後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

後鳥羽天皇とは?「菊の御紋」を使い始め、和歌に没頭したお茶目キャラ

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元暦元年(1184年)7月28日は、鳥羽天皇が即位した日です。

承久の乱】という、どでかいインパクトを持っているため、皇室の中でも屈指の存在感ですが、意外と親近感や人間くささを感じさせる人物でもあります。

その辺もひっくるめて、振り返ってみましょう。

 

神器なし3歳で即位した後鳥羽天皇

後鳥羽天皇が即位したのは、わずか3歳のとき。

当時は平家が、安徳天皇三種の神器を西国へ持ち去っており、後白河法皇(後白河天皇)と公家の間では、力ずくで天皇と神器を取り戻すか、それとも平和的に交渉するかで意見が割れていた頃です。

その中で、「いっそ、安徳天皇に代わる新しい天皇を即位させてはどうか」という案が出ました。
となると神器なしの即位となるため、さすがの後白河法皇も慎重になります。

占いをしてみたり、公家・学者への下問を重ねて検討したり。
悩み続けた結果、「神器なき即位」が朝廷で公認され、後鳥羽天皇は即位します。

しかし、その後もこの”神器なき即位”は、後鳥羽天皇自身と公家たちの間で精神的に尾を引くことになりました。
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・草薙剣など異名多々)だけは何度捜索しても見つからなかったとされています。

 

天叢雲剣は武力の象徴だからこそ

後に、後鳥羽天皇の息子である順徳天皇が承元四年(1210年)に践祚したときは、かつて平家が三種の神器を持ち出す前に、伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を代わりにしています。

現在もこの剣が熱田神宮に収められているといわれていますね。

その2年後にも剣の探索をさせているあたり、後鳥羽天皇は諦めきれなかったようです。

現代では複数の形代があるといわれていますが、当時は空前絶後のことですから、トラウマやコンプレックスの種になってしまうのも仕方のないことです。

また、天叢雲剣は「天皇の武力の象徴」とされているものです。

正式な武力の象徴を持たなかった後鳥羽天皇が、後々武家のまとまりである鎌倉幕府に敗れた……というのは、なかなかに皮肉な史実ですね。

 

18歳で譲位してから三代にわたって院政を行う

後鳥羽天皇は幼少だったため、即位後しばらくの間は後白河法皇が院政を行いました。
12歳になり、後白河法皇が亡くなってからは、関白の九条兼実が政務を取り仕切るようになります。

しかし、頼朝を征夷大将軍にしたことや、頼朝の娘を入内させようとしたことから、次第に後鳥羽天皇との仲が悪くなっていきました。

一方、土御門 通親つちみかど みちちかの娘が皇子を産んだため、兼実とその娘である中宮・任子は朝廷から追われていきます。

土御門通親は公家である村上源氏の人で、源通親ともいいます。
頼朝たちと直接の親戚関係はありませんが、何らかの接触はあったかもしれませんね。

頼朝自身が、昔、朝廷に出入りしていたこともありますし。

後鳥羽天皇は18歳で第一皇子だった土御門天皇に譲位し、その弟・順徳天皇、順徳天皇の息子・仲恭天皇の三代にわたって院政を行いました。
何だか奇妙な話ですが、当時は院政こそ望ましい政治形態だと思われていた時代でしたからね。

これには「上皇が政治、現職の天皇が儀式を受け持つことでバランスが取れる」という考えもあったようです。
おそらくは、次世代が若い・幼いうちに譲位しておけば、後継ぎとなる皇子が現職の間に産まれる可能性が高まり、皇位継承がスムーズになる……という意図もあったことでしょう。

当時の乳幼児の死亡率からすれば、一人どころか二~三人候補者がいても、疫病などで全滅……ということも珍しくありませんし。

 

譲位後には和歌に熱中 史上最大の歌合も催した

心身ともに成長したこともあってか、後鳥羽天皇は土御門通親や近辺の公家を整理し、鎌倉幕府に対しても強気に出るようになりました。
一方で古来からの儀式や作法を再興・整備したりもしていました。

また、譲位した後くらいの時期から、後鳥羽天皇は和歌に熱中しはじめます。

治天の君=実際に政治を取り仕切っている皇族になって忙しいはずなのですが、積極的に歌会や歌合わせ(和歌の競技会)を開くようになったのです。
藤原俊成・定家親子を中心とした”御子左家”の歌風を特に気に入り、彼らとその縁者に参加を求めたりしていました。

俊成を和歌の師としてからは、後鳥羽天皇自身の歌のグレードも格段に上がっていきます。自分が成長すると同時に若い歌人にも詠進を求め、歌壇全体のレベルが上がりました。

そして建仁元年(1201年)7月には、1500番という超大規模な歌合わせを催しています。
30人の歌人に命じて100首ずつ歌を出させ、披露や勝敗は決めないというものでしたが、それでも和歌史上最大の歌合わせです。

さらに、同年11月に定家らに命じて、この「千五百番歌合」などをベースに「新古今和歌集」の編纂を命じました。

後鳥羽天皇自身も、積極的に歌選びや並び順に意見を述べたということが、定家の日記「明月記」などからわかっています。

「自分が好きなものを大いに盛り上げたい」という姿勢とその規模がさすが天皇(上皇)ですね。

そういえば祖父の後白河天皇も「やりすぎでは?」というレベルで今様(当時の流行歌)を愛好していました。
血筋なんでしょうか。

後鳥羽天皇の父である高倉天皇も、長生きしていればそういう面が見えていたのかもしれません。

 

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は

和歌への熱狂ぶりはかなりのもので、お忍びで町中の賭け連歌の会に行って、勝ったこともあったとか。お茶目すぎです。

それだけに御製(天皇の詠んだ歌)もかなりの数に登り、今回はごく一部をいつもの意訳とともにご紹介しましょう。

・吹く風も をさまれる世の うれしきは 花見る時ぞ まづおぼえける
【意訳】風や戦の収まった世を最も嬉しく感じるのは、桜を心ゆくまで見られるときだ

これは承久の乱の前、建暦二年(1212年)の春に、内裏の「左近の桜」を見て詠んだものだといわれています。
最近では古典の先生が「和歌は昔の人のツイッターみたいなもの」とおっしゃることがあるそうですが、この歌のように身近な文物への感動を表したものは、まさにそんな感じですね。

・人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は
【意訳】世の中のために何かを考えていると、人間のことを愛おしいとも、恨めしいとも思う

百人一首99番に採られていて、おそらく後鳥羽天皇の御製で一番有名な歌です。
これも承久の乱の数年前に詠んだといわれています。

この歌と実朝のスピード出世などを考えわせると、後鳥羽天皇も幕府とどう付き合っていくべきか、かなり悩んでいたのではないか……と思えてきますね。

時代が前後しますが、後に流刑になった後の歌も少々。

・夕立の はれゆく峰の 雲間より 入日すずしき 露の玉笹
【意訳】夕立が上がった山にかかる雲の間から陽が差して、笹に残っている露を照らしているのがなんとも涼しげだ

・われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け
【意訳】我こそは、この島の新しい守り人であるぞ。隠岐の波風よ、心して迎えるがいい

ベースはシンプルに、天皇らしい優美さと、個人的な剛毅さ、そして内心のコンプレックスや気負いなどがなんとなくうかがえる歌が多い気がしますね。

 

源実朝とは藤原定家を通じて気が合っていた!?

また、時が流れて実朝が三代将軍になると、幕府と朝廷の関係が一時的に改善に向かいます。

幕府としてもまだ若いとはいえ、子供がなかなか生まれない実朝の後継者に後鳥羽天皇の皇子を迎え、宮将軍としたい考えがあり、朝廷に打診していました。
後鳥羽天皇としては、悪くない話ですよね。

もしかすると、実朝の歌の師匠である藤原定家を通じて、後鳥羽天皇は実朝に好感を抱いていたのかもしれません。
後鳥羽天皇も和歌については定家から大きく影響を受けたといわれているので、定家は後鳥羽天皇と実朝両方のお師匠様ということもできます。

不思議なことに、定家の歌は技巧的・優美な歌が多いのですが、後鳥羽天皇や実朝は技巧的というより素直な表現の歌が多く、気が合うのではないかと思われるところがあります(※個人の感想です)

後鳥羽天皇の歌を実朝が見たことがあったかどうかは分かりません。

ただ、実朝が定家に手紙で和歌の添削を頼んだことがあるので、可能性としては考えられますね。

また、後鳥羽天皇は実朝存命中は幕府との融和を考えており、そのために実朝の官位を爆上げした、という見方が近年強くなっているとか。

実朝の歌や定家から聞いた印象から
「コイツとならまともに話ができるかも」
と思い、期待していた……というのも、ありえない話ではなさそうです。

その場合、肝煎りとして実朝が上洛し、後鳥羽天皇にあいさつの一つもすれば丸く収まったかもしれませんね。
北条氏が黙らない限り、それも実現しなかったでしょうけれども。

ただし、この考えも、実朝が暗殺されたため一気に収束してしまいました
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