)よりは後で、伊達政宗は前――いわば中間世代でした。

 

上杉謙信との伝説は史実なのか?

幼少期の直江兼続に、こんな伝説があります。

聡明で美しい与六。
上杉謙信から義と愛、そして戦術の数々を学ぶ――。

いかにも戦国ファンが喜びそうなエピソードであり、ドラマなどでは欠かせないシーンになりますね。
フィクション作品によっては「謙信から激しく寵愛を受けていた」なんてパターンもあります。

しかし、史実面から見た場合、鵜呑みにするのは危険です。
ここは少し慎重になり、上杉謙信伝説を考えてみたいと思います。

現在、米沢市で行われている「上杉まつり」(公式サイト)。
公式サイトをご覧の通り、トップ画像は上杉謙信と武田信玄です。

なぜ山形県の米沢で、川中島設定なの?
初代米沢藩主の上杉景勝は?
その腹心の直江兼続は?

とにかく上杉謙信の名前が偉大すぎるんですね。

景勝と兼続のコンビが声優トークショーに出てきた祭が、山形市の最上義光を讃える『よしあきフェタ』だったというのも、かなり切ない状況です。
兼続たちにとって義光はゴリゴリの敵なのですから。

よしあきフェスタ参加ルポ ファイナル!山形市民に愛されて、それが最上義光!

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ちょっと話が逸れました。
要は、兼続の幼少期に出てくる謙信がらみのエピソードも、彼の華やかさアップを狙った脚色という可能性が高そうです。

兼続にとっての主君は上杉景勝です。
『直江状』あたりの文体から、上杉謙信伝説につながるようなホットなものは感じません。

そんなことよりも、冷徹に計算しきった――乱世を生き抜くノウハウ。
それこそが彼の持ち味に思えます。

史実ベースで振り返るなら、とにかく「義と愛」バイアスは捨てねばならない。
それでも十分面白いのです。

例えば彼は文人としても一流でした。
兼続こそが、米沢に根付いた文化の親とも言えます。文書の保管や教育面においても絶大な貢献を果たしておりました。

彼が賢明だったことを証明するのに、上杉謙信の伝説など不要なのです。

 

「御館の乱」から直江家当主へ

とはいえ景勝と兼続の生涯が、謙信の影響から逃れるはずもありません。
むしろグルグル振り回されました。

その最たる悲劇が上杉家を真っ二つにした【御館の乱(1578年)】でしょう。

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【御館の乱】で、直江兼続とその父・兼豊はどんな活躍をしたか?

これは論功行賞からわかります。
関所での関銭徴収と、船一艘の入港税が免除。
収入アップに直結する大きな褒美でした。

ちなみに当時の兼続は家督相続をしておらず、父子ともども活躍をしたとみられます。

実のところ、この父子がハッキリ躍進したと言えるのはこの御館の乱での活躍から。
いち早く景勝側についたからこそ、その功績に報いられたのでしょう。

こうした経歴をふまえると、作り上げられた直江兼続像も見えてきます。
謙信時代からではなく、「御館の乱」を通して景勝によって引き立てられたのです。

上杉景勝/wikipediaより引用

しかしこのときの論功行賞は、思わぬ事態を同時に引き起こしました。

毛利秀広が、景勝側近の山崎秀仙を斬殺した挙句、止めに入った直江信綱まで命を落としてしまったのです。
論功行賞は武士にとって収入に直結する場面。
ゆえに互いに本気になり、刃傷沙汰に発展することも珍しくありませんでした。

いずれにせよ直江家は、直江津で水運を司っていた名門です。
その断絶はあまりに惜しまれる。

そこで主君の上杉景勝は、信綱未亡人である「お船」に兼続を婿入りさせ、直江家を継がせることにしました。
実は、殺された信綱も婿で、お船が直江景綱の娘だったのですね。
彼女の血があれば直江家は問題なく存続できます。

歳はお船が25才で兼続が22才。

兼続には側室がおりません。
フィクションでは夫婦愛だと強調されがちですが、婿入りの経緯や実家の格を考えてみると、側室を置ける状況であったとは考えにくい。

このことは、徳川秀忠とお江与にもあてはまることです。
側室の有無のみで夫婦の愛情を測定することはできません。

かくして、樋口家から、上杉家屈指の名門・直江氏の当主にまで登りつめた直江兼続。
華々しい活躍があっての出世とは言い難いものでした。

◆出世のキッカケ→上杉家中を真っ二つにする内乱

◆大出世のキッカケ→論功行賞トラブルによる刃傷沙汰

兼続が、謙信の寵愛や【義と愛】、お船との仲がやかに強調されるのは、こうした生々しい史実を隠すためではないか。
石田三成の「三献茶」をさらに大掛かりにしたような工作の跡を感じてしまいます。

むろん、兼続がただのシンデレラボーイとは思いません。
実は、彼の論功行賞には【税金関連】のものもあります。

財政センスに優れていたのでしょう。
だからこそ、直江津の物流を司る直江家当主とされたのであれば、十分に納得ができます。

彼の内政センスは、後年の米沢時代にも発揮されます。
その片鱗は、若き日にも現れていたのですね。

 

上杉家とその周辺

「御館の乱」を乗り越えたあと、上杉家は織田信長の圧迫を受け、危機に陥りました。

ここで確認しておきたいのが、隣国・武田家の動向です。

実は「御館の乱」で、その当主・武田勝頼は景勝を支援しておりました。

景勝と対立した景虎の実家である北条を敵に回して上杉をチョイスしたのです。

北条との関係を断ち切った武田は、景勝に正室・菊姫(武田信玄・五女)を送ることで両家の結びつきを強化します。

この判断が武田家の滅亡を早めたミスともされます。
が、勝頼を責めるのは酷でしょう。
武田の滅亡は、あくまで信玄時代からの積み重ねであり、複合的な要素が絡み合った結果でしょう。

このあたりは周辺大名との力関係も重要となってきます。

ハッキリと言い切れるのは、武田家の滅亡後、上杉家もまた追い詰められていくということです。

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この時代の上杉を語る上で、武田家と織田家に目を向けるのは自然な流れです。
しかし、そればかり見ていると、どうしても見落としてしまうことがあります。

それが東と北に位置する敵――奥羽の大名。
主に最上家と伊達家でした。

上杉家は、奥羽の大名とも深い関係があります。
緊張感が頂点に達し、1600年に大きな合戦へと発展しますが、それは突如として起こったものではなく、紛争の火種は常に存在しておりました。

上杉というと、どうしても謙信vs武田のイメージを連想しがちです。
しかし、兼続と景勝のコンビは東北でも色々と動きます。

ゆえに東北の両雄も併せて考慮せねばならず、ここで捉えておきたいのが
【伊達と最上が織田とどう付き合っていたか?】
という点です。

後に、豊臣秀吉、徳川家康へと繋がっていくため、非常に重要なところとなります。

伊達家と最上家。
両家と織田家との関係はこんなイメージです。

◆伊達家:織田家とは表面的には対立せず。若き当主・政宗の猛攻により、奥州を武力で制圧してゆく
◆最上家:織田家と早くから通じる。当主・義光のもとで勢力伸長。上杉家の圧迫により、劣勢に陥った大宝寺義氏の領土・庄内を獲得する
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こうした上杉家と東北大名の間に挟まるように存在していたのが「揚北衆(あがきたしゅう)」です。

上杉家というと、義の下に一致団結しているように思えますが、それはあくまで神話。
揚北衆の動向を見れば、そんなことはまったくないと伝わって来ます。

いつも上杉家についていたわけじゃねえぜ、謀反上等!
そんなアグレッシブな彼らが、織田家から圧迫を受ける景勝におとなしく従うワケがありません。

天正9年(1581年)――。
「御館の乱」の論功行賞に不満を抱いた新発田重家が、反旗を翻しました。

時を同じくして、武田家を討ち果たした織田勢が上杉家の魚津城に迫ります。

圧倒的敗北。
絶望的な状況でした。

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このまま越後まで攻め込まれ、軍神として恐れられた上杉も、いよいよ滅亡してしまうのではないか――。

そんな絶望的な魚津城の陥落。
にっちもさっちも行かなくなった景勝&兼続の前に驚天動地のニュースが届きました。

本能寺の変」です。

織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により命を落とし、日本中のパワーバランスが大きく狂いました。

この一大事に対し、上杉家・伊達家・最上家の北国3大名がどんな動きをすることになったか。
マトメてみましょう。

◆上杉家:九死に一生を得たぞ! よし、次の豊臣政権には積極的に接近しよう!
◆伊達家:あんまり空気を読まない。政宗は中央が気になりつつも、彼のロードを邁進す。結果、豊臣政権に「小田原征伐まで参陣しないとゲームオーバーな」宣告を受けてしまう
◆最上家:外交重視で「織田家に通じていたのに聞いていないよ!」と焦る。しかも息を吹き返した上杉家「楊北衆」きっての猛将・本庄繁長に庄内を奪われる

この構図。
今後、北の関ヶ原に際して、非常に重要となってきます。

 

豊臣政権への接近と佐渡平定

織田信長が倒れ、息を吹き返した上杉家。
直江兼続が石田三成と対面した時期は天正14年(1586年)辺りと考えられます。

それから2年後の天正16年(1588年)、景勝と兼続は主従で上洛しました。
豊臣秀吉の九州平定を祝し、前年の新発田重家討伐も報告しております。

景勝は後陽成天皇のもとに参内し、従三位の位階も賜りました。

かつて信長に対抗して窮地に陥った上杉家、その後継者である秀吉には接近することで対処したのです。
これがターニングポイント。
九州の島津家、奥州の伊達家と比べると、かなりスムーズに接近しています。

天正17年(1589年)には、上杉家は佐渡島討伐を果たしました。
これも歴史的に見て、興味深いものです。

佐渡島を支配し、上杉家に討伐された本間氏の中には、庄内地方へと逃れたものもおりました。
その子孫が、東日本随一の商人となります。

庄内藩で、彼らはこう歌われたほどでした。

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」
(本間様みたいにリッチになるのは無理だけど、殿様レベルになれたらいいよね)

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しかし、この佐渡平定を、納得できない思いで見る人物がおりました。

最上義光です。

このころ楊北衆の本庄繁長が、最上領だった庄内へ侵攻。
伊達政宗と大崎氏をめぐり争っていた最上義光は出兵すら思うようにできず、大敗を喫します。

大名が勝手に戦をしてはならない――と、当時、秀吉の命令で出された「惣無事令」。
実効性を疑う声は今なお多いものですが、少なくとも義光は停戦命令は有効だと考えていたようです。

現実は、そうではありませんでした。
上杉のルール違反。
それを許す豊臣政権のダブルスタンダード。
義光の中に不信感が募っていきます。

外交ルートを模索するものの、直江兼続(上杉家)と石田三成の強固な関係には割り込めないと諦め、義光は別口を当たるしかありません。

それが徳川家康でした。

後の関ヶ原の戦いで、最上義光が東軍に真っ先についたのは、娘の駒姫を秀吉に殺されたから――そう説明されることは多いです(豊臣秀次事件)。
確かにそれは大きな要因でしょう。

しかし、義光は以前から、上杉家への不信感を機に徳川家康へ接近していたことも重要です。
関ヶ原へ向かう種は、この辺りから芽吹いていたのです。

 

兼続を考えるうえで気をつけたいところ

そしてここが、兼続を考える上で重要な点でもあります。

兼続の戦績などが、何か靄がかかったようにモヤモヤとしてしまうこと。
これには東北戦国史の影響もあると思われます。

直江兼続の活躍を語る上で欠かせない最上義光。
これが世間的にはあまりに地味な存在です。

江戸時代初期の『奥羽永慶軍記』等では、兼続の強敵として登場する最上家。
しかし、最上家が改易された事情等から出番が減っていき、現在のフィクションでは雑魚扱いが基本です。

前田慶次にやられてしまった『花の慶次』。
最上家そのものが消滅していた『天地人』はその典型例でしょう。

そして最上家の代わりに引っ張り出されてくるのが、伊達政宗です。

直江兼続と伊達政宗というと、いかにも見栄えのするラインナップかもしれません。
しかし、両者の関係は薄い。
フィクションでは、それでも無理に争わせたりするものだから、結果的に、兼続の人生そのものが混乱する。

謙信時代の上杉家には、武田信玄という鉄板のライバルがいました。
そうでなくなった景勝時代以降、フィクションでは混沌としてしまう弊害が生じているのです。

兼続が主役ではなく、脇役だった『真田丸』。
景勝のそばで冷徹な意見を申し上げる姿は、鮮烈なキャラクターを視聴者の心に印象づけましたが、ウソで塗り固めない自然な描き方のほうが個性的になりました。

そうです。
『直江状』も含めて兼続は、史実通りで十分に魅力的になれるのです。
本稿では、そこをキッチリと考えていきたい。

もう一点。
兼続像をモヤモヤとさせる原因。
それが「義」です。

上杉家は「義」のために戦ったのか?
謙信は、他の大名と比べて慈悲深かったのか?

冷静に考えて、そうとはとても思えません。

持ち上げられがちな景勝と兼続主従の「義」とは、豊臣政権に尽くしたことがその根拠でしょう。
徳川ではなく、最後まで豊臣に従った――。いやいや、それは傾いた見方です。

上杉家が豊臣政権という権力を利用したとも言える。それが、どっぷり浸かりすぎていたため、途中から徳川家に乗り換えるチョイスなんてなかっただけ。
上杉家が、巨大なパワーに反抗的な気質を持っていたと認識するのは無理があります。佐渡平定にせよ、豊臣政権の下で勢力を拡張しておりました。

豊臣政権における「奥羽仕置」での上杉家の立場が、山形県内での景勝&兼続の評価を難している一面もあります。

最上と上杉に挟まれていた庄内地方では、太閤検地に逆らう一揆が頻発しました。
それを力で黙らせろ!とばかりに、上杉家はかなり強引な処罰を行い、庄内地方を疲弊させたのです。

その際、上杉家に反旗を翻した池田盛周(もりちか)は、最上家・鮭延秀綱の下へ逃亡。
「豊臣政権に逆らったからには悪だ」という意味を込め、悪次郎と名乗るようになりました。

そして開墾に尽くし、地元住民は彼の作った堰を「悪次郎堰」(現真室川町)と呼ぶようになります。
改名せよと命じられても、断り続けたというほどです。

こうして荒れ果てた庄内地方を豊かにしたのは、これまた最上家臣・北楯利長(きただて としなが)の功績です。

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庄内地方には、直江兼続を慕う理由はまったくありません。
むしろ恨みの方が先に立つ。

山形県民に、
「山形を代表する戦国武将といえば、直江兼続ですね!」
と言っても、地域によっては反応が鈍い理由をご理解いただけたでしょう。

なお、庄内の一揆鎮圧や検地において、兼続と積極的に協力していたのは、大谷吉継でした。

このことも非常に重要です。
直江兼続(上杉家)と豊臣政権の中枢にいる石田三成・大谷吉継はそれだけ親しかったということになります。

 

兼続と三成と豊臣政権と

直江兼続評価を難しくしている点――。
それは石田三成との距離感もあります。

現在は、西軍ファンが増えており、この二人は特に人気があります。

『戦国無双』シリーズのファンは、このコンビに真田幸村を加えた「義トリオ」という呼び名もあるほどです。

 

そんな現代視点のバイアスを取り除いて、見てみましょう。

徳川家が支配した江戸期では、家康に背いた者は悪人とされます。

石田三成との距離が近ければ近いほど、江戸時代はマイナス評価になります。
ここを強調しても、隠蔽しても、いずれにせよ問題があります。

それがわかるのが、最上義光の動向です。

彼自身、豊臣政権に接近するのであれば、三成が一番有効だと考えていました。
助言を求められた津軽為信にも、そう返答しているほどです。

ただ、義光自身はそれを上手く実現できず、家康ルートを探ることとなりました。
それほどまでに上杉家と三成は近しく、間には入れなかったのです。

この義光といい、伊達政宗といい、豊臣政権内では苦労を重ねています。
彼らにとっての最大の痛撃は、秀次事件でしょう。

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上杉家はさほど関与しておりません。
しかし、彼らに不満がなかったとも言い切れません。

朝鮮出兵に関しては、賛同する大名がいたかどうか甚だ疑問です。

文禄元年(1592年)の5月下旬、景勝は秀吉の代理として朝鮮に渡りました。
6月から9月にかけて三ヶ月間ほど、熊川倭城の普請を行なっています。

この普請の最中、三成と吉継は景勝の名護屋帰陣準備を進めています。
朝鮮出兵に消極的であったとされる三成と吉継と、上杉家は同調していたとみなせるものです。

 

会津百二十万石

そんな豊臣政権下での激動といえば、上杉家の会津への移封でしょう。

慶長3年(1598年)。
突如、その命令は下されました。

◆移封前
北信濃四郡

◆移封後
会津
出羽国・長井郡
陸奥国・伊達、信夫郡

移封後の所領に【出羽と陸奥】が含まれていることにご注目ください。

羽州探題を自認してきた最上義光。
奥州探題を自認してきたうえに、先祖のゆかりである伊達郡を支配された伊達政宗。

両者が苦い顔になったことが、想像できるような配置です。

「今まで生まれ育った越後を離れるなんて!」
そんな否定的な感情が上杉家中にはなかったのか?
と問われれば、幾ばくか抱いた武将もいたでしょうけど、簡単に誰かに表明できるものでもありません。

メリットもあります。
上杉家臣は、楊北衆のように父祖伝来の土地に根ざす国衆が多くいました。彼らを根こそぎ移すことで、在地性を否定することもできるのです。

さらに……。
百二十万石となるからには堂々たる栄転――そう考えられるのも【会津】という土地柄が影響しておりました。

実は明治維新以前、会津は交通の要衝でした。
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