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その日、歴史が動いた 幕末・維新

大山捨松の激動すぎる人生 家老の娘→帰国子女→社交ダンサー→敵(大山巌)の妻

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お付き合いや結婚相手の条件についてはいろいろこだわりがある人が多いと思いますが、顔や身長・年収以外にも極めて重要なことがあります。
「共通の話題があるかどうか」です。
昔であれば「男性が稼ぎ、女性が家事と育児をするもの」とされていましたから、別にこうでなくてもうまくいっていた家が多かったのかもしれませんが、共働きがデフォルトの現在はまさに必須条件といっても過言ではないでしょう。
ところが、今から100年ほど前にも「共通点」をきっかけに結婚した夫婦がいました。

大正八年(1919年)の2月18日、大山捨松が亡くなりました。
陸軍大将だった大山巌の二人めの奥さんです。
実は18歳も年齢差のある夫婦なのですが、結婚するまでの経緯はまさに運命としかいいようのないものでした。

 

会津藩の家老の家に生まれたお嬢様

捨松は初名を山川さきといい、会津藩の家老の家に生まれました。
安政七年(1860年)生まれですから、既に幕末もいいところ。いつ幕府が瓦解してもおかしくないような動乱の時代でした。
戊辰戦争で新政府軍が会津若松城に攻めてきたときには、家族と共に城へ入り、負傷者の手当てや炊き出しなどをしていたといいます。
実はこのとき、攻め手の砲兵隊長が大山巌(当時は弥助)だったことで後々大問題になります。

そして戦争が終わり明治に入った後、旧会津藩の人々は苦難の生活を送りました。改易の上、極寒の地である斗南藩(青森県の最北短あたり)へ移ることになったのです。ホントは「旧領の一部・猪苗代かどっちか選んでいいよ」ということになっていたのですが、諸般の事情により斗南になりました。
斗南のほうが土地が広く農業がしやすいと考えたとか、寒さについては「そんなの慣れてるから大丈夫ですよHAHAHAHA」と思っていたとかいろいろ言われています。なんだか八甲田山と同じにおいがするというか、当時の人楽観的にも程があるやろ。

案の定、斗南に移った旧会津藩士たちは予想以上の厳しい気候により死者が多発。耐えかねて逃亡する者も出始め、ますます耕作は進まなくなってしまいました。
山川家も苦しい生活を余儀なくされましたが、家長の浩(ひろし、捨松の長兄)たちが開墾や教育に力を注いだおかげで少しずつマシになっていきます。
が、この状況ではどこの家でも一家全員同じ屋根の下で暮らすことは困難です。そのため、一人でも多く生きられるようにということで、年少者はあちこちへ里子に出されていきました。
捨松もその一人で、彼女は函館の沢辺琢磨という(当時珍しかった)キリスト教司祭の元へ行き、その縁からか同じく函館で暮らしていたフランス人の家に預けられることになります。

 

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ご遊学と思いきや、留10年でヤンキー娘に!

一方その頃、明治政府では岩倉使節団の計画が進んでいました。
使節団そのものについては以前取り上げましたので、過去記事をお読みいただければ幸いです。

このとき随行する留学生には「賊軍」と呼ばれ世間から冷たい目で見られていた者も参加が認められており、捨松のもう一人の兄・健次郎も加わっています。
女子の応募も認められていましたが、「留学期間は10年ね!お金は政府が出すから心配しないでいいよ!」という条件だったため、希望者ゼロというまさかの事態が起きます。現代でこそ留学する人はそう多くはないですし、それが10年ともなると親のほうが反対したであろうことは想像に難くありません。

しかし、捨松はフランス人の家で暮らしていたことから西洋文化に親しんでおり、山川家でも「いざとなったら健次郎が何とかしてやれ」という結論になったため、応募に踏み切りました。
最終的に女子留学生は5人。その全員が佐幕派もしくは賊軍とされた家の娘だったそうです。
戊辰戦争が終わって2年しか経ってないのに、よく政府側も認めたものですね。切り替えが早いのか背に腹は代えられない状態だったのか、まさか「賊軍のやつらなら死んでもいいや」とか思ってたなんてことはゲフンゲフン。

明治政府の思惑はともかく、こうして捨松は長い船旅を経てアメリカに渡りました。
ちなみに「捨松」という一見ヒドイ字面の名前になったのはこの頃です。無事帰ってこられるかわからない留学に際し、母親が「お前のことは一度捨てたものと思いますが、帰りを待つ(松)ことには変わりありませんからね」という意味をこめて名付け直したのだとか。
ということは帰国後改名しても良かったはずですが、そこは親からもらったものだからってことですかね。
日本には昔から魔除けの意味でわざと子供に汚い・縁起の悪い字をつけるという風習がありましたので、その一環かもしれません。大分時代が離れますが、紀貫之の初名なんて阿古久曽(あこくそ)という現代だったら確実にイジメの元になる読み方ですし。

アメリカではまたしても牧師のベーコン家で生活することになりました。
神の教えに感銘を受けたのかそれとも形式的なものだったのか、留学中に洗礼も受けていたようです。
ここの末娘アリスとは生涯を通じての友となり、勉強はもちろん交友関係も順調でした。

大学時代

大学を卒業した留学10年めには帰国命令が出たにもかかわらず、延長を申請し看護婦学校を卒業・看護婦の免許を取るなど、留学生の鑑ともいえるほどの意欲を示しています。
会津若松城での経験や、アメリカ赤十字社(捨松の留学中に設立)への関心があってのことでしょうね。

そして捨松は無事帰国しましたが、当時の日本では彼女が学んだことや看護婦の資格を生かせる場がまだ存在しませんでした。

帰国報告に参内した捨松

10年にも渡る留学で日本語がかなり危うくなっていたことに加え、まだまだ「女は奥にいるもの」とされていた社会では「アメリカ娘」と謗られる始末。これでは何のために留学して頑張ってきたのかわかりません。
さらに23歳になっていたため、母からも世間からも行かず後家扱いされ、親友アリスへ「まだ20過ぎたばかりなのに、母はもう縁談が来ないなんて言ってるのよ」と手紙を書いています。
いつの時代も母親の言うことって変わらないんですねえ。

 

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帰国後、まさかの敵の薩摩の嫁に!

ちょうどそのとき、巌は最初の妻・沢子を亡くして困っているところでした。
家庭のことを任せられる女性が必要というのもありますが、当時政府は西洋風の社交界を作ろうとしているところだったため、パーティーに連れて行ける奥さんが必要不可欠だったのです。
これについては沢子の父(巌にとっては舅)吉井友実もいたく心配していて、方々で候補者を探していました。

しかし、巌は当時軍での責任も重くなり始めていて、ドイツ語やフランス語で交渉に当たることもあったため、同等の語学ができる女性が必要でした。が、そんな人は国内に何人もいません。
こうして捨松に白羽の矢が立ったのです。

山川家では一瞬喜んだものの、かつての敵が相手と聞くと態度が激変。「敵のところへ嫁に行くなんてとんでもない!!」と大反対を食らいます。特に浩は会津若松城への砲撃で妻を亡くしていましたので、許せないのは無理もありませんでした。
ですが、それ以前に別の結婚披露宴で捨松を見ていた巌は既に彼女へゾッコン(古い?)でしたから、ただでは引き下がりません。親友・西郷従道(隆盛の弟)に間へ入ってもらい、粘り強く交渉してもらってようやく「そこまで言うなら、あとは本人の意思次第で」というところまでこぎつけました。
多分浩としては、捨松が自分と同じように「昔のこととはいえ、敵に嫁ぐなんてとんでもない!」と答えることを期待していたのでしょうね。

大山巌

が、西洋文化を身に着けて「老いては子に従え」どころか若い頃から親にも兄にも従う気のなかった捨松は、浩の想定外の返答をしました。
「お人柄を知らないのに、結婚するともしないとも言えません」と言い、直接会って話すことを望んだのです。今で言えばお見合いの後の「お二人でごゆっくり」をさせてくれというところですかね。デートほど砕けてはいなかったでしょうし。

こうして当人同士で会うことになったのですが、当初は巌の薩摩弁がきつすぎて会話がままならなかったとか。
戦時中薩摩弁は暗号代わりに使われていたことがあるそうですから、捨松が理解できないのも無理はない話です。巌も何年かヨーロッパへ留学してたはずなんですけども、それでも消えない方言ってスゴイですね。
しかし、お互い留学経験があるというのは聞いていたのか、英語で話し始めるとたちまち意気投合したといいます。想像するとなかなかシュールですが、結果オーライということで。
ルイ・ヴィトンの最初の日本人顧客であり、自他共に「西洋かぶれ」と認めていた巌と「アメリカ娘」捨松はすぐに惹かれあっていき、捨松は三ヵ月後アリスへの手紙で「家族に反対されても、巌さんと結婚したい」と意思をハッキリさせています。
出会うきっかけはお見合いに近いですが、実質的には恋愛結婚に近いですね。

二人はできたばかりの鹿鳴館で披露宴をし、1000人以上もの招待客が詰め掛けたそうです。
既にドレスや西洋式のマナー、そしてダンスに慣れていた捨松は、その後も鹿鳴館で行われる欧米の外交官達と鮮やかに渡り合ってみせます。日・独・英・仏の四ヶ国語全てを冗談が言えるレベルで話せる女性なんて、当時の日本には捨松以外いなかったでしょうね。
いつしか人々は捨松を「鹿鳴館の花」と称えるようになり、「アメリカ娘」と蔑む者はいなくなりました。

 

DQNじゃないよハイカラだよ 子供に「ママちゃん」と呼ばせる

その後捨松は今までの不遇を取り戻すかのごとく、日本初の看護婦学校の設立や、かつての留学仲間である津田梅子が大学を設立する際の支援をするなど、積極的に活動しました。
学校設立時の資金難にあたっては日本初のチャリティーバザーを開き、大きな収益を上げています。
このときもジョークと話術が生かされたようなので、もし彼女が実業家になっていたら……と考えるのも面白いですね。

ここまでバリバリ働いていたとなると家庭のほうが心配になってきますが、捨松はそちらについても器用にこなしていました。
巌との間には息子二人と娘一人が生まれており、先妻の娘三人からは「ママちゃん」と呼ばれるなどうまくやっていたそうです。ハイカラなお家ですね。
小説「不如帰」に出てくる意地悪な継母のモデルが捨松とされていたため、彼女を悪妻と勘違いした人もいましたが、お約束の脚色でした。全く違う人物にするなら、作者が「モデルがいる」なんて言わなければいいだけの話のような気がするんですけども。
作者・徳冨蘆花が謝ったのは発表から19年後(捨松が亡くなる直前)になってようやくだったそうで、元々気の利かない人だったんですかね。いい迷惑だ。

 

インフルエンザで死亡

晩年の捨松は巌に先立たれた後、公の場から退いて静かに暮らしていました。
旧友・梅子と女子英学塾(現津田塾大学)の危機には駆けつけたものの、落ち着くと同時に当時世界中で流行っていたスペインかぜ(インフルエンザ)にかかり、そのまま息を引き取ります。
スペインかぜは第一次大戦終結の遠因にもなったともいわれるほどの凶悪なA型インフルエンザでしたから、58歳という(当時の)老齢にさしかかっていた捨松の免疫力では抵抗しきれなかったのでしょう。
長く苦しまずに済んだこと、先立たれていた息子に早く会えたことは不幸中の幸いだったかもしれません。

気の合う夫と連れ添うことができ、留学で学んだことを活かしきり、母としても立派に子供を育てた捨松ですから、未練もあまりなかったでしょうね。
大河ドラマの記事を書いていたとき「大山捨松を見たい!」という意見をたびたび見かけたんですが、その理由が分かった気がします。留学とか外国語を使う場面が多いからキツいんでしょうかね?

長月 七紀・記

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参考:大山捨松/wikipedia

 





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