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井原西鶴52年の生涯をスッキリ解説!一日に4,000句も詠んだ俳人がナゼ小説家に?

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問題です。
関西地方でお坊さんのような髪型の売れっ子作家と言えば?

『永遠の0』や『日本国紀』で何かと話題の百田尚樹氏を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうか。

残念。
歴史的視点で見れば井原西鶴がダントツで正解でしょう。

上方だけに髪型に特徴が……って失礼しました。

江戸時代に『好色一代男』や『世間胸算用』などジャンルに富んだ小説を数多く発表し、人気を博した西鶴。
実はもともと俳句を詠む歌人です。

一体どんな方だったのか。
52年にわたる作家な人生を振り返ってみましょう。

 

幼い頃に父を亡くして家業も捨てて

西鶴は寛永19年(1642年)、大坂の裕福な町人の家に生まれたとされています。

ただし、幼いときに父親を亡くしているので、それなりに苦労をしたでしょう。
曖昧な言い方で申し訳ないのですが、彼はあっさり家業を手代(商家のそこそこエライ人)を譲ると、文学の世界へ飛び込んでいきました。

当時の西鶴は身分が高いわけでもないただの一般人です。
ゆえに細かい記録が残っていないのです(´・ω・`)

後年の回想によれば、15歳の頃に俳諧を学び始め、21歳のときには点者(和歌や俳句の採点をする人)として独立していたと言います。

おそらく西鶴は、もっと小さい頃から俳句への興味関心を強く持っていて、地面が雨を吸い込むように知識を吸収していったのでしょう。

このころ俳諧の作風は大きく分けて2つありました。

ひとつは「貞門古風」です。

豊臣秀吉の右筆でもあった、松永貞徳という歌人の流派。
貞徳自身が歌学のプロなだけに、優美な雰囲気が強いものでした。

しかし、江戸では武士や庶民が多く、滑稽味や荒っぽさがより好まれたため、次第に勢力を弱めていきます。

もうひとつは「談林俳諧」です。

大坂で始まり、伝統的な歌風よりも新鮮さを重んじる流派でした。
それがエスカレートしてしまって、文学的価値があまり高くない句も多かったようですが、それはトレードオフというものですよね。

西鶴は初めに貞門古風の門を叩き、次に談林俳諧の祖・西山宗因(にしやま そういん)に師事していたようです。
結果、両方のいいとこ取り&西鶴自身のセンスで、良い句を多数生み出していきます。

 

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まさに俳句の千本ノック

西鶴が俳人として名を上げたのは延宝元年(1673年)。
31歳のとき、大坂の生玉において「生玉万句」を興行したのがキッカケです。

当時、西鶴ら談林俳諧は、貞門古風の俳人たちから「阿蘭陀流(おらんだりゅう)」とけなされ、肩身の狭い思いをしている人もいました。
西鶴はそれをはねのけようと、わざと軽妙な句をたくさん作る「即吟(そくぎん)」を頻繁に行います。

延宝三年(1675年)、33歳のときには
【誹諧独吟一日千句】
を行いました。

字面から何やらシンドそうな印象を受けますよね?

その通りで、
・一人で
・一日に
・千句詠む
という凄まじいものです。

まさに俳句の千本ノック。

なぜ、こんなコトをしたのか?
というと、この年、妻を亡くしていたことが影響しているのかもしれません。

20代半ばという若さで亡くなった妻。
西鶴は、その悲しみを千句につぎ込んだ気がしてならないのですが……。

 

イベントあったってイイじゃな~い

延宝五年(1677年)。
35歳になった西鶴は、この年にも大阪生玉(いくたま)の本覚寺で
【一夜一日千六百句独吟】
という、これまた凄まじい連句を行っています。

そしてこちらは『西鶴俳諧大句数』と名づけて公刊されました。

いわゆる「矢数俳諧(やかずはいかい)」の最初でもあります。ちょっとややこしいのですが説明しておきますと……。

矢数俳諧とは、京都三十三間堂において行われる「大矢数(おおやかず)」にならったものです。
大矢数とは、一日の間に三十三間堂の南の端から北の端まで射通した矢の数を競う――そんな競技のことで、もちろん、数が多ければ多いほど優れた射手であるということになります。

最高記録を更新しようものなら「天下一」と褒めそやされました。
戦のない江戸時代のことですから、武術の腕を競うのはこういったスポーツ大会のような場だったんですね。

西鶴はこれに着目し、
「大矢数で数が多ければ多いほど称えられるなら俳句にだってあっていいだろう」
と思ったようです。

もちろん、1600句も詠める人はそうそういません……といいたいところですが、二年ほどで二回も更新されてしまいました。
上には上がいる、とはまさにこのことです。

 

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さすがに4,000句ってのは……成功!

西鶴は、歯噛みする思いで再び即吟記録更新を目指し、延宝八年(1680年)に再び独吟を行います。

今度の目標は、なんと4,000句。
しかもバッチリ成功しています。頭おかしい(褒め言葉)。

生國魂神社(ここで4,000句を成し遂げる)/photo by Yanajin33  wikipediaより引用

しかし、これで万々歳とはいきません。

天和二年(1682年)に師匠の宗因が亡くなり、これをキッカケに談林俳諧そのものが下火になってしまうのです。
松尾芭蕉を中心とする、新しい作風が優勢になっていたことも理由でした。

西鶴と芭蕉が同時に語られるということはあまりありませんが、実は彼らは同世代。
その辺も、もしかしたら西鶴の対抗心に日をつけたかもしれません。

西鶴はプライドをかけて、貞享元年(1684年)、大坂の住吉神社において2万3,500句独吟の矢数俳諧を興行し、成功しています。

もう私だったら確実に脳みそパンク。
しかし、それは西鶴も同じだったようで、この後、こんなわかりやすい歌を作っています。

「射て見たが 何の根もない 大矢数」

言わば
「一人で悲願と気合を入れてやってみたが、結局何も変わらなかった」
ということであり、何やら徒労感を感じさせますね。




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”真っ白に燃え尽きた”矢吹ジョーな空気さえ漂っています。

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