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一国一城令をわかりやすく!実際は一つの国に一つの城じゃなかった?

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戦国時代の日本。
戦乱の世の中で、一体どれだけの城が作られたか、ご存知でしょうか?

500?
1,000?
いやいや、思い切って2,000ぐらいかっ?

皆さま、残念、ブッブー!
答えは、全国で3,000から4,000に達する数の城があったと推測されています。

それが一気に減らされたのが江戸時代

1615年に大坂の陣が終わると
【一国一城令】
が各大名家に出され、文字通り「1つの国にお城は1つだけ」という決まりが通達されました。

と、言うと、実はちょっと間違い……。
少し説明を加えますね。

この場合の国とは、山城国(京都)とか相模(神奈川)といったように旧国を表しますが、どうしたって
【1つの国を複数の大名で領地にしている】
ケースもあるわけです。

そんなときには、それぞれの藩(大名)の数だけ城が置かれました。

「これからの城は軍事施設ではなく、政庁として使うように(だからたくさんはいらないよね^^)」
という意味合いもあったと考えれば、当然ですね。

大名(藩主)による藩政の中心地でもありました。

上田城址夕景

 

西日本を中心に実施

まず一国一城令を出した幕府の本音は?

というと
「大名の力を削ぎ、将軍家に逆らえないようにしたい」
であります。

特に、豊臣家との結びつきが強く、関が原の際に処分しきれなかった大名の少なくない西日本には、かなり厳しい目が向けられました。
東日本については、秀吉の時代に多くが処分されていたというのもありますが……。

前述の通り
【一つの国を複数の大名で支配している場合】
には、大名ごとに一つずつ城を持つことが許されました。

ここで1枠を巡って
「ドコの家が城をもつか?」
なんて調整やってたら、ロクなことになりませんからね。

江戸時代の初期だと、それこそ紛争→戦争→幕府瓦解の嫌なコンボが決まりかねません。

そんなわけで、
「一国一城令が出された後も、藩の数と城の数は一致しない」
ことを覚えておくと、いろいろな大名家の歴史を見るときに、混乱を防げるかと思います。

特に大きな藩や、一つの国が広いところなどで、頭が混乱しがちです。
ここではいくつかの例外を見ていきましょう。

福島正則が勝手に改修を行い、改易に処されるキッカケとなった広島城

 

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加賀・能登・越中の三つの国を支配した加賀藩

デカイ藩の筆頭といえば、やはり「加賀百万石」と呼ばれる加賀藩(金沢藩)。
加賀・能登・越中の三つの国を支配し、実際は120万石をも超えていた――なんて話もある巨大な藩ですから、十把一絡げに扱うわけには行きません。

加賀藩の城数は三つではなく二つでした。

当初は、本拠地である加賀の金沢城だけを残して、他の城は破却しています。
ところが、二代目藩主の前田利常が徳川将軍家と親密だったため、一度破却していた小松城の再建を許されたのです。金沢城の二倍近い広さを持ち、前田家威勢の象徴ともなりました。

金沢城と石川門の桜

前田氏同様、「将軍家との関係で複数の城が許された」というパターンはもう一つありました。

鳥取藩の池田氏です。

鳥取藩は因幡・伯耆の二国であり、本来ならば一国に一つずつ、計二つの城を持つのが順当なところ。
しかし、鳥取藩主家は徳川家康の次女・督姫の血を引いていることから、外様大名の中でも別格扱いとされ、三つの城を持つことが許されました。

うち一つは陣屋(じんや・政庁として認められた屋敷のこと)扱いでしたが、あくまで名目上のことです。
萩藩(長州藩)をはじめとした周辺地域への備えという意味もあったようで、近所の黒坂藩が改易されてから、黒坂城が池田氏の陣屋として扱われたのです。

 

佐竹氏は久保田城・大館城・横手城の三城持ち

それらとはまた別の理由で、複数の城を許されたケースもありました。

久保田藩(秋田藩)の佐竹氏です。
ここは結構単純な理由で「一つの家で収めるには、領地が広すぎるから」でした。

久保田城

「じゃあなんでそんな割振りにしたんだよ!」とツッコミたくなりますが、もともと佐竹氏は関が原の際に西軍寄りの行動をして徳川家康に睨まれ、地元・常陸から引き離されたという経緯があります。

常陸から引っ剥がした時点で、”佐竹氏の力を削ぐ”という家康の狙いは、半分達成されていたんですね。
となると、後は恨みを買い続けないよう、多少は攻め手を緩めてやる必要があります。

その懐柔策の一つが、一国一城の例外扱いであり、
「出羽半国を佐竹だけで治めるには、城が一つじゃやりにくいよね。まだ転封してきたばっかりだし、城を三つ持っていいからシッカリね^^」
と認めることでした。

こうして、佐竹氏は久保田城・大館城・横手城の三城を持っています。

 

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萩藩・毛利氏は自ら城を減らしていた

逆に、複数の国を治めていても、一つしか城を持たない藩もありました。

前述の萩藩・毛利氏です。

萩藩は周防・長門の二ヶ国を持っていたので、一国に一つずつ城を構えていても問題はありませんでした。
しかし、毛利氏は自ら長門の萩城だけを残し、他の城を破却して幕府に報告しているのです。

萩城

それに対する幕府の返事は
「別に一国に一つずつ城を持ってても良かったのに(´・ω・`)」(※イメージです)
という、つれないものでした。

理由は、
・毛利氏内での統制のため
・幕府への遠慮が先走ったため
など複数の説があります。たぶん両方ですかね。

毛利氏は関が原の際、西軍の総大将にされていたという経緯がありますので、生き残るために少々過敏になっていたようにも見えます。

 

仙台藩と熊本藩でも変わった例外が

他の例外として、大名家ではなくその家臣が城を持つことを許されたケースもありました。

一つは仙台藩の白石城です。
初代藩主・伊達政宗の右腕、片倉景綱とその子孫が代々受け継いだ城。
江戸との近さもあって、家康は南東北の諸大名にはかなり警戒しています。

伊達家はその中でも江戸に近く、また政宗の動向が油断ならないと判断されたのか、政宗と景綱を離間させる目的で白石城の存続を許したと思われます。

白石城

もう一つは、熊本藩の八代城です。
細川氏の家臣・松井氏が治めていました。

戦国時代に細川氏の家老を務めていた松井康之が、関が原の戦いの際に機転を利かせて主家を守り、家康からの覚えがめでたくなったことで、名目上は徳川氏の直臣扱いになったのです。
そのため主家とは別に城を持つことが許されたのでした。

最初は麦島城という別の城にいて、元和五年(1619年)の地震で倒壊、八代城へと移っています。

八代城大天守台跡と小天守台跡

仙台藩の白石城は東北の押さえとして。
熊本藩の八代城は島津氏対策として。

そんな立ち位置だったと考えられます。

一国一城令は特に、戦国時代までの事情や、その土地・大名家固有の経緯がうかがえて、深掘りするのが面白い項目。
好きな大名家があるという方は、調べてみるのも一興でしょう。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「一国一城令」 一国一城令/wikipedia

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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