問題です。
関西エリアで特に人気を得ている丸ハゲ姿の売れっ子作家と言えば?
答えは『永遠の0』や『日本国紀』でお馴染みの百田尚樹氏では!
残念!
歴史的視点で見れば井原西鶴がダントツでしょう。
江戸時代に『好色一代男』や『世間胸算用』などジャンルに富んだ小説を数多く発表し、人気を博した西鶴。
元禄6年(1693年)8月10日が命日となりますが、実はもともと俳句を詠む歌人だったりします。
それが一体なぜ一大一派になるまでの組織づくりへと走るのかl

井原西鶴/wikipediaより引用
52年にわたる作家な人生を振り返ってみましょう。
幼い頃に父を亡くして家業も捨てて
西鶴は寛永19年(1642年)、大坂の裕福な町人の家に生まれたとされています。
ただし、幼いときに父親を亡くしているので、それなりに苦労をしたでしょう。
曖昧な言い方で申し訳ないのですが、彼はあっさり家業を手代(商家のそこそこエライ人)を譲ると、文学の世界へ飛び込んでいきました。
当時の西鶴は身分が高いわけでもない、ただの一般人です。
ゆえに細かい記録が残ってない。
後年の回想によれば、15歳の頃に俳諧を学び始め、21歳のときには点者(和歌や俳句の採点をする人)として独立していたと言います。
おそらく西鶴は、もっと小さい頃から俳句への興味関心を強く持っていて、地面が雨を吸い込むように知識を吸収していったのでしょう。
このころ俳諧の作風は大きく分けて2つありました。
ひとつは【貞門古風】です。
豊臣秀吉の右筆でもあった、松永貞徳という歌人の流派。

松永貞徳/wikipediaより引用
貞徳自身が歌学のプロなだけに、優美な雰囲気が強いものでした。
しかし、江戸では武士や庶民が多く、滑稽味や荒っぽさがより好まれたため、次第に勢力を弱めていきます。
もうひとつは【談林俳諧】です。
大坂で始まり、伝統的な歌風よりも新鮮さを重んじる流派でした。
それがエスカレートしてしまって、文学的価値があまり高くない句も多かったようですが、それはトレードオフというものですよね。
西鶴は初めに貞門古風の門を叩き、次に談林俳諧の祖・西山宗因(にしやま そういん)に師事していたようです。
結果、両方のいいとこ取り&西鶴自身のセンスで、良い句を多数生み出していきます。
まさに俳句の千本ノック
西鶴が俳人として名を上げたのは延宝元年(1673年)。
31歳のとき、大坂の生玉において「生玉万句」を興行したのがキッカケです。
当時、西鶴ら談林俳諧は、貞門古風の俳人たちから「阿蘭陀流(おらんだりゅう)」とけなされ、肩身の狭い思いをしている人もいました。
西鶴はそれをはねのけようと、わざと軽妙な句をたくさん作る「即吟(そくぎん)」を頻繁に行います。
延宝三年(1675年)、33歳のときには
【誹諧独吟一日千句】
を行いました。
字面から何やらシンドそうな印象を受けますよね?
その通りで、
・一人で
・一日に
・千句詠む
という凄まじいものです。
まさに俳句の千本ノック。
なぜ、こんなコトをしたのか?
というと、この年、妻を亡くしていたことが影響しているのかもしれません。
20代半ばという若さで亡くなった妻。
西鶴は、その悲しみを千句につぎ込んだ気がしてならないのですが……。
イベントあったってイイじゃな~い
延宝五年(1677年)。
35歳になった西鶴は、この年にも大坂生玉(いくたま)の本覚寺(→link)で
【一夜一日千六百句独吟】
という、これまた凄まじい連句を行っています。
そしてこちらは『西鶴俳諧大句数』と名づけて公刊されました。
いわゆる「矢数俳諧(やかずはいかい)」の最初でもあります。ちょっとややこしいのですが説明しておきますと……。
矢数俳諧とは、京都三十三間堂において行われる「大矢数(おおやかず)」にならったものです。
大矢数とは、一日の間に三十三間堂の南の端から北の端まで射通した矢の数を競う――そんな競技のことで、もちろん、数が多ければ多いほど優れた射手であるということになります。
最高記録を更新しようものなら「天下一」と褒めそやされました。
戦のない江戸時代のことですから、武術の腕を競うのはこういったスポーツ大会のような場だったんですね。
西鶴はこれに着目し
「大矢数で数が多ければ多いほど称えられるなら俳句にだってあっていいだろう」
と思ったようです。
もちろん、1600句も詠める人はそうそういません……といいたいところですが、二年ほどで二回も更新されてしまいました。
上には上がいる、とはまさにこのことです。
さすがに4,000句ってのは……成功!
西鶴は、歯噛みする思いで再び即吟記録更新を目指し、延宝八年(1680年)に再び独吟を行います。
今度の目標は、なんと4,000句。
しかもバッチリ成功しています。頭おかしい(褒め言葉)。
しかし、これで万々歳とはいきません。
天和二年(1682年)に師匠の宗因が亡くなり、これをキッカケに談林俳諧そのものが下火になってしまうのです。
松尾芭蕉を中心とする、新しい作風が優勢になっていたことも理由でした。
西鶴と芭蕉が同時に語られるということはあまりありませんが、実は彼らは同世代。
その辺も、もしかしたら西鶴の対抗心に日をつけたかもしれません。

松尾芭蕉(葛飾北斎画)/wikipediaより引用
西鶴はプライドをかけて、貞享元年(1684年)、大坂の住吉神社において2万3,500句独吟の矢数俳諧を興行し、成功しています。
もう私だったら確実に脳みそパンク。
しかし、それは西鶴も同じだったようで、この後、こんなわかりやすい歌を作っています。
「射て見たが 何の根もない 大矢数」
言わば「一人で悲願と気合を入れてやってみたが、結局何も変わらなかった」ということであり、何やら徒労感を感じさせますね。
”真っ白に燃え尽きた”矢吹ジョーな空気さえ漂っています。
『好色一代男』で小説家デビュー
西鶴は40代に入っていました。
「四十にして惑わず」という「不惑」という異称がありますが、西鶴もこの年代になってみて、今までの生き方ややり方を改めようと思い立ったのかもしれません。
天和二年(1682年)に今なお著名な『好色一代男』を執筆して、翌年出版。
俳句を離れて、小説家としてデビューします。

『好色一代男』/wikipediaより引用
実はこの作品、当初は俳諧師の仲間うちに向け、私家版として出版したものでした。
それが意外な反響を得て『好色一代男』は、西鶴が新しい道へ進むキッカケとなります。
「当初は小さな作品だったが、高い評判を得て世間に広がった」というのは、文学に限らずマンガなどの世界でも割とある話ですね。
時代が前後しますが、夏目漱石の『吾輩は猫である』も似たようなものです。
貞享元年(1684年)には、この好評を聞きつけた江戸の本屋が、菱川師宣の絵をつけて「好色一代男」を再出版。
大坂でも、ビジネスチャンスの匂いを嗅ぎつけた本屋が続編として『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ・しょえんたいかん)』(別名『好色二代男』とも)を出版します。
現代で言えば月9とか朝ドラ的な?
新しい生き方を見つけられると感じたのでしょう。
『好色一代男』の成功を受け、西鶴は住吉で最後の矢数俳諧を行いました。
小説の他に、浄瑠璃の脚本なども書くようになり、創作意欲が高まっていったようです。
以降、西鶴は主に「浮世草子(うきよぞうし)」の作家として名を知られていくことになります。
「浮世」とは、我々が生きているこの世界、あるいは世間を指します。
「草子」は紙を綴じた本のことです。
なので
「浮世草子」=「現世によくあるようなネタを描いた小説」
というような意味になります。
現代でいえば、いわゆる”月9”や朝ドラみたいなものかもしれません……いや、深夜放送みたいな話もあるんですけど。
・好色物・武家物・町人物・雑話物
西鶴の作品は、中心となるテーマによって
・好色物
・武家物
・町人物
・雑話物
に分類されます。
一つずつ解説していきますね。
好色物
最も有名なのは好色物で、先述の「好色一代男」などはここに入ります。
だいたい「色」という字が入っているので、わかりやすいですね。
この場合の「色」はもちろん、色恋沙汰のことです。
【代表作】
『好色一代男』天和二年(1682年)発行
『好色五人女』貞享三年(1686年)発行
武家物
武家物も字面の通り、武家社会を描いたものです。
衆道や敵討ちなど、いかにもな話が多くなっています。
西鶴が浮世草子を書いていた頃は、江戸でも男女比がだいぶマシになってきていて、衆道は廃れ始めていましたが、お話としてはそれなりに人気のあるネタだったようですね。
【代表作】
『武道伝来記』貞享四年(1687年)発行
町人物
町人物も、まぁ、見たまんまの話で、町人=町に住んでいる人々の生活がネタになっています。
西鶴にとっても最も身近なネタだからか、ノンフィクションに近いものもありました。
【代表作】
『日本永代蔵』貞享五年(1688年)発行
『世間胸算用』元禄五年(1692年)発行
雑記物
雑話物は、上記の三つに当てはまらないものです。
親不孝をテーマにした短編集『本朝二十不孝』などがあります。
【代表作】
『本朝二十不孝』貞享三年(1686年)発行
それぞれ、歌舞伎などでも扱われるような題材ではありますが、西鶴の場合は
「当時は不道徳だとされていた事」
「当時生存していた実在人物」
という、なかなか際どいネタを選ぶ傾向がありました。
表現力はもちろんのこと、そうしたネタ選びも世間の高評価を得る理由の一つだったと思われます。
人の「自分では出来ないこと」を創作の世界でもいいから垣間見たい――そんな欲求はいつの時代でも同じです。
下世話なワイドショーやゴシップ誌。
あるいは呼んでいてゾッとするようなホラーやサスペンス。
それらが一定の地位を保ってきたのも、人の本能からかもしれません。
再評価されたのは実に200年後!
こうして見事転身に成功した西鶴。
されど晩年は順風満帆とはいい難いものでした。
儒教主義の政治やデフレ・インフレによる不況など、あまり明るいとはいえない時代と被っているのです。
また、元禄2~4年(1689~1691年)まで、西鶴はなぜか小説の執筆をやめ、一度は決別したはずの俳壇に再び出入りしていました。
この時期の西鶴は肥満体質になっていたようです。
晩年の手紙には「今程目をいたみ筆も覚へ不申候」とも書いているので、糖尿病による眼疾患でも患っていたのでしょうか。
しかし、そうなると、小説の執筆が辛くなるのも仕方ありません。
長時間の執筆には視力と集中力が不可欠ですからね。
面白いのは、他の作家にボロクソな批評をされたときはブチ切れ、著作で反論してたことですね。
まるで現代のブログ&Twitterです。
ともかく亡くなる直前まで執筆を続けていたので、完全に創作意欲が失せていたわけではなかったようです。
西鶴が元禄六年(1693年)に52才で亡くなった後、目立った「浮世草子」作家は出てきませんでした。
パクリやリスペクトレベルのものはあったようですが、西鶴ほどのオリジナリティや速筆がいなかったのです。
というか、作家ってオリジナリティか速筆か、どっちかに振り切れる人が多い印象で、両方MAXな西鶴が珍しいんですよね。
西鶴自身の名も、江戸時代の間に埋もれてしまっています。
再評価されるのは、なんと明治三十年代!
没後200年ほどが経過してからのことです。
もしもずっと埋もれたままだったら……教科書に彼の名や作品は載っていなかったんでしょうね。
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【参考】
国史大辞典「井原西鶴」「浮世草子」






