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樋口季一郎/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代 WWⅡ

旧陸軍・樋口季一郎 ヒトラーに抗議されながらもユダヤ人5,000名を救う

更新日:

学校の授業ではなかなか難しいですが、歴史の場合「多角的に見る」ことがとても重要かと思われます。
わかりやすいのはやっぱり織田信長でしょうか。一昔前のように延暦寺焼き討ちや伊勢長島の討伐だけを見て「信長は残酷だ!」とするのは簡単ですが、一方で皇室や寺社を保護していた常識人としての一面もありますし、秀吉の妻・ねねから夫の素行について泣きつかれたときの手紙などでは、女性への優しさが垣間見えたりします。
そんな感じで、歴史上の人物は「知れば知るほど好きになる」というケースが非常に多いと思われ(逆もしかり)、今回はその一例として、近年のとある軍人をご紹介させていただきます。

明治二十一年(1888年)8月20日、陸軍軍人の樋口季一郎が誕生しました。

“旧軍の軍人”というと悪い面が注目されがちながら、今村均のように敵味方からも称賛されるような人格者はおり、樋口もまたそうした人物の一人であります。
初名は樋口姓ではないのですが、わかりやすさ優先で最初から統一させていただきます。

 

陸軍士官学校と東京外語学校を出た秀才

樋口の生い立ちは、なかなか波乱に富んだものでした。

生家の奥濱家は、江戸時代に廻船問屋(海運業者)と地主をしていた裕福な家でしたが、明治維新以降は蒸気船に圧されて没落。
樋口が11歳のときに両親が離婚し、母の実家である阿萬家に引き取られました。

18歳になると父方の叔父の娘と結婚し、婿養子に入って樋口姓に改めています。叔父も樋口家の婿養子だったので、「奥濱」姓ではないんですね。

結婚してからも勉学に励み、陸軍士官学校と東京外語学校(後に東大・一橋・外大となる)を卒業。学生の間にロシア語を深く学び、31歳のときウラジオストクに赴任しました。
他に満州やロシア各所、ポーランドにも赴任しています。

そこで、後年の行動に関わるような経験をするのです。

 

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「日本の天皇はユダヤ人を救ってくれるに違いない」

ポーランドでは、現在のジョージアあたりを旅行していたとき、とある集落で偶然、ユダヤ人の老人に話しかけられました。
おそらくは旅行者が珍しい土地柄で、何となく話しかけられたのでしょう。

話をするうちに樋口が日本人だということを聞くと、その老人は彼を家に招きました。
そして、歴史的にユダヤ人が世界中で迫害されてきたこと、「日本の天皇はユダヤ人を救ってくれるに違いない」と信じていることを話したのだそうです。

なぜ、その老人が日本の天皇に希望を抱いたのかはわかりません。
日露戦争で「有色人種が白人に勝った」ことを高く評価した国は多かったので、その流れですかね。
現在もそうですが、ジョージアを含めた中央アジアの国は、代々のロシア政府にアレコレされていますし、ユダヤ人迫害も行われていましたし。

また、ロシア系ユダヤ人の家に滞在したこともあったそうです。

これらの経験が後々、樋口に重大な決断をさせることになります。

 

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陸軍の相沢事件に巻き込まれ

樋口の人格を知る上でもう一つキーになるのが、昭和十年(1935年)に起きた「相沢事件」への反応です。
この事件については、当時陸軍にあった「統制派」と「皇道派」という二つの派閥のことを挟まなければなりません。少々長くなりますがご勘弁ください。

現代人からすると、幕末の「攘夷派」とか「尊皇派」のような印象を持たれるかもしれませんが、中身は全く違います。

「統制派」は「自分たちの主張を陸軍大臣に聞いてもらい、そこから政府に話を通してもらって、理想の軍隊にしていこう」という考えの人たち。
「皇道派」も自分たちの意見(主に昭和天皇親政による“強国”の実現)を政府に聞いてもらおう……というところは同じなのですが、「そのためには物理的な手段も選ばない」という点が大きく違いました。

当然、二つの派閥は激しく対立します。

昭和天皇は立憲君主としての立場を崩したがらなかったので、そもそも皇道派の考えは昭和天皇の意見と合致しておらず、天皇の政治利用に等しいんですけどね。熱血すぎてそこまでの考えに至らなかったようです。
また「統制派という派閥はなかった」とする考えもありますが、話の上ではあったほうが少しわかりやすくなるのでそのまま使わせていただきます。

この「統制派」の代表的人物とされるのが永田鉄山(てつざん)という人でした。
相沢事件は、皇道派の相沢三郎という人物が永田を惨殺した事件のことです。

この相沢が事件の直前まで樋口の部下だったため、樋口は責任を感じ、上官の小磯国昭(くにあき)にお伺いを立てたといいます。
樋口が直接関係していないこと、その程度の関係で処罰するには惜しい能力を持っていたことから、小磯は樋口を慰留し、当時の赴任地であるハルビンにとどまらせました。

 

「ヒグチ・ルート」で4000人以上が救われた

それから二年後、ハルビンの地で第1回極東ユダヤ人大会が開かれます。

既にヨーロッパでは、ドイツで例のチョビ髭ヒトラーが台頭しており、ユダヤ人やロマ族などの迫害を進めていました。
この時点の東アジアには、ドイツ国内ほどの影響力がなかったと思われますが、ソ連の動向によっては手遅れになる可能性もあったでしょう。

ドイツと同盟関係にあった日本がどう動くのか。ユダヤ人たちはさぞ緊張していたと思われます。

この大会に、陸軍の中でヨーロッパ情勢やユダヤ人についての知識を持つ者が数人派遣されました。そこに樋口も含まれており、祝辞を述べています。

その中で彼は「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と主張し、間接的にちょび髭党の政策を批難しました。
列席したユダヤ人たちは拍手喝采し、瞬く間にこの話はユダヤ人コミュニティの中で広がったようです。

大会から三ヶ月後、ソ連と満州の国境にあるシベリア鉄道・オトポール駅(現・ザバイカリスク駅)に、18名のユダヤ人がヨーロッパから逃げてきました。

彼らの目的地は上海租界。そこへ行くためには、満州でさまざまな事務手続きをしなければなりません。
しかし、満州政府はドイツとの関係悪化を恐れ、なかなか手続きを進めたがりませんでした。

これが極東ユダヤ人協会の代表であるアブラハム・カウフマンから、樋口に伝えられます。
樋口は見るに見かねて、部下たちと共にユダヤ人たちへ食料や衣類、寒さを凌ぐための燃料、医療の手配、上海へ行くためのルート確保を行いました。

この話もまたユダヤ人たちの間に広まり、いつしか「ヒグチ・ルート」と呼ばれるようになります。
1938年から1940年にかけて、このルートで上海へ渡ったユダヤ人は4000人以上にのぼったとか。

 

「ヒトラーのお先棒を担いで、弱い者いじめが正しいか?」→東条英機も不問に付す

この件に対して、やはりドイツから抗議が届きました。

陸軍の内部からも樋口への処分を求める声が高まりますが、樋口は東条英機などの上司たちに対し
「ヒトラーのお先棒を担いで、弱い者いじめをするのが正しいと思いますか?」
と主張したそうです。

東条もこの意見に納得し、樋口を不問にしました。
その後、再三にわたってドイツから抗議をされても「人道上の配慮は当然」とはねつけています。

これが「オトポール事件」と呼ばれている件です。もっと知られていい話だと思うんですが、なかなか広まりませんね……。

オトポール事件では、一説に「二万人のユダヤ人が救われた」となっています。
が、後に樋口の回想録が再版された際、誤植か改竄がされたようで、実数は5000人程度という見方が妥当なようです。

樋口はオトポール事件の際、かつて出会ったジョージアのユダヤ人のことを思い出したといいます。
10年以上経っても覚えていて、自分や国の立場が危うくなるような行動に移すというのもスゴイですね。

同じくユダヤ人救済のために動いたオスカー・シンドラーやラウル・ワレンバーグとも共通するのは、「何らかの個人的な形でユダヤ人と関わっていたことがある」という点です。
やはり親しい間柄の者がいると、情や熱意が生まれるものなのでしょう。

 

大ピンチだったキスカ島の撤退劇で奇跡的に被害ゼロ

樋口はその後も、主に北方方面に所属していました。
特に著名なのは昭和十八年(1943年)のアッツ島の戦い・キスカ島撤退、昭和二十年(1945年)の樺太・占守島防衛です。

それぞれで一つの記事にできてしまうほどの文量になりそうなので、今回はざっくりとまとめさせていただきます。

まず、アッツ島とキスカ島は現在のアメリカ・アラスカ州に属する北太平洋の島です。

キスカ島のほうがアメリカ本土に近いため、日本軍はキスカ島に戦力を多く送っていました。しかし、米軍がアッツ島を先に攻めたので予測が外れます。
また、これらの島々は霧が発生しやすく時化になることも多かったため、兵の精神面も大きく損なわれていたようです。

その結果、アッツ島守備隊は文字通り全滅。米軍の飛行場があるアムチトカ島と挟まれることになったキスカ島の兵は、絶体絶命の状況に追い込まれたました。

大本営は北方方面の放棄と、キスカ島守備隊の撤退作戦を決めます。
キスカ島の守備隊を撤退させるための艦隊を指揮したのが、木村昌福(まさとみ)という人でした。木村は紆余曲折の末、「この地特有の濃霧に紛れて艦隊をキスカ島に到着させ、直ちに乗船・撤退する」という作戦を樋口に提案しました。

一刻を争う状況だったこともあり、樋口は大本営の許可を待たずに許可を出し、実行。
武器の積み込みにかかる時間も惜しいため、武器を海中に投棄させたことも功を奏し、奇跡的に被害ゼロで撤退を成功させています。

インパール作戦やガタルカナル島など、激戦地が多かった南方戦線の悲惨さが際立つために、あまり語られませんが、このように北方も厳しい状況下にありました。

 

樺太では40万人もの一般人も入植しており……

北方戦線の場合、8月15日後にソ連軍が中立条約を破って攻め込んできたという苦難もありました。
それが樺太・占守島防衛です。

占守島はいわゆる“北方四島”よりもさらに北にある島で、カムチャツカ半島の先端から飛び出たようなところに位置します。
この島ではほとんど戦闘がなかったため、食糧や弾薬が終戦間際まで残されていました。

占守島には夏期にだけ稼働する缶詰工場があり、終戦時は2000人ほどの民間人もいたといわれています。

一部の人は戦闘の合間を縫って、キスカ島同様に霧に紛れて船で脱出することに成功しましたが、1600人前後が取り残されたようです。
しかし、ソ連にとっては軍事的価値が薄いとみなされたのか、その後も取り残された人は移住してきたソ連人とともに漁業などに従事し、結婚する人もいたそうです。
もちろん、帰国を希望した人は帰国しています。

一方、樺太では一般人の入植がかなり進んでおり、40万人以上が生活していました。

軍隊であっても、40万人も撤退するには綿密な計画と能力が必要です。まして、一般人の中には子供や老人も含まれています。
一人でも多く逃がすためには、軍がギリギリまで踏みとどまること、一般人を徴用してでも武器を取れる人数を増やすことが必要でした。

また、当時のソ連は北海道をも狙っており、そのためには樺太を自国の前線基地として確保するのが良いと思われていたようです。
人口が多い=町がある=インフラと食糧・水が確保できる、ですからね。

その結果、樺太各所の戦いは極めて熾烈なものとなりました。

 

確かに犠牲者は出た だからこそ無事に帰国できた者も多かった

先日(2017年8月)のNHKで樺太の戦いを扱った番組では、樋口が悪者のようにも取れる描き方でしたが、この状況ではそうともいいきれないでしょう。

樋口が樺太や占守島を死守せよと命じたからこそ、引揚船に乗って助かった一般人もいたわけですし。
樺太にいた一般人で引き上げに成功したのは10万人、引揚船の撃沈などでソ連軍に殺害されたのは3700人前後でした。

他に軍民合わせて28万人が数年間、樺太からの移動を禁じられましたが、昭和二十四年(1949年)夏までに数回の引揚船が出され、北海道へ引き揚げています。

もちろん、多くの犠牲が出てしまったことは悲しむべきことですし、生存者や関係者の方からすれば恐怖や悔恨や悲嘆しかないでしょうけれども、そもそも悪いのは降伏を受け入れた後に侵攻してきたソ連軍ですよね……。
旧日本軍の責任は問われるのに、相手の責任や戦争犯罪がさっぱり触れられないのはあまりに酷い話です。
最近は一般の方のブログなどで、少しずつ取り上げられるようになってきましたけれども。

樺太の戦いが終わったときに、樋口はソ連軍へ降伏しています。

樺太周辺への進攻がうまくいかなかったことを恨んでか、極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)の際、スターリンは樋口を戦犯に指名しました。
しかし、世界ユダヤ人会議の呼びかけにより、欧米のユダヤ人金融家が中心となってロビー活動が行われ、ダグラス・マッカーサーがソ連からの引き渡し要求を拒否。樋口は戦犯として裁かれることはありませんでした。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンもスターリンの「樺太と北海道の北側をよこせ」という要求をはねつけていますから、樋口の助命が目的というよりは「ソ連に出張ってこられると面倒だから」というのが理由の9割ぐらいでしょう。

樋口は戦後、北海道で一年、宮崎で二十年ほど過ごした後、最晩年には東京に住んだようです。
その時期のことがあまり知られていないのは、彼自身が表に出たがらなかったからでしょう。

生き延びた軍人たちの戦後の動向も、またそれぞれに個性が出ていて興味深いところです。

長月 七紀・記

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参考:樋口季一郎/wikipedia

 





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