島津義弘

島津義弘/wikipediaより引用

島津家

島津義弘(四兄弟の次男)が鬼島津と呼ばれる功績が凄い 85年の生涯

戦国時代には“伝統ある名門”というだけでなく現代にまで家を残したチートな一族が存在します。

その代表としてパッと思いつくのが細川藤孝(細川幽斎)・細川忠興親子と、いわゆる「島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)」ではないでしょうか。

今回は元和五年(1619年)7月21日に亡くなった、島津四兄弟の次兄・島津義弘に注目です。

伝説的な戦ぶりや人柄などにより、人気も知名度も非常に高い戦国武将の一人ですよね。

あまりにも戦歴が華々しいので想像しにくいですが、そんな彼も若い頃には失敗や苦戦をしたことがありました。

一つ一つが濃いエピソードばかりとなる、義弘の生涯全体を追ってみましょう。

【島津四兄弟】

長男・島津義久
次男・島津義弘
三男・島津歳久
四男・島津家久

父・島津貴久
祖父・島津忠良

 


島津義弘~祖父の忠良がスパルタ教育係

義弘は、天文四年(1535年)に島津貴久の次男として生まれました。

※以下は島津貴久の生涯まとめ記事となります

島津貴久
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長男・島津義久(1533年)は2歳上、三男・島津歳久(1537年)が2歳下、四男の島津家久(1547年)とは12歳離れています。

島津義弘はじめ四兄弟は、父だけでなく祖父・島津忠良(ただよし)の影響を強く受けて育てられました。

忠良は島津日新斎とも呼ばれ、いわゆる「島津中興の祖」とされる人物。

当時の薩摩は分家や本家で勢力争いが繰り広げられていて、島津忠良と島津貴久(四兄弟の父)が実力行使で勢力を拡大していきました。

そして四兄弟が生まれた後は、祖父の忠良が教育係を担ったのです。

その中身が、さすが薩摩。

長男の義久に対しては「不動明王と愛染明王の信仰」でもって自分を強く律することを課し、他の三兄弟たちには「とにかく兄が絶対! 言うことを聞け!」というものでした。

教えは無事に浸透したのでしょう。

一人ひとりの個性が強烈なため戦場ではまとまりを欠きそうですが、実際はその逆で、ひとたび合戦が始まれば全員の協力体制でコトは進んだのです。

そんな教えもあってか。義弘含む三兄弟は天文二十三年(1554年)、三人揃って初陣に出ていたのでした。

 


三兄弟そろっての初陣~岩剣城の合戦

彼らの初陣は【岩剣城(いわつるぎじょう)の合戦】でした。

戦いの相手は入来院氏(いりきいんし)で薩摩の国衆。

このとき島津義弘は数えで20歳、長男・義久は22歳、三男・歳久は18歳ですので、当時のデビュー戦としては少し遅い印象がありますね。

岩剣城は標高150メートルの山上に建ち、三方を絶壁の崖に覆われた堅城であり、一連の戦いでは島津家初となる「鉄砲」も使用されました。

戦いは島津軍の勝利でした。

三兄弟は「その勇威におそれるなり」として敵が引き揚げたなどの記録があり、首尾は上々だったようで、義弘は島津のお家芸【釣り野伏】を繰り出し敵を撃破しています。

奪った岩剣城には義弘が入り、三年間城番を務めました。

その後も義弘は国内統一のため獅子奮迅の働きを続け、蒲生範清の蒲生本城(竜ヶ城)へ攻め込んだときには全身に五箇所の矢を受け重傷を負ったこともあります。

また、30代半ばまでは隣国・日向(現在の宮崎県)の伊東義祐(よしすけ)、そして大隅(現・鹿児島県東部)の肝付(きもつき)氏などに苦戦したこともありました。

後に「鬼」と称される義弘も、若い頃は苦戦したり失敗することがあったのですね。

というか地元制圧のための戦いを重ねに重ね、若い頃に自ら大怪我をした経験が、戦上手の下地になったのかもしれません。

華々しい活躍が戦国ファンの胸をアツくするのは、兄・義久が島津家の家督を継いでからのこと。

義弘37歳のとき、伊東家に対し1/10の兵数で奇襲を仕掛け、撃退するという華々しい戦をしています。

この戦を【木崎原の戦い】と言い、伊東家の衰退と、後の【耳川の戦い】の布石となりました。

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また、このあたりから「本拠に腰を据えて指示を出す義久」と、「前線で総大将を務め、武功を挙げる義弘」という役割分担ができていきます。しかし……。

 


破竹の勢いで九州を制圧しかけた、そのとき……

破竹の勢いで九州を北上しながら、名前を轟かせていく島津家。

しかし義弘52歳のとき、その流れが突如ぶった切られます。

豊臣秀吉です。

島津を相手にしきれないと判断した大友家が、秀吉に救援を求めたのです。

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精強な兵と優秀な指揮官を持つ島津家も、数だけは覆せませんでした。

当主である義久は降伏して家を残す道を選びましたが、義弘や歳久はそう簡単には納得できません。

徹底抗戦を主張するも、義久の説得により、義弘も降伏に同意しました。

そしてこのことが秀吉の目に留まります。

「一時は反対しても、兄・義久の意見ならば最終的には従う義弘」という島津家は厄介だとして、秀吉が両者の離間を画策したと思われます。

具体的には、義久と義弘の扱いに差をつけたりなどしたのです。

しかし、鎌倉以来長年続く島津家。

祖父の教えもあってか、義弘は生涯兄を尊敬し、当主として立て続けたため、これは失敗しました。

“人たらし”ゆえに、人が気を悪くする条件も知っていた秀吉。

それを見抜いていたであろう義久と義弘。

派手な戦に比べると地味ですが、こういった政治的な駆け引きもなかなかに胸が躍りますね。そして……。

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