麒麟がくる特集 豊臣家 その日、歴史が動いた 黒田家

中国大返し! 秀吉・官兵衛の10日間で230km強行軍を考察してみる

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あまりに話がデキすぎていて怪しい――。
歴史はそんなエピソードで溢れていますが、中には【事実は小説より奇なり】というのが存在するのもまた現実です。

天正十年(1582年)6月3日に羽柴秀吉豊臣秀吉)が毛利と和睦交渉を始め、翌日以降に起こした爆速大移動の”中国大返し”もその一つでしょう。

本能寺の変から、この中国大返しを経て、山崎の戦いに至り、明智光秀が死ぬまで。

流れがあまりにスムーズすぎて秀吉黒幕説まで流れるほどですが、実際の動きはどのようなものだったのか。

時系列を追う前に、まずは本能寺の変が起きる直前、秀吉がどこで何をしていたのかを見ておきましょう。
戦国大河ではド定番ながら、確実に盛り上がる場面です。

では本題へ参りましょう。

※なお秀吉が備中高松城を出立した日は5日や6日など諸説あります

 

過酷な攻めで三木も鳥取も落としたが

当時、秀吉は毛利家その他中国地方の攻略を命じられていました。

三木の干し殺し”や”鳥取の飢え殺し”といわれる兵糧攻めもこのときやっています。

直接血を流すことはないにしろ、凄惨さではどっちもどっち。
R18Gものの記録が残っていて、そっち方面の耐性がないと気分が悪くなる方もおりますので、ここでは割愛しますね。

歴女医まり先生の考察でご確認いただければと存じます。

鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し人肉の恐怖~極度の空腹でメシ食うと死ぬ

戦 ...

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ただし、城側もある程度は備蓄していますので、兵糧攻めというのはちょっとやそっとの期間ではできません。

鳥取城では半年、三木城では1年以上かかっています。
この上さらに時間をかけまくると信長からどんなお咎めを受けるかわかりませんから、秀吉は調略その他の策も用いて攻略の速度を早めました。

そこで立ちはだかったのが備中高松城とその城主・清水宗治です。

 

攻めあぐねているところへ毛利の両川が!

備中高松城は、湿地帯を利用した珍しいタイプのお城。
周辺はぬかるみだらけで騎馬や歩兵が攻めにくく、さらに兵数も充分なことから城側の士気も高く、さすがの秀吉も攻めあぐねます。

しかもここを落とされると後がないため、毛利輝元以下、毛利の両川こと吉川元春小早川隆景を含めた4万もの援軍が向かってきていました。

一方、秀吉が率いていたのは3万ほど。
毛利方の援軍が来れば頭数だけでも不利な上、城兵の士気はさらに上がり、苦戦すること必至でした。

そこで、秀吉は奥の手に出ます。

武田征伐を終えたばかりの信長に「すいませんこっちムリなんで助けてください」(超訳)と援軍のお願いをしたのです。

信長も「サルが助けを求めてくるとは珍しい。ホントにヤバいんだな」(超訳)ということで援軍の約束をしてくれましたが、同時に「早く落とさねーとどうなるかわかってるよな^^」(超訳)とも書かれていました。

この”援軍”に駆り出されたのが明智光秀だったのです。

 

築いた堤防の高さは7m それが3kmに渡る?

信長から【了承】と【脅し】を受け取った秀吉は、これまた得意の土木工事を使った奇策に出ます。

堤防を作り、近くの足守川の水をせき止め、流れを変えることによって備中高松城の周りを水浸しにしました。
いわゆる”水攻め”ですね。

しかも金に糸目をつけず兵や農民を働かせたので、工事は12日程度で完了。
さらに梅雨に入って雨が降り続き、増水した川の水は一挙に備中高松城へと押し寄せます。

これにより、備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化してしまいました。

秀吉は周囲を高さ約7m×約3kmに及ぶ堤防を築いたとされるのですが(『川角太閤記』)、実際は300mの長さもあれば城を水没させられることが現代の研究から指摘されています。

 

10日間で230キロも移動した!?

こうして毛利の援軍が合流するのを防いだ秀吉は、降伏を待つばかり……というタイミングで本能寺の変が起きました。

前置きが長くなりましたが、ここからは時系列順に見て行きましょう。

【2日早朝】本能寺の変で信長自害

【3日夜~4日未明】秀吉が信長の死を知り、毛利側と交渉を進める

【5日】光秀に味方しそうな武将にウソの手紙を書いて時間を稼ぐ

【5~6日】高松の陣を引き上げて姫路城へ向かう

【7~9日】姫路城到着・明石へ

【9~10日】明石到着後、兵庫へ

【10~11日】兵庫を出発して尼崎・富田へ、池田恒興や高山右近らと合流

【13日】山崎の戦いで明智光秀に勝利

その道程は地図で見ると以下のようになります。

※中国大返しルート(書籍『秀吉の虚像と実像』と『検証本能寺の変』を基に制作)

上記の通り、
「京都から230km離れてるのに、なんでたった1日で信長が死んだってわかったんだよ」
とか
「行軍早すぎじゃね?」
とか、まぁツッコミどころが満載な日程ですね。

秀吉は、間もなくやってくる信長の動向をつぶさに把握しておくため、事前に多くの情報用兵員を置いておいたと言います。
それだけに凄まじい速さで情報を掴めました。

さすがに本能寺の変の黒幕という説はありえないでしょう。

それでもさすがに10日間で230kmは相当な移動距離です。

これがどのくらい早いのか。
ちょっと比較で考察してみましょう。

 

徳川秀忠さんは一日27キロ 兵はついてこれず

パッと思いついたのが大坂冬の陣における徳川秀忠です。
関ヶ原の戦いで遅刻をした秀忠は、今度こそ遅れるワケにはいかず、凄まじい速度で進軍し、そして兵がついてこれず、結局、徳川家康にこっぴどく叱られております。

当時の道程とは違いますが、仮に東名高速経由での東京~京都の距離を計算してみましょう。

これだと東京~京都間は468km。
秀忠は17日間で踏破しましたので、一日27km進んだことになりますね。

秀吉は230kmを10日ですから、一日あたり平均23km。

あれ?
それほどムチャではない?って思ってしまいます。
逆に、秀忠がやりすぎだろう、と。

秀吉はこの間に戦をしたり休息もとったり一日で70km移動したとされる日もありますので、やはりいずれも驚異的なスピードといわざるをえません。
ただし、さすがに全軍この速さではなく、馬を使った者たちですね。

通常の歩兵は、それと比べてかなり遅れて進み、山崎の戦いに間に合わなかった者もいると言います。
まぁ、そう考えた方が自然ですわな。

 

そりゃ秀吉黒幕説なんてのも流れますわな

実際、長距離を歩いたことがある方はわかると思いますが、舗装されたコンクリートの道を現代人が歩くスピードは1時間で4キロがいいところです。
だいたいは3.5キロぐらいで一日10時間、約35キロぐらいが体力の限度です。

戦国当時の道路事情は、踏み鳴らされた土ですから、もしかしたらコンクリートよりは膝などへの負担が軽いかもしれません。
また、鍛えられた兵士であれば(農作業で鍛えられた農民も含む)、現代人よりも辛抱強い可能性もあるでしょう。

しかし、それでも230kmの道のりを進んで、さらに殺し合いの合戦って……。

そりゃ、こんだけのスピードで戻ってきて、さらに本能寺の変を知った経緯がはっきり記録されていないのですから秀吉の黒幕説も出るわけですよね。

光秀と秀吉が協力するというのも、それはそれで考えにくいような気がしますが。
はてさて、この日本史上最大のミステリーはどんな真相だったのか。

ご興味のある方は、以下の記事をご覧ください。
本能寺の変における主な説をマトメております。

本能寺の変真相 なぜ光秀は信長を殺したのか? 数ある諸説を検証!

日 ...

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『秀吉の虚像と実像』笠間書院(→amazon link
中国大返し/wikipedia

 



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