稲葉山城

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

斎藤家

稲葉山城乗っ取り事件|半兵衛がわずかな手勢で成功させた 真偽怪しい伝説の中身

2025/02/05

永禄七年(1564年)2月6日は、稲葉山城乗っ取り事件があったとされる日です。

美濃国・斎藤家の家臣である竹中半兵衛が、主君・斎藤龍興を諌めるために手荒な手段で知らしめた――とされる一件ですね。

龍興があまりにもアホだったので、半兵衛よぅやった!ともされているこの件、実は真偽の程は今も不明。

竹中半兵衛/wikipediaより引用

半兵衛の忠義心と頭脳を称える逸話として今に伝えられ、それは以下のような話でした。

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すべての不幸は義龍の思い込みから始まった?

事の発端の発端は、乗っ取り実行日から三十年以上も遡ります。

龍興にとっては祖父にあたる斎藤道三が、当時の主君・土岐頼芸(ときよりあき)から、妾の女性を譲り受けました。

深芳野(みよしの)です。

一応きちんと譲られたのでこのときは特に問題はありませんでした。

しかし彼女が道三の子供=斎藤義龍(龍興にとっての父)を産んで十数年すると、義龍の心にある疑念が生まれてしまいます。

斎藤義龍/wikipediaより引用

『自分の父親は、道三ではなく土岐頼芸だったりしないか?』

現代では民法で「女性は離婚後6ヶ月経たなければ再婚できない」として、子供の父親がわかりにくくなるのを防いでいますが、戦国時代にそんなものはなく、こうした問題は当然のように起こり得ます。

周囲に当時の状況を尋ねてみても、ある者は「その通りです」と言い、またある者は「いやいや、道三様はかなり早くから深芳野と通じてましたから」と言い、真偽の程は不明でした。

ちなみに今でもはっきりしません。

そのためこの疑念は、義龍が成長するにつれ大きくなりました。

それにつけこむ家臣もおり、道三もそのことには気付いていたと思われます。

それでも生かしていたあたり、道三は自分の子だと思っていた気がしますね。

あるいは義龍が【美濃の正当的支配者である土岐氏の血筋】というアピールに使ったという見方もできるかもしれません。

 


道三を死に追いやった義龍自身が5年後に死亡

いずれにせよ義龍は「自分は土岐頼芸の子であり、道三は父の仇だ」というスタンスを取るようになります。

そして”父”に対し下克上を起こし(長良川の戦い)、居城だった稲葉山城だけでなく、道三の財産や命も奪ってしまったのでした。

斎藤道三/wikipediaより引用

しかし天罰が当たったのか。

義龍はその後5年ほどで急死。

まだ十四歳だった息子の龍興が後を継ぐと、後々のことなど何も決まっていなかったため、斎藤家は荒れに荒れました。

ここでやっと半兵衛の話になります。

彼は斎藤家に仕え、この時点で既に織田家との戦いを勝利に導いたこともありました。

性格的にも真面目で実に有能な家臣とされますが、周囲から嫉まれていたせいか、日ごろの放蕩癖からなのか、義龍にいろいろ諫言しても聞き入れてもらえません。

そこで舅の安藤守就という人物と作戦を練り、稲葉山城を占拠するという荒業で斎藤龍興に目を覚ましてもらおうとしたのでした(あくまで言い伝えベースでの話です)。

 

龍興「お前ムカツクからクビ!!」

半兵衛は「城内にいる弟が病気になったと聞いたので、良い医者を連れてきた」とウソをついて、わずかな手勢で城の中へ。

龍興をそそのかしていた家臣たちを次々に討ち取っていきます。

さすがに主君の斎藤龍興は殺さず逃がしました。

この時点でただの暴挙でないことはわかりますね。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

しかし、聞く耳持たぬ相手に何を言っても無駄というのは古今東西のお約束。

半兵衛もおそらく気付いていたでしょうが、それでもいきなり出奔しなかったあたりが忠臣でした。

元々、下克上を起こすためではなく、エクストリーム諫言として城をぶん捕っただけなので、半年後には自ら龍興に詫びを入れて城を返すのです。

結局、龍興は「お前ムカツクからクビ!!」(超訳)と言い出して、この切れ者家臣の竹中半兵衛を放り出してしまいます。

 

斎藤家の凋落と織田家の躍進が始まった

これを機に半兵衛は、美濃から離れて隠遁生活に入りました。

その後、秀吉がいわゆる「三顧の礼」で家臣にしたといわれていますが、

豊臣秀吉/wikipediaより引用

おそらくこれも脚色でしょう。

なにせ彼は、稲葉山城の主になっていた間、織田信長からの「お前すげえな! 城ごとウチのモンになれよ!」(超訳)という誘いを断った、なんて逸話も伝えられております。

つまり「秀吉のほうが信長より人望があったんだよ!」と暗に強調するため、後に創作したエピソードと受け取ることもできるわけです。

どの武将にもよくありますが、豊臣秀吉の場合、出自と出世ぶりを正当化するための逸話が特に多いですからね。

「母親が太陽を身ごもる夢を見て生まれたので幼名を日吉丸にした」とか「半兵衛は秀吉に将来性を感じた」とか「信長より秀吉のほうが性格的に好きだったから」とか、はてさて……。

何はともあれ、この件を契機として両家はどうなったか?

斎藤家はさらに斜陽。

優秀な家臣を得た織田家は躍進。

龍興と信長・秀吉を比較すると、人間生まれつきいろいろ持っていると判断力が育たず、逆に何もなかったり境遇に恵まれないと知恵を絞るものだという良い教訓になりそうです。

半兵衛は、逸話が規格外過ぎて、凡人の参考にならないというか何というか。

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【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
竹中重治(竹中半兵衛)/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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