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島津義弘/wikipediaより引用

島津家 その日、歴史が動いた

島津義弘85年の生涯をスッキリ解説!最強・鬼島津は関ヶ原をどう切り抜けた?

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戦国時代には、合戦から内政、外交まで何でもござれの「チート」一家が2つ存在します。
誰もが納得するのはおそらく細川幽斎(藤孝)・忠興親子と、いわゆる「島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)」でしょう。

今回は元和五年(1619年)7月21日に亡くなった、島津四兄弟の次兄・島津義弘のお話です。

伝説的な戦ぶりや人柄などにより、人気も知名度も非常に高い戦国武将の一人ですよね。
あまりにも戦歴が華々しいので想像しにくいですが、そんな彼も若い頃には失敗や苦戦をしたことがありました。
一つ一つが濃いエピソードばかりとなりますので、今回は義弘の生涯全体を追ってみましょう。

 

初めから鬼だったワケじゃなく若い頃は苦戦や失敗も

義弘は、天文四年(1535年)に島津貴久の次男として生まれました。
兄・義久とは2歳、弟・歳久とは5歳、家久とは12歳離れています。
義久と一番年齢差が少なかったからこそ、後々のアレコレの際も心を通わせることができたのかもしれませんね。

19歳のとき、父にしたがって初陣を果たして以来、自ら首を挙げるなどの武功には事欠きません。
しかし、22歳のときには五本も(!)矢を受けて重傷を負ったこともあります。
若い頃に自ら大怪我をした経験が、戦上手の下地になったのでしょうか。

また、30代半ばまでは隣国・日向(現在の宮崎県)の伊東義祐(よしすけ)、そして大隅(現・鹿児島県東部)の肝付(きもつき)氏などに苦戦したこともありました。
後に「鬼」と称される義弘も、若い頃は苦戦したり失敗することがあったのです。

成功し始めるのは、兄・義久が島津家の家督を継いでからのこと。
義弘37歳のとき、伊東家に対し1/10の兵数で奇襲を仕掛け、撃退するという華々しい戦をしています。この戦を「木崎原の戦い」というのですが、これが伊東家の衰退と耳川の戦いの布石となりました。

また、このあたりから「本拠に腰を据えて指示を出す義久」と、「前線で総大将を務め武功を挙げる義弘」というように役割分担ができていきます。

 

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破竹の勢いで九州を制圧しかけたそのとき、秀吉がやってきた

その後はまさに破竹の勢いで九州を北上しながら、義弘52歳のとき、その流れが突如ぶった切られます。

豊臣秀吉です。
島津を相手にしきれないと判断した大友家が、同家に救援を求めたのです。

精強な兵と優秀な指揮官を持つ島津家も、数だけは覆せませんでした。
当主である義久は降伏して家を残す道を選びましたが、義弘や歳久はそう簡単には納得できません。
徹底抗戦を主張するも、義久の説得により、義弘も降伏に同意しました。

そしてこのことが秀吉の目に留まります。
「一時は反対しても、兄・義久の意見ならば最終的には従う義弘」という島津家は厄介だとして、秀吉が両者の離間を画策したと思われます。具体的には、義久と義弘の扱いに差をつけたりなどしたのです。

しかし、鎌倉以来長年続く島津家。義弘は生涯兄を尊敬し、当主として立て続けたため、これは失敗しました。

“人たらし”ゆえに、人が気を悪くする条件も知っていた秀吉。
それを見抜いていたであろう義久と義弘。

派手な戦に比べると地味ですが、こういった政治的な駆け引きもなかなかに胸が躍ります。

イラスト/富永商太

 

文禄・慶長の役にも渡海し奮戦 しかし嫡男・久保を失う……

その後、義弘は秀吉や豊臣政権に対して協力的に接しました。
文禄の役・慶長の役の両方とも渡海し、奮戦しています。

これまたゲスい見方をすれば、秀吉にとっての表向きは「島津の武勇を大陸でも見せてくれ」、真の狙いは「気候の違うところであれば、さすがの島津も苦戦して勢力を弱めるに違いない」というところですかね。

しかし、ここでも義弘以下の島津軍は秀吉の思うようには行きません。

朝鮮の役では戦死者の他に餓死者・凍死者が多かったのですが、元々義弘が日頃から兵を気遣う姿勢でいたこともあり、島津軍には凍死者が少なかったのです。
それでも全く被害がなかったわけではなく、朝鮮滞在中に嫡男・久保を病気で失っているのですが……。餓死という説もありますね。

義久には男子がなく、久保が義久の娘・亀寿を正室にしていたため、島津家の次期当主とみなされていました。
そんな人物が餓死するって一体……と思ってしまいますが、久保には兵を気遣うあまり、自らを省みないところがあったのかもしれません。

慶長の役でも島津軍は他家と協力して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将を討ち取ったり、三倍以上の敵に打ち勝ったりと奮戦しています。
義弘にとって、慶長の役は久保の弔い合戦という意味もあったのでしょうか。

 

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一度聞いたら忘れられない弩級のインパクト・島津の退き口

次に義弘の名が大々的に、そして伝説的に出てくるのは関が原の戦いです。

島津家得意の「捨てがまり」を最大限に活かし、敵陣、それも赤備えの井伊直政部隊を突破した撤退戦「島津の退き口」の話は、一度聞いたら忘れることができないインパクトを持ちます。

敗北必至となった西軍。
そこに控えていた島津義弘は、東軍に対して背中を見せて西へ逃げるのではなく、甥の島津豊久らと東軍へ突っ込んで行きました。

彼らの行く手を遮ったのが徳川四天王の井伊直政本多忠勝でしたから、戦いは壮絶の一言に尽きます。事実、井伊直政は、このときの傷がもとで死亡したとも考えられます。

そんな死地を義弘は駆け抜け、そのまま伊勢街道から難波の港まで出ると、立花宗茂らと船で帰国しました。
途中、黒田官兵衛の黒田家に追い詰められそうになった――そんな話もあるほど逼迫した逃亡劇でした(生きて帰国できたのは300人中80人とも)。

さらなる詳細については、以下の記事をご参照いただければ幸いです。
個人的に、このお話は立役者の名前と共にお送りしたいのです。

島津の退き口を成功させた陰の立役者・中馬重方が熱い!

なぜ成功したのか?と考えますと、ただ単に「島津家は結束が固かったから」というよりは、「血族や家臣が文字通り身代わりになろうとするほど、義弘の日頃の求心力が高かった」と受け取るべきでしょうかね。

こうして皆に生かされた義弘は、薩摩に帰ると、国境の防備を固めながら徳川家との和平に動きはじめました。
ここで退き口の際ぶん殴った井伊直政を頼ったり、代々付き合いのある近衛家の前久(信長のマブダチだった公家の人)に頼んだり、というあたりが抜け目のないところです。
福島正則の口添えもあったとか、なかったとか。正則のこういう「俺が見込んだ武人には何としても味方するぞ!」という性格は、こざっぱりしていて気分がいいですよね。

これに対し、徳川家康は「あくまでワシに逆らうのか、よろしい。ならば戦争だ」(超訳)とし、黒田・加藤・鍋島の各家を含めた3万の軍を派遣しています。

しかし、島津家は元々積極的に関が原に参加しようとしていたわけではなく、たまたま上方に居合わせていた義弘とわずかな兵が参戦しただけ。それも伏見城の鳥居元忠に助力(入城)を断られたなんて経緯があったことも指摘されますよね。
そのため、薩摩本国には義久も健在でしたし、精強な兵を多く残していたため、さすがの家康も最終的に「真っ向勝負は得策ではない」と判断します。




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そこで
「今日はこのへんで勘弁してやんよ! ワシと義久は友達だし、あれは義弘の独断だったんだもんな^^」(超訳)
という理由で島津討伐を取りやめました。……だったら他家を巻き込む前に言えよと(※個人の感想です)

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