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大久保利通/国立国会図書館蔵

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

大久保利通49年の生涯をスッキリ解説・年表付!暗殺に斃れた西郷どん親友

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【人物概略】

大久保利通は1830年、薩摩(鹿児島県)で生まれた。

父は下級藩士の大久保利世で、利通は長男。

幼名は正袈裟(しょうけさ)で、元服後は大久保正助(しょうすけ)と名乗り、後に島津久光から大久保一蔵(いちぞう)の名を賜っている。

幼少期に過ごした下加治屋町には西郷隆盛西郷従道がおり、後に明治維新へ向かっての原動力になったのは歴史ファンにはお馴染みかもしれない。

幕末の薩摩を揺るがしたお由羅騒動では父に連座して謹慎処分とされるが、島津斉彬が藩主になると罰を解かれ、以降、藩内の有力者と囲碁の相手などをして後に島津久光への取次も成功。

出世街道を昇るキッカケを掴む。

1862年に岩倉具視らと公武合体路線を目指し、徳川慶喜(当時は一橋)などにも接近。
京都で1865年に利通(としみち)と名を改め、四侯会議も実現させるが、ここで慶喜とは敵対関係となり倒幕の意を固めることに。

大政奉還で江戸幕府が倒れ、明治維新を迎えると、版籍奉還廃藩置県などの政策を推し進めた。

岩倉使節団の一員として諸外国の技術を見聞し、帰国後は内務卿に就任すると、冷静かつ精緻な政治力は西郷隆盛の鷹揚なキャラクターと対比され、征韓論を巡って分裂は決定的となる。

西郷と袂を分かち、そして西南戦争へ……。

翌年の1878年、紀尾井坂の変で殺害された。
享年49(記事末に年表あり)。

※以下、本編へ

 

薩摩きっての政治家・西郷隆盛とも友達で……

今の平和な日本からは考えもつかないですが、戦前は首相が殺されるなどの物騒な事件が結構な割合で発生しておりました。

暗記しづらい!として受験生を苦しめる二・二六事件五・一五事件などはその最たるものでしょう。
もちろんそれ以前にも同様の事件は起きており、今日あまり注目されずとも影響力の極めて大きかったのが、明治時代における紀尾井坂の変です。

ときは明治十一年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺されました。

このときの地名をとって「紀尾井坂の変」と言われます。

西郷隆盛・木戸孝允と並んで「維新三傑」と称される大久保利通が殺されるという大事件な割に、教科書では一瞬だけ出てきていつの間にか終了という感じですが、彼の生涯は豊臣秀吉ばりに自らの知恵でのし上がっていった稀有なものでした。

一体いかなる人生だったのか? 順を追って見て参りましょう。

 

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囲碁仲間を籠絡して藩主に近づく

大久保は代々薩摩藩士の家に生まれましたが、身分はさほど高くありませんでした。

元々体が強いほうではなかったので、武道よりも学問に力を入れており、討論が得意になっていったそうです。文政十三年(1830年)生まれですから当時は国会議員なんて概念はなかったと思われますけども、結果的にはこれが後々役立ったのでしょうね。

藩への出仕後もこの特技を生かして活躍するはずでしたが、お父さんが薩摩藩の後継者問題・お由羅騒動に巻き込まれてしまい、一時期親子揃ってクビになるという苦難に見舞われます。

大久保家には他に男手がおらず、当然家計は火の車となり、貧しい生活を強いられました。

篤姫の義理のお父さん・島津斉彬が藩主になってから「またウチで仕事をするように」と言ってくれたので、三年ほどで復帰できたのは運が良かったといえましょう。

 

しおりを挟んだ本を贈答 中には政治信条も忍ばせて

その後は自らの機転を生かし、藩の中で少しずつ出世していきます。

例えば、斉彬の次の藩主茂久(島津忠義)に近付くため、その父である島津久光(当時は忠教)の囲碁仲間であったお坊さんを介して手紙を渡したりしています。いわば外堀から埋めていったような感じですね。

この手紙というのがただの手紙ではありません。お坊さんから「久光様が『こんな本読みたいなあ』と仰ってましたよ」という話を聞きつけて、大久保はまずその本を手に入れます。

こう書くと簡単ですが、当時は本の流通が今ほど盛んではないですから、かなり駆けずり回ったようです。この時点で根性パネェ。

若かりし頃の大久保利通さん・相当怖い……/wikipediaより引用

そして「もしよろしければお貸ししましょう」ということで、お坊さんを介して本を久光に渡しました。受け取った久光がwktkしながら本を開いてみると、そこには何やらしおり代わりと思しき紙が入っています。

久光が「抜き忘れたのか?そそっかしい持ち主だな」と思ったかどうかはさだかではありませんが、よーく見てみるとその紙には人名らしきものや、政治信条のような主義主張がびっしり書かれていました。
文字が書いてあると反射的に読んでしまうのは読書好きの宿命ともいえる癖ですが、久光もついついこの紙にしっかり目を通してしまいます。

そして「なかなかしっかりした考えじゃないか。よしこの名前メモっとこ」(超訳)という印象を持ち、まずは大久保とその仲間達の名前を覚えてくれたのでした。

もちろんただの偶然ではなく、身分の低い大久保がまず新しい藩主に自分の存在と思想を知ってもらうために絞った知恵でした。
後々久光からは名前(通称)ももらっていますので、覚えめでたかったようです。このへん、島津斉彬を信奉していた西郷隆盛が、島津久光と険悪だったことを考えると、大久保の方が政治家としての素質を感じさせますね。

一度名前を覚えてもらえれば、政治の中枢に関わることはさほど難しくはありません。順調に出世していった大久保は、やがて京都で岩倉具視などの公家とも知り合います。
そして第二次長州征伐の頃には、藩の去就に口を出せるほどの位置にいました。

久光に本を貸してから10年ほどのことですから、大久保の出世スピードの早さが窺えます。
「主に強烈なインパクトを与えて出世の糸口を掴んだ」という点では、秀吉の「ぞうりを懐で温めました」という話とよく似ていますね。

 

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薩摩なのに荒っぽいことが苦手

元々荒っぽいことは苦手な大久保ですから、倒幕に関することでは真っ先に陣頭に立つというよりは、節目節目で自分の意思を主張するというスタンスでした。
明治維新においては廃藩置県などの大きな改革を担当し、ついに日本全体の政治中枢で活躍することになります。

明治時代に入ってからはその他にも多忙を極め、岩倉使節団の一員としてヨーロッパ諸国へ行ったり、西南戦争など内乱の鎮圧を指揮したりと、自宅で夕食を食べることも難しいほどの忙しさだったといいます。

貫禄がつき始めた頃の大久保さん(サンフランシスコで撮影)/wikipediaより引用

それでも家庭を大事にしており、出勤前には娘さんを抱っこしてから出かけたり、毎週土曜日は家族揃って夕食を摂るなど、微笑ましいエピソードが伝わっています。




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現代のお忙しいお父さんお母さんも真似してみるといいかもしれません。
少なくとも子供に「また来てね」と言われてしまうことはなくなるのではないでしょうか(続きは次ページへ)。

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