織田信忠

織田信忠/wikipediaより引用

織田家

織田信忠の生涯|なぜ信長の嫡男は本能寺の変で自害せざるを得なかったのか

2024/11/27

天正三年(1575年)11月28日は織田信忠が父の織田信長から家督を譲られた日です。

本能寺の変が起きたのが天正十年(1582年)6月2日ですので、その約5年半前のこと。

つまり信長が死ぬまでに十分な時間があり、織田家を率いていても問題なかったはずですが、現実はそうなっていません。

信忠もまた、謀反を起こした明智光秀に追い詰められ、自害してしまったからです。

事件の当日、織田信忠は本能寺から少し離れた二条御新造にいました。

明智軍の軍勢は迫ってはいましたが、信長を囲むほど厳重な包囲網ではなかったはず。

ならば逃げられたのではないか。なぜ信忠は自害という最期を選んでしまったのか。

そもそも信忠とはどんな人物だったのか?

織田信忠/wikipediaより引用

普段は父に隠れてあまり目立たない、織田信忠の生涯を振り返ってみましょう。

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奇妙丸 母は不明

織田信忠は弘治三年(1557年)、父信長の本拠・清洲城で生まれました。

幼名は「奇妙丸」。

生まれたばかりの息子を見た信長が「奇妙な顔をしている」と思ったのでこう名付けた……というのが定説です。

このため成長後、元服前後くらいまで文書の中で「御奇妙様」と呼ばれることがあります。

”奇妙”には「不思議」「風変わり」の他に「非常に面白みがある・趣がある」という意味も存在するので、必ずしも悪い名前だけでもないのですが……「御」がつくとなんだかシュールですよね。

信忠の庶兄として「織田信正」という人がいた説もありますが、存在は疑問視されています。

まぁ、信忠の扱いからすると、仮に信正がいたとしても大して影響がなさそうというか、信長が信忠を嫡子として扱っていたことは変わらないのかもしれません。

気になるのが信忠の生母です。

これが不明でして、かなり心もとないですが、生駒氏(吉乃)という説が一応はあります。

次男の織田信雄(茶筅)や五徳/徳姫(徳川信康正室)と同母きょうだいになるのですが、吉乃の存在があやういので話半分で聞いておくのが良さそうです。

いずれにせよ信雄とは一歳差で幼い頃から仲が良かったのか、成長後にたびたび手紙のやり取りをしています。

織田信雄/wikipediaより引用

信雄からの陣中見舞いに返事したり。

手紙の中に「帰ってから直接いろいろ話そう」と書いていたり。

信長はすぐ下の弟・織田信勝(信行)を確執の末に誅殺したことはよく知られていますが、次世代ではそうした事態はなかったのでしょうね。

まぁ信長も、信勝以外の弟たちとはそこまで不仲でもないので、信勝が例外かもしれません。

 


初陣は浅井が相手

少年時代は何かとヤンチャな逸話が多かった父・信長。

その息子となると、さぞ……と思うかもしれませんが、織田信忠は幼い頃から従順な性分だったようで、特に目立った幼少期のエピソードは伝わっていません。

元服の時期は天正元年(1573年)7月頃と目されています。

以降、しばらくの間は「信重」と名乗り、通称として「管九郎」を使っていました。

書面に登場するようになるのは元亀三年(1572年)7月の北近江・浅井氏攻めで、これが信忠の初陣となりました。

浅井長政/wikipediaより引用

信長よりも2年ほど遅い初陣ですが、当時の織田家と比較すると自然な状況と言えるでしょう。

織田家の動向を年表でザックリまとめるとこうなります。

【1550年代後半】信長vs信勝(弟)

【1560年代前半】桶狭間の戦い・清洲同盟

【1560年代後半】美濃を手に入れ上洛へ

【1570年前後】朝倉・浅井氏と対立

信忠の元服・初陣は、織田家の足元が一旦落ち着き、これから駆け上がっていこうとする時期だったのですね。

ただし、織田家が伸びれば伸びるほど、周囲からの反発も大きくなり、信忠の初陣から2年後の天正二年(1574年)7月には第三次長島一向一揆が勃発。

このときは叔父の織田信包や、重臣・森長可など、親族を含めた美濃や尾張の武将を率いて参戦しました。

おそらく信長はこの時点で美濃・尾張の人々と信忠の連携を強めるべく、同行させたのでしょう。

年若い信忠の補佐をさせる意味もあったはずです。

 

長篠の戦い・岩村城の戦い

こうして少しずつ経験を重ねていった織田信忠。

彼が本格的に一軍の将として行動し始めるのは、天正三年(1575年)【長篠の戦い】からです。

このときは信長が後から出陣し、信忠はそこに合流後すると最前線には出ていません。信長としては「一人で兵を率いて遠方へ向かう経験」を積ませたかったのでしょうか。

あるいは信忠の性格を考慮してなのか、息子を案ずる気持ちが勝ったのか……他の理由があった可能性もありますし、その全てだったとしてもおかしくないですね。

むしろ信忠の動きについていえば、長篠の戦いよりもその後のほうが重要かと思われます。

同盟相手である徳川家の家臣であり、長篠城を守っていた奥平信昌らの褒賞にあたっているのです。おそらく織田家の後継ぎとして顔を見せる意味もあったのでしょう。

奥平信昌/wikipediaより引用

信長は帰国後に北陸へ、信忠はそのまま武田方に奪われていた岩村城の奪還に向かいます。このあたりから信長は信忠を大将に任じ、別行動を取るようになりました。

もちろん信頼できる家臣をつけていますが、「自分が直接見ていなくても問題ない」と思ってのことでしょう。

佐久間信盛が信忠の後見になっており、信長は信盛への手紙で

「度々申し付けているが、信忠は若いので、よく面倒を見るように」

と記しています。親心と武将としての厳しさがうかがえますね。

現代では”優等生”のような評価を受けることが多い信忠ですが、若い頃の信長に似て激しさを見せる面もあったと思われます。

この後の信忠の言動で、それらしき話がたびたび出てくるのです。

 

岩村城の陥落

岩村城攻めは予想以上に時間がかかり、天正三年(1575年)11月に攻め落としたと考えられています。

佐久間信盛が8月から越前攻めに加わり、河尻秀隆が岩村城攻めに参加したので、どこかのタイミングで交代させたようです。

信長は、まだ岩村城が落ちていないこと、武田勝頼が自ら岩村城への援軍に向かっていること知り、11月15日に越前から岐阜への帰り、援軍に向かおうとしました。

五段石垣で知られる岩村城跡

実はその数日前、岩村城を包囲していた織田軍は、武田軍から夜討ちを受けていました。

城方の武田軍も夜討ちの隊と一緒に織田軍を挟撃しようとしており、もしも成功して大事になっていれば信忠も危うかったかも……と思いきや、このときの信忠が勇猛でした。

自ら先駆けして武田軍の合流を防いでいたのです。

大将としては少々迂闊な行動ですが、一方で将兵たちには「勇猛な跡継ぎ」という印象を与え、士気を高める効果があったでしょう。信長にも似たような話がいくつか残されていますね。

結局、武田の夜討ち隊は織田軍が蹴散らし、籠城側も降参を申し出るまでになりました。

そして、岩村城、陥落――。

11月21日に城将・秋山虎繁らを捕縛し、岐阜へ送って長良川で処刑。

謀反のきっかけとなった遠山一族が最後の抵抗をするものの、最終的には織田軍に敗れ、岩村城は織田家のものになっています。

戦後、信忠は岩村城を河尻秀隆に任せ、11月24日に岐阜へ戻ると、この功績により「出羽介」「秋田城介」に任官。

出羽介は出羽の国司のうち二番目にエライ人で、秋田城介は出羽の秋田城を任地とする官職です。

秋田城は朝廷にとって北方防衛の拠点とされていたところでもありました。

この時点で信忠が出羽や秋田城へ行くことはありませんが、これらの役職から信長や朝廷の意志が垣間見えるかもしれません。

あくまで私見ですが、信長は

「全国を統一した後は、信忠の息子の誰かを北の要とし、出羽介と秋田城介を世襲させていく」

という算段をつけていたのではないでしょうか。

まだ嫡子の三法師(後の織田秀信)も生まれていませんが、順調に行けば信忠も何人かの息子に恵まれたはず。

信長は、信忠の長男に織田家の家督を継がせ、次男以下のうち一人を秋田に置き、その子孫を北方の要として根付かせていこうとしたのではないでしょうか。

なお、関東・東北の大名は早いうちから織田家へ手紙や贈り物をしてきている家も多く、近畿・北陸・西国に比べて武力は必要なかったと思われます。

合戦だけでなく、信忠に娘が生まれれば、政略結婚で結び付きを強めることもできますしね。

ともかく信長は、岩村城の戦いで「大将として初めて単独行動した」長男の働きに、合格点を与えたはず。

それが冒頭でも触れた織田家の家督継承からもうかがえます。

 


信長から託された城やお宝

前述のように、信長が家督を譲ったのは天正3年(1575年)11月のこと。

信長はこのとき42歳。

当時の平均寿命からすると、いつ死んでもおかしくない状況です。

織田信長/wikipediaより引用

そこで、万が一自分が亡くなっても織田家の体制に揺るぎがないよう、跡取りをキッチリさせておきたかったのでしょう。

振り返ってみれば、自身が弟・織田信勝との家督争いで最も苦労してますからね。

このとき18歳の嫡男・信忠につけたおまけがスゴイ。

本拠だった岐阜城はもちろん、因縁の地・美濃も織田家代々の尾張もまとめて任せ、さらには家宝の品々もまとめてポーンと渡してしまったのです。

お宝の中には、日本三大敵討ちの一つ【曽我兄弟の仇討ち】で有名な曽我五郎由来の太刀【星切】まであったそうです。気前がいいなぁ。

ちなみに信長自身は、まだ城どころか家もまばらな安土に移り、茶道具だけを持って家臣の家に間借りする身軽さでした。

「身軽さ」というか、あまりに自由すぎ。

とツッコミたくなりますが、これが信長最大の長所であり、後に悲劇を招く引き金にもなりますね。

ただし、信長が実権を手放したわけではありません。

あくまで跡継ぎの表明だったのでしょう。

家臣たちにもその意志はよく伝わっていたようで、手紙の中で信長を「上様」、信忠を「殿様」と書くようになっていきます。

「信長と比べて暗愚だった」なんて言われることもある信忠ですが、そもそも比較対象がおかしい話でしょう。

天正七年(1579年)の松平信康切腹事件について「信康が信忠より優秀だったため、信長が始末させた」という説が、かつては広く信じられていた影響もあるのかもしれません。

 

重臣招いて自ら茶会を開く

別居後も織田信忠は父に従順であり続けました。

政務や戦だけでなく、家臣たちとの付き合い方にも見られます。

天正五年(1577年)の年末、信忠は名品「初花肩衝」など11種の茶道具を信長から譲り受けました。

信長から「これらを使って茶会を開くように」と言いつけられたとされています。

初花肩衝/wikipediaより引用

年が明けて天正六年(1578年)の元日には信長が安土城で朝の茶会を開き、信忠と共に重臣たちが招待されました。

招待客は諸説ありますが、信忠の他に

武井夕庵(信長の右筆)

林秀貞(織田家の筆頭家老)

滝川一益

細川藤孝

明智光秀

羽柴秀吉

丹羽長秀

など錚々たるメンツが参加。ほとんど織田軍オールスターという感じですね。

4日には、信長お気に入りの小姓・万見重元邸にて、信忠が亭主となって茶会を開催しています。

この後も信忠はたびたび茶会を開き、自ら手前を披露することもあったとか。

信憑性は少し低いものの「千利休に数寄屋の調度について教えを請うた」という話もあります。

時計の針を少し進めて天正6年(1578年)1月29日のことです。

信長の御弓衆・福田与一が安土で火事を起こしてしまいました。

信長は「家の中のことは妻が取り仕切り、夫の留守を守るべき」という考え方で、以前から「安土に移った者は早々に妻子を呼び寄せるべし」と命じていました。

ところが与一の火事が起きたことにより『妻が家にいなかったのか』と推察。

家臣宅を調べさせたところ120人ほどが安土に妻子を呼びよせてないことが発覚します。

城建造中の安土で火事を何度も起こされてはたまりません。

そこで信長は信忠に「岐阜から安土に妻子を移していない家は放火して、強制的に移らせろ」と命じました。

ずいぶんと荒っぽい手段ですが、こうでもしなければダラダラとして進まないからでしょう。

また、この年5月のキリスト教宣教師の手紙で、信忠がキリシタンに好意的な反応をし、修道院や教会の建設用地を与えたという話があります。

信忠の信仰について詳細は不明ながら、この辺の感覚も信長に準じていたのでしょう。

 


鷹の子を四羽育て信長に献上

戦国武将も人間であるからには戦ばかりしているわけではありません。

むしろ日常生活や内政に費やしている時間のほうが多い。内容こそ違えど、衣食住や趣味などについては、現代人と共通する面がなくもありません。

信長は鷹狩や相撲が有名ですかね。『信長公記』にその表記が何度も出てきます。

一方の織田信忠については、これぞ!という趣味が伝わっていません。

ただし、いくつか当人の好みが垣間見えてくる話はあります。

天正五年(1577年)秋:イベント見物

謀反を起こした松永久秀討伐のため奈良へ出陣した信忠。

久秀の本拠である信貴山城を包囲する前に奈良の猿沢池を見物したとされます。

また同じ年に尾張の津島祭に出かけていました。

一見共通点が見えにくいですが、「現地の名物を見に行くことや、地元民と接触する機会を重視していた」と考えると、似通った意味があるのかもしれません。

天正六年(1578年)7月:鷹の子を四羽育て上げて信長に献上

『信長公記』に載っている話です。

上述の通り、この頃には信長から家督が譲られていて、岐阜城の主は信忠でした。

いつ頃から手掛けたのかは不明ながら、岐阜城あるいは近辺のどこかで鷹の子を育て、それを鷹狩好きの信長に贈った……という話ですね。

人の手で鷹の子を育てるのは非常に難しいとされ、四羽ともなれば多大な労力だったことは間違いないでしょう。

信長のご機嫌伺いという目的であれば別のものでよかったわけで、信忠もかなりの鷹好きだったのでは?

奥羽の大名から鷹が贈られるという話はよくありますが、自分の手元で育てたという人や話は珍しいです。他に生き物に関する記述がないので、あくまで可能性の話ですが。

なお、信長は一羽だけ受け取り、残りは信忠に返したそうです。

信長のもとへ鷹を届けた鷹匠二人には、「育てるのは大変だったろ」として褒美が与えられたとか。

「苦労して育てたのだから、信忠の手元で多く使うのがいい」と考えたのかもしれません。信長の親らしい一面も見える話になりそうです。

・音楽や能が好き?

信忠には、いくつか芸術にまつわる話が伝わっています。

側近の笛を聞いて「師匠は誰か?」と訪ねたことがあったとか、能に熱中しすぎて信長に怒られ、道具を取り上げられてしまったとか。

能道具を取り上げられたことに対して怒ったとか陰で愚痴ったという話もないので、信忠は徹頭徹尾、父に従順だったと思われます。

反骨心が強い人だと、些細なきっかけで仲がこじれたりしますしね……と、和む話はこの辺にして、血なまぐさい話へ戻りましょう。

 

徐々に「織田の総大将」へ

こうして少しずつ権力を移乗されていった織田信忠。

天正五年(1576年)からは軍事分野でも、その動きが現れてきます。

同年2月の雑賀攻めではまだ信長が総大将で、信忠は副将のような立ち位置から信雄などの一門を率いていました。

そして前述の松永久秀討伐から、いよいよ信忠は総大将として出陣するようになるのです。

翌天正六年(1577年)4月には、石山本願寺攻めのため、一門や滝川一益・明智光秀・丹羽長秀などの重臣たちを率いて信忠が出陣。

このときは本願寺側が打って出なかったため、周囲の田畑を薙ぎ払って終わっています。

同じく4月、信長が右大臣を辞任して「嫡男の信忠に高い官職を譲りたい」と朝廷へ申し出ていました。

対外的に「次の当主は信忠であり、これはもう揺らがない」と示す意味があったことがうかがえますね。

また、中国地方の毛利氏攻略を進めていた羽柴秀吉が、別所氏に裏切られて挟撃されると、信忠が5月に出陣し、播磨にとどまりながら8月までに別所氏の城をいくつか落としています。

活躍しているのは、むろん信忠だけでなく、各方面軍の活躍で、織田軍は四方八方へ勢力圏を広げていきました。

しかし同年10月、織田家にピンチが訪れます。

有岡城の荒木村重が謀反を起こしたのです。

西へ行くにも南へ行くにも、京都から見て通り道になる有岡城は摂津エリアの要衝であり、当然ながら放置はできません。

信長も危機感を抱いたのでしょう。11月に摂津へ出陣して信忠と合流しています。

このときも実質的な総大将は信忠で、信長はあまり指示を出していません。

天正八年(1580年)8月には、佐久間信盛・林秀貞・安藤守就が追放され、織田家は構造改革を実行。

信長の理不尽な対応としてよく例に出されますが、

「俺が倅に家を譲って模範を示したというのに、老臣どもがそれに倣わないのはけしからん」

と考えたのかもしれません。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用

特にこの三人は「能力がないではない。されど、他の人と比べて大きな功績もない」という点が共通しており、「働かないヤツは重臣だって解雇だぜ」という見せしめにも見えてきます。

まぁ、見せしめだとしたら、信長の言葉が足りなさ過ぎるような気もします。

何はともあれ、追放された重臣たちの与力(陪臣)や領地が信忠の支配下に入り、一気にその影響力は増してゆきました。

 


信玄の娘・松姫との婚約

ここまででお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。

織田信忠の生涯を振り返っているのに「結婚」とか「女性」の話が殆ど出てこないことに……。

戦国大名、しかも家督を継いだ者が妻を迎えない=子供を作らないというのは言語道断。

そこにはもちろん(?)、理由がありました。

時を遡って、信長が美濃を取ったばかり(永禄十年=1567年)の頃の話です。

当時、敵に囲まれた織田家に余力はなく、領地を接する上に信玄がまだまだ現役な武田家と事を構えるのは得策ではありませんでした。

そのため信長は一度頭を下げて、信玄へ同盟をもちかけたのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

このとき信長の姪っ子を養女として勝頼に嫁がせたのですが、彼女は子供を産んですぐに亡くなってしまいました。

そこでもう一度婚姻を結ぶために選ばれたのが、信玄の六女である松姫だったのです。

時勢が落ち着かないこと、当人たちがまだ幼いことにより、松姫はすぐには嫁いで来ませんでした。

甲斐では「信忠夫人」として扱われ、別の屋敷で育てられていたといいます。

しかし……。

結婚適齢期に入る頃には、時勢の変化によって織田と武田が手切れとなり、婚約は解消へ。

松姫はその後も他家へ嫁いでいないため、異母兄である勝頼がどのような心づもりでいたのかはよくわかりません。

一方で信忠も正室は迎えておらず、これまた理由がよくわからないところです。

松姫のことが心残りだったのか、それともどこか適切な家の姫を見繕っていたのか。

信長も正室との間には子供がいないとされているため、「正室なんていなくても問題ないでしょ?」なんて考えていた可能性もなくはないですかね。

一説には「その後も信忠と松姫は文通していた」ともされていますが、残念ながら物証は残っていません。

松姫が処分してしまったのか、それともにこの話自体が後年の創作なのかは判断がつきづらく……松姫については、また後ほど考察しましょう。

 

甲州征伐

織田信忠が最も活躍した合戦は何?

代表的な戦いは?

その質問に対する答えは、やはり天正十年(1582年)の【甲州征伐】が相応しいでしょう。

武田家では、敵方の織田に内応する家臣が現れていて機は熟した状態。

同年2月9日に武田領への侵攻を命令すると同時に徳川や後北条にも協力を求めました。

織田家では金森長近を飛騨方面から、伊那方面から信忠を先行させ、その後には家老役の河尻秀隆はじめ、滝川一益や森長可なども従いました。

河尻秀隆/wikipediaより引用

出発は2月12日。

順調に武田領へ進んだところ、大島城(現・長野県下伊那郡)ではろくな戦にならず占拠に成功し、信長公記によれば近隣の農民も織田軍を歓迎したといいます。

信長はこの間も信忠の進軍状況を知るべく、使者を出して調べさせていました。

すると「信忠卿は大島におられ、特段問題ないようです」との報告。信長としては苦戦しているようであれば自分も急いで出陣するつもりだったのでしょうか。

当初、信長は自分で後詰役になり、信忠と合流してから決着をつけるつもりでいたようです。

しかし戦況から「急ぐべき」と判断した信忠は、独断で侵攻を進めていきました。内応も相次ぎ、戦闘すらあまり起こらなかったためでしょうか。

重臣で、信玄の甥でもある穴山梅雪が寝返ったほどですから、当時の武田領の空気や推して知るべし。信忠が

「父上の返事を待っていたら、武田を滅ぼす好機を取り逃してしまうかもしれない」

と判断しても不思議ではありません。

その中で唯一大きな戦となったのが、武田勝頼の異母弟・仁科盛信の守る高遠城です。

仁科盛信/wikipediaより引用

彗星の観測や浅間山噴火等、当時「不吉」とみなされていた自然現象が続いて起こる中で、信忠は3月1日に高遠城の手前に到着しました。

周囲の地形等を調べさせた上で、信忠が高遠城総攻めを始めたのは3月2日早朝。

かなりスピーディーに事を進めたことがわかります。

保科正直という武田方の武将が城から内応しようとしたところ、信忠まで伝わる前に織田軍の攻撃が始まったとか。正直はなんとか脱出に成功し、後々徳川家に仕えています。

信忠はなぜか高遠城攻略を異様なほど急いでおり、これまでにない“殺る気”をギラギラさせていました。

なんでも「自ら武器を手にして、兵たちと競うように塀の上に登り、号令した」そうで。

大将として危険すぎる行動ですが、織田軍の士気は格段に上がりました。

殿様が敵のど真ん中に突っ込んでいくのを小姓や馬廻りの者たちが見過ごせるわけがないですよね。

なぜ信忠が自らの身を危険にさらしてまで、高遠城攻略を急いだのかは不明です。

父が来る前に華々しい功績を上げておきたかったのか、何か別の理由があったのか……。

そこで影響したかもしれないのが、前述の松姫です。

 

松姫はもういない 武田も滅亡した

実は高遠城の主である盛信は、松姫の同母兄でもありました。

彼女自身が一時期身を寄せていたほどです。

そして織田軍がやってくる前に松姫は盛信の娘を連れて高遠城から甲府へ向かい、さらに勝頼の姫や重臣・小山田信茂の娘も連れ、関東へ落ち延びたとされています。

おそらくは盛信や勝頼が「女子供であれば、見逃されたり敵軍の目をかい潜れる可能性がある」と考え、成人していた松姫にその役を任せたのでしょう。

「IF」に「IF」を重ねるような話ですが、もしも信忠と松姫の間で文通が行われていたことが事実であり、信忠がこの機会に「何らかの形で松姫を保護したい」と考えていたとしましょう。

そして「松姫は高遠城にいる」あるいは「高遠城を出たばかりだ」というところまで信忠がつかんでいたとしたら?

個人的な感情を抜きにしても「名門武田の血を引く子供をもうけて、いずれ武田旧臣の懐柔策に使いたい」なんて可能性もあります。

そういった理由で信忠は、松姫の行き先を信盛から聞き出すため、信盛が切腹する前に城を攻略したいと考えた……というのは、さすがに妄想の域ですかね。まあ与太話ということで。

史実としては、高遠城は総攻めが始まった3月2日に落ち、盛信は自害しました。その首は信長のもとに送られています。

その後、信忠軍は進軍を続け、3月3日は上諏訪方面へ侵攻、諏訪大社を含めて周囲を焼き払いました。

このため後の不幸を「諏訪明神の神罰である」という人もいたとか。

平家の例を思えばそういわれるのも致し方ないところですが、諏訪大社は地元の武士と強く結びついていたという面もありますので、戦略として見た場合はヒドイともいいきれません。

勝頼や武田の重臣が逃げ込む可能性も懸念したでしょうし。

一方その頃、武田勝頼は妻子を連れて逃げ続けていました。

北条夫人と武田勝頼、そして武田信勝の肖像画/wikipediaより引用

すでに味方の将兵がほとんどおらず、もはや一戦することも難しい状態。

あとは恥じない死に様を遂げるしかありません。

重臣の小山田信茂にも裏切られ、目指すは天目山棲雲寺――勝頼の先祖にあたる武田信満が自害したところです。

信忠は順調に武田領内へ侵攻し、3月7日には甲府へ到着。

ここで武田の一門や重臣を探し出し、成敗しています。織田軍の威風を見た近隣の武士たちは、信忠に降伏するため次々に名乗り出てきたとか。

信忠は、その対処に追われたのか、あるいは勝頼達の居場所を聞き出すためか、ここから数日間、甲府を動かなかったようです。

と、その間にようやく滝川一益が「勝頼一行が山中へ逃げていった」という情報を掴みます。

勝頼らが滞在しているという山梨郡田野の民家を一益に包囲させると、「もはやこれまで」と悟った勝頼は妻子を刺殺し、男たちは打って出て華々しく討死、あるいは自害したといいます。

武田勝頼と息子・武田信勝の首は一益から信忠に届けられ、信忠が実検した後に信長のもとへ送られました。

戦国大名としての武田氏は信忠によって滅亡に追い込まれ、その後、甲信の形勢は大きく変わっていくのでした。

 

信忠の判断で織田家が動いている

武田が滅亡したとき、信長はまだ岩村にいました。

3月5日には出陣していたものの、道中で盛信の首実検をしたり、雨に降られたりして進行速度が遅れたためです。

見方を変えると、織田信忠が自らの判断で名門・武田を滅亡へ追い込んだことになります。

信長にとってもこれは嬉しい誤算だったようで、信長公記では

「天下の儀もご与奪」=「天下を任せても良いと考えた」

と書かれています。

褒美として梨地蒔絵拵えの刀が信忠に与えられており、長男の手柄と成長を心から喜んだ様子が浮かんできます。

梨地とは金で梨の表皮のようにざらざらした装飾をつけることで、蒔絵は漆で描いた上に金銀を蒔く技法です。

ものすごく単純にいうと「鞘にめちゃくちゃ手間がかかった装飾がされている刀」=「超高級品」ですね。信長が信忠の働きに対して与えた評価がわかりやすく現れています。

また、勝頼が自害した3月11日には、武田から寝返った穴山梅雪が家康とともに甲府にやってきて、信忠に挨拶をしたことが記録されています。

武田家の重臣だった穴山梅雪/wikipediaより引用

信長ではなく信忠に、というのがミソですね。距離的な理由かもしれませんが。

甲州征伐で信忠に従った武将には、大きな領地を得た者もいます。

河尻秀隆:甲斐丸ごと

森長可:信濃で四郡

毛利長秀:信濃で一郡

甲斐・信濃へ侵攻したので、織田家ひいては信忠は、上杉氏や北条氏を強く圧迫する形になりました。

彼らは織田家による武田征伐をどう見ていたのか?

北条氏は織田軍の侵攻スピードをおおよそ掴んでいたようですが、積極的に協力する姿勢が見えなかったため、信長から疑われることになります。

天正八年から信長の娘と北条氏の嫡子・北条氏直との縁談が進んでいたというのに、思い切りの悪いことです。

北条氏直/wikipediaより引用

ほんの少し前まで武田-北条の同盟があったため、複雑な心境だったのかもしれませんが。

また、遠方では事実と異なるデマが多々流れていたようです。

北陸では「信長が討ち死にした」、中国地方では「信忠以下の織田軍が多く討ち死にした」などなど。

当時の情報・通信事情を考えれば仕方がないのかも知れませんが、「それってあなたの願望ですよね……」とでもツッコミたくなりますね。

 

毛利との対決に出陣要請

武田征伐の後は三男・織田信孝が四国遠征の大将に任じられ、信忠が餞の品を送っています。

記録上の両者はあまり接点が見られませんが、弟としてきちんと扱っていたということでしょう。

そして羽柴秀吉から中国攻めに関して信長へ出陣要請が届きます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

「毛利輝元が自ら出陣してきたため、ぜひとも信長様御自らのご出馬をお願いしたい」

中国地方8カ国に領地を有する強大な毛利。

輝元は言わずもがなその当主であり、全面対決を意識していたかどうか、本心は不明ながら信忠も信長と共に西へ向かいます。

信長は5月29日に京都へ到着し、本能寺へ宿泊。

この年の5月は29日までだったので、翌日は6月1日です。

親交の深い近衛前久父子をはじめ、公家衆が本能寺に来て挨拶や雑談していました。おそらくは信忠も同席したと思われます。

信長はその夜、上機嫌でこれまでの足跡を語り、右筆の村井貞勝や側近の小姓にまでねぎらいの言葉をかけたとか。

信忠も深夜まで信長と飲み交わしたそうで、さぞかし美味しいお酒だったことでしょう。

甲州征伐の首尾を考えれば、信忠への期待はさらに高まっていたはず。

そして信忠が自分の宿所である妙覚寺へ引き上げて数時間後、あの本能寺の変が起こったのでした。

 

本能寺の変

本能寺で信長が襲われたのは、天正十年(1582年)6月2日の午前4時頃とされています。

織田信忠はまだ就寝中でした。

妙覚寺へは数時間前に着いたばかりですから、それも当然のことです。

明智謀反の知らせを受け、信忠はすぐに本能寺へ向かおうとしました。

しかし、途中で村井貞勝父子から「既にご自害された」と聞き、

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用

宿所の妙覚寺には戻らず、二条御新造へ。

二条御新造はもともとは信長が京都での宿所として建てたものを誠仁(さねひと)親王に献上されていて、妙覚寺よりは防護機能もあり、籠城戦向きだと考えられたのです。

信忠は光秀軍と交渉して誠仁親王一家と女性たちを逃し、二条御新造で最後の一戦に臨みました。

小勢ながら、一時間以上に渡って抗戦したといわれています。

業を煮やした明智軍が、二条御新造隣の近衛邸から弓や鉄砲を撃ってきたり、放火したりしたため「これまで」と悟り、信忠は遺骸を床板の下へ隠すよう命じて自害したとか……。

享年26の短い生涯でした。

もしも信忠が途中で村井貞勝らと出会っていなかったら、どうなっていたか?

後世の人間が言っても詮無いことですが、信長の偉業のひとつ【金ヶ崎の退き口】を思い描いていたら……。

四国遠征軍として予定していた織田信孝や丹羽長秀のもとには、1万4000前後の兵がいたとされています。

本能寺の変当日の明智軍の兵数は諸説ありますが、多くて2万程度と思われるので、信忠が大坂へ逃げきることができれば正面から戦えた可能性もありました。

四国攻略軍の中にいた従兄弟の津田信澄も助かったのではないかと思われます。

史実では信澄の妻が明智光秀の娘だったため、内通を疑われて信孝や長秀に殺されてしまいました。

津田信澄
津田信澄の生涯|信長の甥で光秀の婿・本能寺の変後に迎えた悲劇的な最期とは?

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諸々の逸話からすると信孝は頭に血が上りやすいタイプだったと思われますが、信忠ならばそのあたりを冷静に指摘できたのではないでしょうか。

秀吉はおそらく史実と同じように行動したと思われるので、毛利軍と密かに停戦し、夜を日に継いで上方へ向かったでしょう。

その道中で信忠の生存を知れば、信忠を仰いで光秀討伐に動いた可能性が高そうです。

つくづく、信忠の従順さや潔さが裏目に出た形といえます。

まぁ、私などに指摘されるまでもなく大坂への逃亡なども当然考えたのでしょう。そして重々承知の上で最期の戦いに挑んだ……。

と、IFの話はその辺にして、最後に信忠の人柄を戒名から推測してみましょう。

 

戒名は「大雲院仙巌」

信忠の戒名は「大雲院仙巌」といいます。

信長は「総見院泰巌安公」なので「巌」の字が共通していますね。

巌は「大きくどっしりした岩」という意味ですので、信忠には信長と似たような重々しい雰囲気もあったということでしょうか。

肖像画からも似通っていたことがわかるので、外見や雰囲気はよく似た父子だったのかもしれません。

また、「仙」には非凡な才能を持った人という意味があります。偶然の一致なのか、幼名の「奇妙」と似ていますね。

これらを併せて考えてみると、やはり信忠は「信長の後継者としてふさわしい人物だ」と広く認められていたことがうかがえます。

院号からすると信長は「家中を総て見ていた人」、信忠は「家中を覆う大きな雲のような人」といったところでしょうか。

本能寺の変に関する文書は信長公記の他、宣教師の記録や奈良の僧侶の記録などがありますが、そのほとんどが信忠最期の戦いぶりを称賛しており、外部からの評価もかなり高かったようです。

そしておそらくは遺児となった三法師にも語り継がれたからこそ、長じて織田秀信となった彼は関が原の際に「さすがは信長公の孫」と称えられるほど奮戦したのでしょう。

織田秀信/wikipediaより引用

信忠が本能寺の変で諦めず、落ち延びて明智光秀を討伐していたら、少なくとも秀吉政権は誕生せず、織田の血が続く限りは徳川幕府も成立しなかったはずです。

日本史において最も夢のあるIFが実は「織田信長の生存」ではなく「織田信忠の生存」なのかもしれません。

なお、かつての婚約者だった松姫は、本能寺の変が起きた年の秋に八王子で出家し、江戸時代まで生き延びています。

後に家康が武田旧臣を多く迎えたこともあり、彼らの支えにもなっていたようです。

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現代では八王子市のゆるキャラ「松姫マッピー(→link)」としても存在感を残しています。

そして松姫の出家後の名は「信松尼」。

「信」の字が父・信玄や武田家からきているのか、顔すら合わせられなかった元婚約者・信忠からきているのか。

考えるとロマンがありますね。

信忠は信長と比較して記録や逸話が少なく、なかなか話題になりにくいというのが正直なところ。

しかし、その能力が決して信長の息子として恥じないものだったことは疑いようがありません。

近年では戦国時代を題材としたゲームでも登場するようになりましたし、信忠を主役とした小説も見かけるようになりました。

良いキャスティングの映画や長時間ドラマなどが作られれば、間違いなくさらに人気が出て、研究も進むのではないかと思います。

そして研究が進むごとに、早すぎる死を惜しむ人もさらに増えることでしょう。

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【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
織田信忠―天下人の嫡男 (中公新書)(→amazon
<織田信長と戦国時代>父の背を追い戦場へ 覇王の後継者織田信忠 (歴史群像デジタルアーカイブス)(→amazon
現代語訳 信長公記 (新人物文庫)(→amazon
織田信忠/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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