堀秀政

絵・小久ヒロ

織田家

堀秀政の生涯|信長に寵愛され秀吉に信頼された“名人久太郎”とは?

2025/05/26

天正十八年(1590年)5月27日は、堀秀政亡くなった日です。

織田信長の小姓から出世した武将で、戦が上手、外交もこなせる――例えば伊勢神宮の式年遷宮にまで関わる――など、なんでもこなせて人望も厚かったことで「名人久太郎」と称されます。

同じく織田家臣では内政でも軍事でも重宝された「米五郎左」こと丹羽長秀に相通じるものがありますね。

いったい久太郎こと堀秀政とはどんな人だったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

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小さい頃から頭も顔も良く、信長に寵愛された

堀秀政は天文二十二年(1553年)の生まれ。

毛利輝元と同年であり、歳の近い大名としては他に高山右近や上杉景勝などがいます。

戦国武将としては若い世代というか、戦国時代後半の生まれとなりますね。

主君の織田信長が1534年生まれであり、信長の嫡男・織田信忠が1555年 or 1557年の生まれとされているので、信長と秀政も親子のような年齢差でした。

それがなぜ信長の配下になったのか?

織田信長/wikipediaより引用

堀秀政の父は堀秀重という人で、斎藤道三に仕えており、後に織田家にやってきました。

秀政は小さい頃から顔も頭も良かったので、信長から寵愛されたといわれています。

実は最初は豊臣秀吉に仕えていたのですが

「その綺麗な子、ワシによこせ」(※イメージです)

ということで信長のもとへ移ったともいわれていて、えーと……その先はノーコメントで。

 


柴田や丹羽ら重臣からも頼られていた!?

キッカケはともかく、堀秀政が秀才だったことは間違いないでしょう。

信長の家臣になって三年目、16才で足利義昭の仮住まいとなった本圀寺の普請奉行を任されています。

年齢としても、当時の価値観では大人として扱われる頃合いです。

この寺では足利義昭が三好一派や斎藤龍興らに襲われた【本圀寺の変】が起きています。

信長が秀政に足利将軍と関わらせたのは、おそらく将来を見据えてのことでしょう。

足利義昭/wikipediaより引用

その期待通り堀秀政は順調に役人として成長し、信長直轄地の管理や、朱印状への添状を認めるなど、織田家エリートとしての経験を積んでいきました。

天正五年(1577年)には、加賀へ侵攻した

・柴田勝家
・滝川一益
・丹羽長秀
・武藤舜秀

らの連名で「現地の農民の協力を得られず難儀している」という手紙が、秀政宛てに送られています。

彼らは全員、秀政より一回りも二回りも年上で、当然、信長にも長く仕えています。

そういう人たちから「うまく行っていないから何とかしてほしい」という、ちょっとカッコ悪い内容の手紙を送られたことになりますよね。

恥や名誉に関する意識が非常に高かった時代に、これは地味ながら称賛に値します。

親子どころか孫のような年齢差の秀政が、織田家の重臣たちからの厚い信頼を得ていたということになりますので。

日頃から人当たりよく、信頼されていたということでしょう。

 

光秀の役を受けて長秀と家康の接待も

20代に入ってからは越前一向一揆や雑賀衆討伐などに参加し、武働きもするようになっていきます。

天正10年(1582年)6月には、丹羽長秀と共に徳川家康の接待役を務めていました。

やはり秀政が戦場でも工事でも外交でも役に立つ器用な人だったから「名人」と呼ばれるようになったのでしょうね。

「米五郎左」と呼ばれた丹羽長秀と、経緯も実情もよく似ていたと思われます。

丹羽長秀/wikipediaより引用

また、「堀家で”荷物を運ぶ役と荷物を手配する役、どちらがエライか”という論争になったとき、自ら荷物を担いで歩き、双方を納得させた」というような、部下の人心掌握に関するエピソードもいくつかあります。

まさに順風満帆の秀政。

そんな彼に、戦国史最大の大事件が降り掛かってくるのでした。

そう本能寺の変です。

 

秀吉に合流 秀満を自害させる

家康の接待を無事終えた堀秀政は、明智光秀と同じく、豊臣秀吉援軍のため中国へ向かいました。

しかし、備中高松城(現・岡山県西部)を囲む秀吉の陣につくと、そのタイミングで【本能寺の変】が起きるのです。

信長自害の知らせを聞いた秀政は、秀吉と共に京都へ戻ります。

そして迎えた明智光秀との【山崎の戦い】では、高山右近らと共に先陣を務めることとなりました。

しかも、光秀の親族・明智左馬助(明智秀満)を坂本城に追い込んで、自害させるという武功も挙げています。

この功績もあってか、【清州会議】の後は三法師(後の織田秀信)の代官・守役となりました。

一般的に清洲会議は、織田家の跡取りをめぐって織田信雄と織田信孝が争っていたところ、秀吉が突如、三法師を担ぎ出して、主導権を握った――そんな話がよく知られていますが、実際は異なります。

絵本太閤記に描かれた豊臣秀吉と三法師/wikipediaより引用

三法師が跡取りであることは決まっていた。

しかし、幼いため、その名代に誰がなるか。信長次男の織田信雄か、三男の織田信孝か。そこに柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉らが絡んで話し合いが持たれたのです。

どちらが勝利してもバランスは崩れてしまうため、結果は容易に定まらず、まずは堀秀政が担うということになりました。

秀政が、さほどに信頼されていたということでもありましょう。

なんぜ秀政は、秀吉からの信頼も絶大で、後に血縁者以外で初めて「羽柴」姓を名乗る許可を貰ったといわれているほどです。

その後も柴田勝家(賤ヶ岳の戦い)や家康(小牧・長久手の戦い)に参加し、秀吉が関白になってからは正式な官位ももらい、ますます忙しくなっていきました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

秀政が留守の間は父や弟が城を預かっていたとか。

九州征伐でも先鋒を務め、当然のように小田原征伐にも参加したのですが……その陣中で、突如病気になって亡くなったといわれています。

こんなにデキる人の最期としてはあっけなさすぎるというか、「???」が飛び交いますよね。

そこで浮かんできたのが次のような疑惑です。

 


バリバリ働いていた屈強の武将がなぜか突然死

堀家では「(秀政から見て)親の秀重は長命だったのに、息子の秀治も孫の忠俊も若くして亡くなっている」という摩訶不思議な状態になっています。

戦国時代後半~江戸時代初期という時代背景を考えても、ちょっと不自然すぎやしませんかね……。

秀政みたいに信長時代からバリバリ働いてた人が、戦場でいきなりパタッと死んでしまうものでしょうか。感染症であれば、もっと病死者が多くなって記録も残るでしょうし。

「北条から刺客を送られた」とか「何者かに毒を盛られた」というほうが、よほど自然な気がします。

もしくは、秀吉政権の中核になることを危惧した誰かが……というのもありそうですね。

この頃には秀吉の弟・豊臣秀長(大和大納言)は病がちになっていますし、秀吉にはまだ鶴松が生まれたばかりで、他に子供はいませんでした。

豊臣秀長/wikipediaより引用

秀次は小田原征伐の副将を務めていたものの、他に政治も軍事も担えるような人がいるかというと、少々人材不足な面は否めません。

秀吉の子飼いたちはまだ30歳前後で、経験や外部からの信頼という点でやや懸念が残ります。

他の大名家からすれば、秀政さえ……と見ることもできたでしょう。

 

堀家の子孫たちは生き残った

よく知られているように、この後の秀吉は鶴松を失い、豊臣秀次は自害し、その妻子は秀吉によってことごとく処刑されるという最悪の結果に――。

その後、豊臣秀頼が生まれたものの、信頼できる後見役が前田利家一人になってしまい、その利家すら秀吉の死からさほど時を置かずして亡くなっています。

もし秀政が他の大名に(ピー)されたのだとしたら、そうさせた人物は驚くべき慧眼の持ち主ですね。

こう書くと一人しか当てはまらない気がします。

その名とは、い、い、いえ、いえや……ゲフンゴホン。

徳川家康のしかみ像/wikipediaより引用

まぁ、邪推ですね。

後世から見ているからこそそう思うだけで、実際は運命の悪戯なのかもしれません。

一つ気になるとすれば、彼の肖像画でしょうか。

戦国武将の肖像画は、後年になって描かれた想像図であることも珍しくありませんが、秀政の場合「自画像である」とされる絵が残っています。

それだけでもかなり珍しいものですが、この絵がなんというか……享年38とは思えない、剃髪した老人のような姿なのです。

自画像とされる堀秀政/wikipediaより引用

もちろん、秀政がいわゆる「画伯」だったからとも考えられますが。

うーん、これじゃない感……。

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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
堀秀政/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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